第8話 もう頑張らなくていいんです
「恩だって?」
俺は思わず聞き返した。
「ええ。以前、あなたにお会いしたときに助けられたことがあるんです」
「……え、いつだ?」
俺が尋ねると、椿は小さく笑いながらそっぽを向いた。
「それは言いたくありません」
「なんで?」
「なんでもなにも……。自分から教えたくないというのが乙女心というものです」
そう言って椿は、イタズラっぽく片目を瞑った。
どういうことだ? 露木稔の記憶を覗き見たときには、たしかに椿に関する事柄はなかった。あるのなら、会った時点で気づくはずだ。もしかすると露木稔が忘れているか、椿と会ったことを認識していない可能性もあるかもしれないが、彼女の異常な好感度の高さから考えても、そんな印象の薄い留まり方をするのは不自然に感じられる。
「……というのは、まあ冗談ですが。どうしても、言いたくない事情がありまして……申し訳ないのですが、あまり深く詮索しないでいただけると嬉しいです」
先ほどの言い回しが恥ずかしくなったのか、椿は赤らめた頬をかいて言った。
気になるに決まっている。だが、本人が言いたくないといった以上無理に聞き出すのもよくないだろう。
「わかったよ。言いたくないなら深くはきかない。……すまないな、思い出すことができなくて」
「いえ、謝らないでください。メンターがわからないのも無理はないと思うので」
「……そうか」
椿の言い回しはやや不自然だったが、浮かんだ違和感は泡のごとく弾けて消えるほどに儚かった。聞いたところで詮無いことだ。どうせ、彼女は答えない。
「事情を詳しく言えないのは本当に申し訳ありません。でも、あなたにはたしかに恩があるんです。あなたが悩み、苦しんでいるときに寄り添いたいと思うくらいには……」
「よくわからんし俺には実感がないから、正直お前の献身の理由が上手く飲み込めないよ」
「そうでしょうね」
「でも、いずれにせよ……どんな事情があるにせよ、手を差し伸べてくれたことには変わりはないからな。……ありがとう」
頭を下げると、椿は優しく手を握り直してくれた。その手は、気まずくなるほどに柔らかくて温かい。慈愛の気持ちがこもっているんだな、と思える。
その優しさが、どこから発せられているのかはわからない。
わからないが、今はありがたい。
夜道で見つけた灯火のようだ。
「そうだ、メンター。いいものがあるんです」
「いいもの?」
「ええ。気持ちが落ち込んだときに私はよくこれに頼っていて。すごくぐっすりと眠れるんです」
椿は小さなガラス瓶を取り出すと蓋を開けた。俺の手をゆっくりと持ち上げて、瓶を手首に向かって傾ける。とろりとした液体が落ちてきた。冷たい。そして、いい香りがする。
「……香水?」
「そうですね。リラックス効果が高い花の香りを抽出した、私の特別性のものです」
「椿が作ったんだな」
「香水作りが趣味なんです。いい匂いでしょう?」
「……ああ、なんだか落ち着くな」
俺は手首の匂いをかいで、ほっと息をついた。
ほんの少しだが、張り詰めた気分が解れたのを感じる。俺はゆっくりと身体を仰向けに倒して、夜空を眺めた。星が、綺麗だ。東京では絶対に見られないだろうな、こんな美しい景色。
昔、プラネタリウムに家族で行ったことをふいに思い出した。そうだ。あのときみた擬似的な星空にすごく似ている。両親の隣で、その圧倒的な美しさに心を奪われていたな。
……
あいつって、誰だ?
「……なにか、忘れている気がする」
「気の所為ですよ」
耳元に、甘く蠱惑的な声がした。
「あなたは、頑張りすぎているんです。目元のくまがすごいですもの。ね、これまでたくさん我慢して、理不尽に耐えて、すり減らしてきたんですよね……」
「……ああ」
プラネタリウムが、ぼんやりと歪む。
なんだ……瞼が重い。
感情を吐き出して、疲れてしまったのか?
「そうです。あなたは、疲れているんですよ。あなたに必要なのは頑張ることじゃない。働いて貢献することでもない。休息なんです。すり減らした心を、回復させないといけないんです。女神フローラの慈悲に従って、ゆっくりとお休みください」
「休んで……いいの?」
「ええ。ゆっくりしてください。休めなかったぶん、たくさんたくさん癒されていいんです。これまでの、しがらみだらけのすべてを忘れて」
脳みそが蕩けそうなほどに、その声はあまりにも心地よく響いた。ああ、気持ちいい。湯船に浸かった瞬間のあの弛緩が永遠と続いているかのように。
俺の意識は落ちてゆく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
「……あなたは、世界を救わなくていいんです。私と一緒に、安らかなまま」
その声は、落ち行く意識に優しく寄り添い、儚く消えた。
まるで霧のごとく霧散した。
「もう離さないからね、ミノルちゃん」
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