第二章 穏やかな涅槃
第16話 そのときは来る
――振り向いてくれるって信じているから。
――だから、待っているね。
「◯◯さん」
誰かに呼ばれた気がして、俺は目を開けた。
見慣れた古びた天井。カーテンから漏れ出た光。気持ちよさそうな小鳥の鳴き声が、静寂をさざ波のように揺らしてゆらして、穏やかにフェードアウトして消えていく。
揺り戻された沈黙は、寝ぼけた頭に遅れた実感を与えてくる。
あの声の主は、ここにはいないんだと。
俺はしばし呆然と天井を見つめて、鉛のように重たい身体をゆっくりと起こした。ベッドのそばにおいていた水差しを手にとり、コップに注ぐ。
一息に飲むと少しだけ目が冴えた。
「おはようございます、メンター」
「わっ!」
思わず叫んでしまった。
いつの間にか、ベッドの側に椿が立っていたからだ。
「い、いたの……?」
しどろもどろに尋ねると、椿はにっこりと笑う。
「ええ、いましたよ。監視……いえ、そろそろ起床時間でしたので迎えに来たのですが、ちょうど起きられたようで残念です」
「……そうか」
なんか物騒な言葉が聞こえた気がしたけど、気づかないふりをする。
「驚かせてしまってすみません。一応、ノックは鳴らしたんですよ? 反応がなかったので、何かあっては不味いと思い入らせていただきました」
「うん……まあ、いいよ。起こしに来てくれてありがとう」
「いえいえ。当然の務めです」
椿はそう言って、タオルを渡してくれた。温めてくれていたようで少しだけ暖かく、花のいい匂いがする。
顔を拭いて、ゆっくりと息をついた。
「さて、今日の仕事にかからないとな」
「その前に朝食ですよ、メンター。ちゃんと食べてからじゃないと執務室へはいかせません」
「でもお腹空いてないんだよなあ。……はい、食べます」
椿の無言の圧力を受けて、俺は素直に従うことにする。こういうところ、お母さんっぽいんだよなあ……。
社畜時代、ゆっくり朝食を摂る暇なんかなくて、駅に向かいながらコンビニで買ったゼリー飲料を流し込んでいたからなあ。そっちに身体が慣れてしまっているせいで、朝食に対する執着が薄いんだよな。
でも、しっかり食べたほうが仕事の効率が上がるのはわかってはいるので、摂ることが嫌なわけでもない。あまり食欲は湧かないけど。
なるべく胃に優しいものがいいなと考えていると、椿がじっとこちらを見つめていることに気づいた。
「ん? 俺の顔に何かついているか?」
「いえ、そういうわけではないです。ちょっと気になっていたことがありまして」
「気になっていたこと?」
俺が聞き返すと、椿はわずかな逡巡の後に口を開いた。
「昨日の夜、どちらにいたのかなって」
「え?」
やましいことなんかないのに、なぜか動揺してしまう。
昨日の夜はスノードロップに会いに行っていた。花を渡してほんの少し会話を交わしただけである。
もちろんおかしなことは何もしていない。というか、そんなことあの猛獣相手にできるわけがない。こちらがタダでは済まない。
「……えーと、昨日の夜か?」
俺はすぐに動揺を鎮めて、早口にならないように声を出した。椿は瞬きせずにまっすぐにこちらを見ている。怖い。
「昨日はスノードロップに会っていたぞ。あいつとはあまりコミュニケーションを取れていないからな。……まあ、けんもほろろに扱われたが」
嘘を付く意味もないので正直に話す。
椿の目がほんの少しだけ細くなった。
「ふうん、そうなんですね」
「……ああ。なんか不味かったか?」
「いえ、別に不味いなんてことはありませんよ。むしろ下の者にも心配りをしてくださって、有り難いです。リーダーの私としても、なかなか皆と馴染もうとしないスノーちゃんのことは気がかりではあったので……」
「そうか。なら良かったよ」
「はい。メンターはやはり、お優しいんですね」
なぜだろう。言い方も声音も普通なはずなのに、針で刺されるような違和感があるのは。
「そんなことないよ。浮いている者がいたら気にかけるのは普通だと思う」
「普通じゃないですよ。前任の方々はスノーちゃんの態度を見て、どなたもすぐに距離を置いていましたから。私は素晴らしいと思います」
なんというか……妙に高評価で戸惑うな。褒められて嬉しくないといったら嘘になるが、そんな大したことしているわけじゃないと思うし。
頭を掻いていると、椿が窓際に近づいて何かを置いた。
あれは、花瓶だ。
椿は俺の視線に気づいて、小さく笑う。
「少し殺風景なので、彩りがあった方がいいかと思いまして、持参致しました。置かせていただいてもよろしいでしょうか?」
「かまわないけど、一体なんの花を」
持ってきたんだ、と言おうとして固まる。その花は昨夜草むらを掻き分けて探した花だからだ。紫色の薄い花弁が印象的な花。
……偶然だよな?
