第7話 能無しの弱音



 頑張らなくていいんです。


 頑張らなくていいんですよ。

  

 ――あなたは、もう、頑張らなくていいんですよ。



 


「もっと頑張れよ」


 ホワイトボードを叩きながら、いかつい顔立ちの上司が言った。


 学生時代の柔道で鍛えられた上司の分厚い手の先には、それぞれのチームごとの営業成績が張り出されている。数字は何よりも雄弁で残酷だ。優秀なチームとそうじゃないチームをはっきりと教えてくれる。棒グラフの伸びが一番低いのは、露木と書かれたチームだった。


津行つゆきくん、わかってるの? 君のチーム、これで四度連続月間獲得数最下位なんだけど。どんなプレゼンテーションをさせていればこんな酷い数字叩き出せるんだよ」


「……はい、すみません」


「すみませんじゃないでしょ! 君さあ、もっと危機感持ちなよ。毎回平均値下回ってるの、君のチームだけなんだよ? リーダーとして恥ずかしくないの?」


「……はい」


 俺は頭を下げながら下唇を噛んだ。周りできいている他のチームの連中から含み笑いが聞こえてくる。


 きりきりと胃が痛い。全体朝礼という名の晒し上げで、成績の振るわない俺のチームは毎回犠牲となっていた。とくにリーダーの俺は、性格の悪い上司から標的にされ、社員が見ている中でサンドバッグにされていた。


「ほんと君さ、才能ないよね。人を育てる才能というかさあ。なんで君なんかがリーダー任されてんの?」


「……」


「やっぱ高卒のやつなんかリーダーにするからダメなんだよ。まったく部長は何を考えてるんだか」


 学歴ないやつはこれだから、とぶつぶつ言いながら俺の人格をこれでもかと否定してくる。あんたも三流大学出身だろうが、学歴コンプレックスの塊め、パワハラクソ野郎――。そんな罵倒が脳内を溢れる。


 俺は奥歯を噛み締めて、謝罪の言葉を捻り出す。苛立ちと屈辱感連日の残業による疲労、チームメンバーに対する申し訳なさ。色々な想いが頭の中で乱れ、目眩がするほどに気持ち悪かった。


 もう、嫌だ。


 もう嫌だ。


 上司に言われなくてもわかっている。鈍臭い俺にリーダーなんか向いていないことくらい。俺も俺なりにお客様のためになる提案を心がけてきたつもりだし、メンバーにはお客様第一で動くよう伝えようとしてきた。でも俺以外のメンバーはみんな年上で、若造の俺を舐めきっているからコミュニケーションが上手く行かず、連携が十分に取れていなかった。俺に能力がないからだ。調整力もコミュニケーション能力も、なにもかもが足りない。


 引っ込み思案な、ダメサラリーマンの典型。明るく振る舞っていても、その能力のなさは否が応でも目立ってしまう。能力のなさが周りにバレてからというもの、俺は周りからも侮られるようになり、後ろ指をさされる存在へといつの間にか墜ちていった。リーダーになる前は、みんな俺と仲良くしてくれたというのに。


 メッキが剥がれたんだ。


 俺のダメな部分が、バレてしまった。


「……」


 全体朝礼が終わって、俺はしばしぼうっと佇む。


 誰かの笑い声がした。罵倒されているような気がして、肩が勝手に跳ねた。天井のライトが三つに分裂して見えていた。


 俺は、しばらくしてノロノロと歩き出し、自分の机に戻った。そばにおいてあるモニターには、ニュースが流れている。消音で聞こえないが、テロップには「開花症候群の罹患者が全国で千人を超える」と表示されていた。コロナウイルスの大流行から十年、新たな感染症が日本で広まりつつある。


「……なのに、なんで出社してんだよ」


 空気感染が否定された感染症とはいえ……。マスク着用がとりあえず推奨されただけで、会社の対応は希望的に変わらない。


 きっと今日も残業だ。


 残業、残業、残業、残業……。


 俺はキーボードを叩いてメールをチェックする。お得意先から、商材についてのクレームが入っているのを見つけ、胃が重たくなり、思わず乾いた笑みをこぼした。


 なあ?


 なんで俺は、こんなに必死になって働いているんだ?


 なにか、大切なことを忘れている気がする。


 




「……気の所為なのかな」


 俺は、湖のほとりでぽつりと呟いた。  

 

 プリマヴェーラの風は、花の香りをのせる箱舟だった。湖岸に咲くベゴニアやコスモス、様々な花が手を振るようにそよいでいる。月の光を受けた湖面はぼんやりと光り輝き、跳ねた魚の波紋が綺麗に揺れた。静けさに深みをもたらす水の音、鈴虫の声。


 落葉が、ひらりと湖面に降りてゆく。まるで妖精のようだと思えるほどに、ゆっくりと舞っていた。


 俺はゆっくりと息を吐く。


 重たい気持ちは、ちっとも落ち着かない。


 脳裏に浮かんだ戦場の光景。


 あれから半日は経とうというのに、血の匂いも熱さもまだ肌にこべりついている。悪魔のような化け物たちに立ち向かう冷たい少女たち。そして、スノードロップという少女の殻をもつ化け物。彼らの描き出す残酷が、躍動感が、肌を滑るような怖気が、怒りが、痛みが、俺を苛んでやまない。


