第9話 悪戯な子猫



 

 その少女との出会いは、電車に飛び込んだ直後のことだった。

 

「お待ちしておりました。選ばれし者よ」


 この世のものとは思えないほどに美しい、緑髪の少女。あらゆる花が咲き誇る、色彩に溢れた森とともに、その少女はいきなり俺の目の前に現れたのだ。


 彼女は自らをエリカと名乗ると、ここが死後の世界であることを淡々と教えてくれた。


「……え?」


 混乱しないわけがない。


 たとえるなら、目を覚ましたらいつの間にか遊園地にいたようなものだろう。


 それくらいの唐突さで景色も状況も変わってしまったから、夢なんじゃないかと疑うことしかできなかった。


「……あなたは一体?」


「私はそうね……神のようなものだと思っていてくだされば大丈夫です」

 

「は、はぁ……そう、ですか」

 

「ええ。受け入れがたいでしょうが、あなたの得心を十分に促す時間はありません。なので申し訳ありませんが端的に告げます」


 エリカは淡々と続けた。

 

「あなたの魂は、これから生まれ変わるでしょう。プリマヴェーラの世界に、世界を救う英雄として。聖典に描かれた楽園へ向かうのです」


 そう言われたときの俺の困惑はかなりのものだった。事態をまったく飲み込めない俺に、エリカは「いわゆる異世界転生というものです。あなたの世界の言葉ではこれが一番わかりやすいでしょう」と俗っぽい説明をしてくれた。


 異世界転生。まさか、そんな言葉を聞くと思っていなかった。しかもプリマヴェーラはプリストの世界で間違いはないらしく、ゲームの世界へ生まれ変わることになると聞かされ、俺の戸惑いは増すばかりだった。


 すんなりと納得できるわけがない。異世界転生は、漫画や小説の中だけのファンタジーだ。


 まさかそれが自分の身に起こるなど、思いもしない。


「繰り返しにはなりますが、あなたの疑問に答えている暇はありません。私にはあまり時間は残されていませんし、多くを語ることも許されていませんから」


「どうして? こんな説明で理解できるとでも」


「転生すれば、あなたが何を成すべきかは自然と理解できますよ。そういうものです」


「……」


「さあ、向かいなさい。枯葉逍遥かれはしょうようの描いた聖典プリマヴェーラ・ストラトス。その物語を変え、世界を救う勇者として。あなたの運命を変えなさい」


 俺の、運命。


 その言葉が、鼓動を早めた。


 なぜなのかは分からない。自分の灰色だった社畜人生を変えたいと思っていたからなのか。でも、正確ではないような気がした。


 なにかが思い出せない。


 なにかが、ひっかかる。


「……ひとつ忠告を。フローラのことを信じないで」


 フローラ。


 それは、プリマヴェーラの神の名前。


「あなたは――されている。だから――です。――なんです」


「なにを言っている?」


 エリカの言葉は、ノイズが走ってよく聞きとれなかった。


「――ですか。限界の……よう……。やは……り、逍遥は――」


「おい!」


 突然、彼女の姿が壊れたテレビのように歪んでいく。驚いて駆け寄ろうとした俺にむかって、彼女は最後悲しげに微笑んだ。


「お……ねが……フローラを……して」







「……っ」


 俺は、目を開けた。


 数日見続けたシミのついた天井。瞬きを何度か繰り返し、ゆっくりと身体を起こした。きしり、とベッドのスプリングが音を立てる。


「……夢か」


 あれは、転生した直前のことだ。エリカと名乗る少女から説明不足すぎる説明を受けて、俺は露木稔としてこの世界に転生を果たした。たしかに彼女の言うとおり、転生してから自分の使命を自然と理解できはしたけどさ。ソウルライクなゲームじゃないんだから、もう少し説明があってもよかっただろうとは思う。


 俺は溜め息をついて、ベッドの横に置いていた水をコップに注いだ。


 選ばれし者です、と言われてもね。


 俺のような仕事ができない冴えない社畜を選んでどうするよ。選ぶ人間あきらかに間違えているだろう。それが証拠に、俺は昨日の戦場ではまったくの役立たずだった。恥をかくだけかいて、女の子に慰められる始末。


 こんな情けない人間なんだぜ? 絶対他にも良いやついただろうに。エリカが俺を選んだのかはわからないけど、前の会社の人事よりずっと見る目がない。


「……やめよ」


 自分で考えていて、虚しくなってきた。


 転生してしまったものは、もう仕方ない。いくら疑問を呈したところで、納得のいかない気持ちをもったところで、その事実は変えられないのだから。


 コップに口をつけ、一気に水を飲み干した。


 はたして俺は、世界を救わなくてはならないのだろうか? 露木稔の気持ちもあるから、その志を無駄にはしたくない。だけど、俺自身は一度何もかも嫌になってすべてを終わらせようとしたのだ。これ以上、なにができる? なにもできないよ。それが昨日、嫌というほどに証明されたではないか。


 俺はどうすべきなんだろうか?


