第3話 スノードロップ
他の者たちの好感度を調べてみた。
だが、とくにこれといった異常はなかった。出会ったばかりなのだから当然だが、ネコヤナギもリリーもリンドウも初期好感度ステータスの平均から大きく外れる値ではない。尋常じゃないのは椿だけだ。
なぜ、最初から病み状態になっている?
こんな事態プリストにもないから混乱していた。スタートして速攻ヒロインの好感度が天井知らずに上がっていることなんか考えられない。彼女たちは元々別の拠点にいたらしいから、基礎ステータスがある程度高いのは理解できるけど、好感度は別だ。
「……知り合い、って可能性もないよな」
彼はそもそも配属されたばかりの新米メンターだ。アンサスたちとの関わりはほぼない。せいぜい研修のときにアンサスの数名と顔を合わせたくらいで、その中にすら椿はいなかった。
アンサスは完全な人工生命体。元人間という設定ではないから、軍人になる前に知り合ったという線もない。
いくらなんでも謎すぎる。
「わからんな」
俺は独り言ちて、執務室を出た。
現時点の情報ではいくら考えたところで疑念は解消されない。時間の浪費でしかないから今できることをやった方がいい。優先すべきは少しでも多くの情報を集め、本当の意味で自分がどうしたいのかを考えること。
成すべきことは示されている。この世界を救うために外敵と戦うということだ。だが、それはあいつから一方的に示された受動的な選択肢でしかない。「俺のやりたいこと」ではないんだ。
いや、そもそも俺に「やりたいこと」なんてなかった。
自分の人生を終わらせようとしていたのだから当然だ。俺に志なんてものがあるわけがない。疲れたから眠りたい。ただ、それだけ。それだけが望みだった。もうこれ以上は働きたくなんかなかったし、陽の光を浴びたいとさえ思わなかった。そんな絶望しきった鬱病の俺に何を望むというのか。俺はわけのわからないままサイコロを握らせられ、双六に参加しろと言われたようなものだ。
転生させるやつを間違えているだろう。これ以上削れるところがない疲弊しきったやつに、突撃銃を渡してどうする?
俺は廊下を歩きながら深い溜め息をついた。吐いた息は重たく熱い。なのに進む足は、重りを外したように軽い。
なぜ、こんなにも軽く前を歩けるのか。
理由は単純で、この身体はそもそも俺の身体ではないからだ。俺の魂と意志が優位に現れているとはいえ、もとの露木稔の意志が完全に死んでいるわけではない。俺には無くとも、露木稔には信念があった。家族と美しいこの世界を失いたくないという熱い思いが。
だからこそ、その残り火が俺の意思に混ざって、働きたくないのに働くことへの前向きさもあるという、わけの分からないアンビバレントな精神に変質してしまっていた。字面だけ取れば社畜そのものだから、ある意味では元に戻っているというべきだろうか。冷めているはずなのに感情の根底が熱いから、物凄い違和感と気持ち悪さがあった。躁鬱とも違う、説明が難しい気持ち悪い感覚。
露木稔は俺にとって代わられたのに、露木稔はまだ微かに生きている。それがこのややこしさを生んでいる。
だからこそ俺は、この気持ち悪さを解消するために、感情の落とし所を探るために動いていた。
まったく、迷惑な話だよ。
ここがただの天国で、ただ眠れるのならどれだけよかったことか。
俺は階段を降りて正面玄関へと向かう。扉を開けると、チョコレートのような甘い香りのする風が頬を撫でた。空に月が登っていた。信じられないほどに星が瞬いている。
いつの間にか、日が暮れていたようだ。
「……」
俺はメニュー画面を開いて、アスピスの拠点地図を開いた。外壁近くの森林、離れた位置に表示された赤点を触ると「UNKNOWN」という表記が出てくる。
その方角に足を向けた。
一先ず、スノードロップに会おう。
彼女と顔を合わせ、彼女の情報を得るのが、いまできることだ。
月下美人。
俺は、彼女を見た瞬間にその言葉が浮かんだ。
夜にだけ咲く性質をもったその花は、白く美しい見た目から女性になぞらえた名を与えられた。四時間ほどですぐに萎んでしまうから、美の儚さを象徴する花としても知られている。