「……どうしました?」
「あ、いや……なんでもない。綺麗な花だな」
「ええ、本館の裏手で偶然見つけたのです。思わず手にとってしまいました」
「そ、そっか」
偶然かあ……。うん、偶然だよな。
こめかみに冷たい汗が伝うのを感じながら、俺は着替えを手にとった。あまり深く考えてはいけないし、触れてはいけない。
「そろそろ着替えるから、ちょっと出てもらってもいいかな?」
おそるおそる訊くと、椿は薄っすらと口元を緩めて頭を下げた。「かしこまりました」と言って、大人しく退室する。
扉がしまったのを見て、俺はふうっと息を吐いた。
「……心臓に悪いよ」
やましいことなんて、本当にないのに。
着替えを終えて部屋を出ると、俺は待たせていた椿に頭を下げる。
「すまない。ちょっと遅くなった」
「いえ、問題ありません」
食堂へと向かう。
廊下を歩きながら、俺は窓枠に蜘蛛の巣がかかっているのを見つけた。
「……清掃も何とかしないとな」
「すみません。間に合っておらず……」
「いや、前も言ったけど仕方ないよ。この広さをほとんど一人でやってるんだろ? なかなか難しいと思うよ」
「……はい」
椿は少し眉毛を下げて、声を落とした。さっきまでの言外の圧力が嘘みたいにしおらしい。ずっとこうだったら可愛らしいんだが。
「……言っても聞かないかもしれないが、他の連中にも手伝わせないとな。椿にばかり負担を押し付けるのは良くない。もちろん、俺も時間があるときは手伝おう」
「ありがとうございます。……って、メンターが清掃をするのですか!? さすがに上官にそのような雑事はさせられませんよ!? 下の者にも示しがつきませんし……」
「いやいや、逆だよ。雑事だからこそ上の者が率先してやることで示しをつけるんだよ。上長が真面目に取り組んでいたら、さすがに『自分もやらないとな』って考えるだろ?」
「そ、それはたしかに……」
椿が感心したように頷いていたが、こんなのは方便だ。俺の言ったことは、ある程度社会的良識と模範意識のある者に当てはまることだ。あいつらが、そんなことで真面目に取り組んでくれるとは思えない。あくまで、椿の手伝いを正当化する言い分に過ぎない。
しかし、まあ……まるで意味がないわけでもないか。組織の意識改革は小さなことからコツコツと、と前の会社の会長も言っていたしな。ブラック企業を参考にするのもどうかとは思うが。
「メンターの言葉はとても参考になります! たしかに上に立つものだからこそ率先して動くことが肝要ですよね!」
なんというか……椿は真面目というか、ちょっとチョロいところあるよなあ。俺の言葉に盲目的になりすぎているフシがあるから心配になる。
椿の尊敬に満ちた瞳が眩しいな、と思っていると。
俺は心臓を鷲掴みされた。
――突然鳴り響いた、アラートに。
「――」
今まで頭にあった感慨がすべて吹き飛ぶ。神経が狂ったように足先へ痺れが走った。
ついに、来た。
ついに、来てしまった。
俺が、もっとも恐れた瞬間が。
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