 改めて考えなくてはならない。


「……俺はもう眠りたいのにな」


「ん? 眠いにゃ?」


「ああ、ずっと眠い」


「じゃあ寝るにゃ。二度寝は気持ちいいからね」


「そうだな。そうするか……」


 俺は頷いて、停止する。

 

「……」


 隣をみた。布団がやけに膨らんでいる。あれ、おかしいな。俺はこんなに太ってないぞ? なんでこんなにこんもりしてるんだろう。


 おそるおそる布団をめくる。


 目があった。大きくてくりくりした、黄色い猫のような瞳と。布団を下げる。めくる。目が合う。下げる。めくる。目が合う。


「にゃあ」


 少女は手を丸めて、猫のポーズをとった。


「いやいやいやいや! にゃあ、じゃねえよ!?」


 隣に包まっていたのはリリーだった。


 なにやってんのこの子は? 可愛く首を傾げているけど、傾げたいのはこっちの方だよ! なんで布団にいる? わけわからねえ。


「おはよーメンター。眠いって言っていたけど、元気にゃんね?」


「そりゃあ目も覚めるに決まってるよね? いや、ほんと君なにしてんの? つーか、裸じゃねえか!?」


「だってちょっと熱かったんだもん。汗かきたくないし。リリーは裸で寝る派だから」


「そういう問題じゃなくない? お前が寝るとき服着るか着ないかなんか知らないって!」


「えー、そこ重要じゃない?」


「重要じゃねえよ! それよりなんで俺のベッドにいるんだよ!? つーか服着ろよ!」


 俺の至極当たり前な質問と指摘に、リリーは頭の猫耳を揺らしながら考えている様子だった。


「ん〜、なんとなく寝心地が良さそうだから? 服は起きたら着るにゃ」


「さっさと出てくれ。こんなところ誰かに見られたら……」


 リリーが「フラグっぽいにゃんね」と言ってきたが、正直我ながらそう思ったよ。ただ扉は開かなかったので、ほっとした。フラグ回収にならなくてよかったよかった。

 

「さあ、はやく出て服を着るんだ」


「ねえ、メンター」


「なんだ?」


 リリーが、いきなり俺の腕に手を絡めてきた。


「な、なにしてんの?」


「リリーね。メンターのこと好きになっちゃったかもにゃ」


「……は?」


 俺は瞬きを繰り返す。


 なんて言ったいま? 好きになった……?


「はじめて会ったときからいいなあって思っていたんだけどね。……なんか最近目を離せなくなってきて」


 頬を赤らめるリリーが、熱っぽい眼差しで見つめてくる。押しつけてくる身体は、未成熟ながら出るところはでていて、柔らかく温かった。


「それでね、いつの間にかメンターのことばかり考えるようになっちゃって。えへへ……恥ずかしいにゃ」


「……」


 内心ドギマギしながら、俺は離れようとした。だが、リリーは間合いをさらに詰めてきて離そうとしない。潤んだ瞳が、俺の心を溶かそうと見つめてくる。


 正直、わけがわからない。


 好かれるようなことなんて何もしていないし、むしろ無様を晒したんだから、嫌われたり蔑まれたりするのが自然ではないのか? 好かれる要素なんてないだろう、欠片も。


 俺はメニュー画面を開いて、リリーの好感度を調べようとした。操作しようとした手を、リリーが掴んでくる。


「……駄目にゃ。いまは、リリーだけを見て?」


「……そんなこと言われても」


「お願い」


 上目遣いの目は、熱っぽく俺をとらえて離さない。


 俺は目を逸らして、ゆっくりと細い息を吐く。


「わかった、わかったよ。……とりあえず服を着て」


 俺がそう言いかけたときだった。


 気が付いた。


 扉が少しだけ開いていることに。そして、その隙間から――。


 ――仄暗い影を帯びた赤い瞳が覗いていた。


「――」


 俺は思わず息を止めてしまう。


 遅れて気づいたリリーが「ありゃりゃ、フラグ回収したにゃ」と呑気に笑っている。


「……メンター」


 瞳の主……椿は感情の読めない声で呼んできた。 


「は、はい!」


「朝食の準備ができました。すぐに、食堂へお越しください。わかりましたか? すぐに、です」


「わ、わかりました……! 可及的速やかに準備いたしますです!」


「ええ、お願いします」


 バタン、と扉が閉まった。


 嫌な汗が脇から勝手に溢れてくる。


 ああ、これ……ゲーム版ならヒロインが一人消えちゃうレベルのイベントだわ。やばいやつだ。


「あはは、椿姉怖いにゃ〜」


 リリーは自分が命の危機に晒されていることを知ってか知らずか、ケラケラと楽しげに笑っていた。


 まるで面白いゲームでもしているときのように。


  


 

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