青いアイリスが咲き誇る中、岩に腰掛けるその少女は、まさに一輪の儚き花だった。
森林の先にある、月の光を望む花畑。
俺はそこで、スノードロップと出会った。
「……」
完全に言葉を失っていた。
この世のものとは思えないほど彼女が綺麗で、嘆息しかこの口からはこぼれない。ウルフカットの白藍の髪が、月光を孕んでいるかのように淡く輝いていて神々しさすらある。
奇跡を見たのだと思えた。
彼女という奇跡を。
だが、俺はすぐにそんな優しい感慨を忘れることになる。
彼女の赤い瞳がこちらを向いた瞬間、息を呑んだ。
そこに込められた、尋常ならざる殺気に。
「……あ?」
赤い瞳孔が小さく引き絞られていき、結膜に雷のごとき血管が刻まれる。小銃のレーザーポインターを当てられているかのような静謐な死の気配が、俺を射抜いた。
なんだ、これは。
嫌な汗が勝手に溢れてくる。
動けなくなった俺をしばらく睨めつけ、スノードロップはなにかを悟ったように「ああ」とこぼした。
「てめえが新しいメンターか」
そうだ、とすら言えなかった。
俺は完全に彼女の気配にのまれていた。
足が勝手に引いていた。本能的に、身体が逃げようとしているのだと気づいて、唾をのんだ。
そんな情けない俺の姿をみて、スノードロップが一笑する。
「は……。覚悟の足りねえ馬鹿がまた来やがったか」
「……」
「失せろよ、木偶の坊」
俺の耳元からその声は聞こえた。
目を見開くことすらできない。スノードロップは、俺の肩に手をおいて囁いてきた。
馬鹿な。まったく動きが見えなかった。俺達の距離は間違いなく十メートル以上はあった。それほどの間合いを一瞬で詰めてきたのか。人間ではない。人間にできる動きではない。
「――っ」
締め付けられるような激痛が肩を襲った。スノードロップが握りしめてきたのだ。
「痛えか? 痛えよなあ。ははは、でもな、戦場で負う痛みはこんなものじゃねえぜ? 化け物どもに腕を引き裂かれ、内臓を抉られてみろよ。発狂もんの痛みだからよぉ」
たまらず悲鳴をあげる俺を、スノードロップは笑いながら締め付けてくる。膝から崩れ落ち、暴れても、スノードロップの手から逃れることはできない。
「俺はてめえらみてえな覚悟が足りねえやつが心底嫌いなんだ。盾に引き込もって後ろからみていることしかできねえ能無しのくせによ。中途半端に戦場にでやがるからムカつくんだ。戦場はピクニックじゃねえんだよ」
「ぐっ……」
俺は痛みを堪えながらメニュー画面を開いた。「行動制限」の命令を発動させる。メニュー画面を調べているときにみつけた「行動制限」は、アンサスが違反行為を働いたときに、そのアンサスの行動をメンターの権限で制限することができるコマンドだ。ゲームにはないルール。
発動すれば、スノードロップは身体を動かせなくなる。
だが――。
「……っ」
スノードロップの力は一向に弱まらなかった。
行動制限が効いていない。
「俺にそんなもん効かねえよ」
スノードロップは淡々と言った。
「俺はてめえらの定めた理の外にいるんだ。てめえらが与えられたクソくだらねえフローラの加護なんざ、何の意味もねえよ」
「な、ぜ……っ?」
「知らねえよ。
ケラケラと、しかしどこか乾いた笑いをこぼしながら、スノードロップは俺から手を離した。ズキズキとした痛みの余韻が、肩に響いている。患部をおさえて呻く俺に白けた目を向けて、冷たく言い放った。
「逃げるならさっさとしろよ。俺はてめえらみてえな弱いやつが嫌いなんだ。どうせ、すぐに死ぬからな」
その赤い瞳には光がない。あるのは暗い虚無だった。
まるで、この世のすべてを憎みきっているかのような。
そんな、地獄を見据えた瞳だった。
「……」
俺は立ち去っていく彼女に何も言うことはできなかった。ただその冷たい背中を見つめることしかできない。
彼女も、俺の知っているスノードロップとは違う。
いや、違うなんてものじゃない。
あれはもう、別人だ。
「……なんだってんだ」
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