 そしてなによりも、頭をかき回したくなるほどの羞恥。


 俺は唇を噛んで俯くと、地面を叩いた。


 無様を晒してしまった。男としてあまりにも情けない姿を見せてしまった。スノードロップの蔑んだ瞳。仕方ないだろう。俺は普通のサラリーマンだったんだ。戦場なんてはじめて出たんだ。分かるわけない。あんな、悍ましい行為を見ただけで受け止められるわけがない。馬鹿が。だからって腰抜かしてんじゃねえよ。あり得ねえだろ。舐めていた。ゲームみたいなもんだって。異世界転生したんだから、ラノベの主人公みてえに軽く受け止められるって楽観視してたんだろ? 阿呆なのか? しょうがねえだろ、俺にはなんのチート能力は与えられてねえんだ。椿の気を遣った半笑い。リンドウやリリーの呆れ顔。ちがうちがう。そんな目で見ないでくれ。そんな、能無しを見るような顔はやめてくれ。


 上司の馬鹿にしきった顔がちらつく。


 同僚たちの、嘲笑が鼓膜の裏側から響くんだ。


 顔が、熱い。わけのわからない怒りが俺の身体を破裂させんばかりに膨れ上がって止まらない。


 ――使えねえな、ほんと。


「……ちがう」


 俺は無能じゃない。馬鹿にするな馬鹿にするな。いや、無能だろうが。弱虫が。視界が、歪んでるぞ。水がふわふわと視界いっぱいに浮かんでるぞ。鼻の奥がつんとする。なんだってんだ。悔しい。恥ずかしい。許せない。無能が。てめえ、なにしにここに来たんだ。転生したんだろうが。転生したら、何かしらの役割をまっとうできる大物になれるって相場が決まってるはずだろうが。なんだ、このざまは。変わんねえじゃねえか。


 仕事もできなくて、役にも立てなくて、何も成せず、何も変えられず、おかしいと思いながらも言いなりになるしかない、あの頃の俺と何も……何も……。


 地面を叩いた拳が痛かった。


 二度殴ろうとして痛みに思いとどまり、拳をほどいた。目から溢れるものが止まらない。


 俺はしょせん、この程度だ。


「……すまない、すまない」


 露木稔、すまない。俺なんかがお前に宿ったせいで。俺はお前を能無しにしてしまった。俺のせいで。お前は、世界を救いたいって思っているはずなのに。俺のせいで。俺のせいで。


「……メンター」


 俺は慌てて顔を拭う。振り返ると、そこには椿がいた。


「……椿」


「その……すみません。どこにもお見かけしなかったので、心配になって探していたんです」


「そうか……。こちらこそすまない。醜い姿を見せてしまったな」


 椿は首を横に振る。


「いいえ。醜いなんて、そんなこと露とも思いませんよ」


「そんなわけ……こんな、みっともないところ」


「思いませんよ」


 椿は柔らかく微笑んで隣に腰掛けてきた。


「隣、失礼しますね」


「……ああ」


 俺が拳一つ分ほど距離を取ると、椿は頬を膨らませ、同じだけ距離を詰めてきた。


「近くないか?」


「近くないです。メンターは、存外恥ずかしがり屋さんなんですね」


「いや、恥ずかしいとかそういう問題じゃないって」


 恥ずかしいのは間違いじゃないけど。


「……泣き顔をあまり見られたくないんだよ」


「そうですよね」


「だから離れてほしい」


「それは命令でしょうか?」


 椿は穏やかな声できいてきた。


「いや、命令じゃなくてお願いだ」


「なら離れません」


「……おい」


「命令ではないですもの。今のメンターは、ほうっておくと崩れそうですから、お願いされても離れたくないです」


「……。なら、命令するぞ」


「メンターがそれでよろしければ」


 椿が真剣な眼差しを向けながら言ってくる。手のひらに熱い何かが触れた。椿の白磁のような手が、いつの間にか俺の手に重ねられていた。指先が震えてしまう。でも、振り払うことはできなかった。


 野鳥の声が、夜の静寂をゆらす。見えない天使が水面を歩いているかのごとく、音もなく波紋が浮かんでは消えて浮かんでは消えて。落ちた花びらが、ゆらりゆらりとアメンボのように流れていた。


 花の香りは、椿の匂いだった。


 黒髪の隙間からのぞく少女の首筋は、月光を吸い込んで白く輝いている。


「……どうして」


 俺は目を逸らし、もう一度口を開いた。


「どうして、椿は俺を笑わないんだ?」


 椿がじっとこちらを見つめる。


「それに……なんでこんなにも俺に優しくしてくれる? 俺達はまだ会って三日も経ってないんだぞ。優しくする義理なんかないだろ?」


「義理はありますよ」


「え?」


「メンターは覚えていないかもしれませんが、私はあなたに恩があるんです」

 



 


 

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