第一章:第七話
――グレイン王国、明け方。
清彦と金髪の勇者ヘルマが、ヴァルア大窟四層で遭遇する22時間ほど前。
勇者は硬いベッドの上でふと眠りから覚めた。
赤紫の空から、柔らかな光が降りて街の陰影を象る。
光はまだ微かで、ハウル通りの宿屋二階に降り積もった夜の闇を、少しずつ薄める程度に留まっていた。
目を覚ますには少し早い時間だが、窓の外で争う声がうるさくて眠りを妨げられたのである。
ヘルマはベッドから上半身を起こし軽く伸びをした。伸びをすると、薄いシャツが引き延ばされ、決して大きくはない胸部の膨らみが僅かに衣服を押し上げる。
ヘルマはパーティーで唯一、必ず一人部屋を取るのだが、普段はそれでも警戒して胸にサラシを巻いている。しかし最近になって流石にきつくなってきたので、今では宿屋にいる間で、寝るとき以外にしかサラシを巻かなくなったのだ。
(小さい方だと思うんだけど……サラシ自体が窮屈なんだよね。トルイアやエントスは僕と同じくらいだろうけど、サクラはサラシをつけても戦士用の防具なんか着られないだろうなぁ。そういえば
ヘルマは苦笑しながらシャツを脱ぎ、掛け布団に隠したサラシを取り出して胸に巻き始める。街の喧騒はすでに収まっていた。どちらかが負けた、もしくは殺されたかもしれないとヘルマはぼんやりと考える。
(一応、クエストの報酬金を受け取ったらスラム解体への寄付を提案してみるか。どうせ「街には掃きだめも必要」とか言って断られるだろうけど、仲間からの印象も良くなるだろうしね)
ヘルマは周囲から『
(このまま旅を続けて……みんなにとってかけがえのない存在になった時に、実は女でしたって言ったらどんな反応をするんだろうか? とくに、トルイアやエントスやサクラは)
ほんの一瞬だけ顔全体を歪ませるような大きな笑みを浮かべたヘルマは、すぐに普段の穏やかな微笑をみせた。
さっと身支度を整え、鎧まで装備してベッドから立ち上がる。
「まぁ……今はまだ早いかな」
もっともっと、ヘルマ以外の
――ぐっちゃぐちゃの感情は彼女たちの顔に、どんなふうにして浮かび上がるのだろうか?
「あぁ、楽しみだ。我慢すればするほど気持ちがいいのは、きっと何でもそうなんだろうね」
とても小さな声で呟いたヘルマの声は、もちろん誰の耳にも届かずに消えたのだった。
~~~~~~~~
リティ平原は王都の東西に広く広がっている。メア・クラスのモンスターが発見される事は稀で、オークやリザードと言った強力な種族の生息地でもない。
ギルド公表の平均モンスターレベルは5であり、草刈り程度の整備がされた交易路には荷馬車の姿が散見される。
その
アストライアのメンバーはそこで詳細な話を聞き、さらに南を目指す事で依頼にあったモンスター達を探す事にした。
「くわぁ……眠てぇなぁ」
大きなあくびをして、弓兵の少女トルイアは何度か瞬きをする。革の指だしグローブをした手の甲で、目じりに浮かんだ涙を拭う姿を見て、盾兵の巨漢オルクスが声をかけた。
「ふむ……昨夜はあまり眠れなかったか?」
「うん、夜中の間中ずーっとひっきりなしに怒鳴り声が聞こえるからさぁ」
トルイアはオルクスに対し、普段より少しだけトゲのない声色と口調で応える。やはりその対応は父に向ける子供の口調に似ていた。
ふむ、とオルクスは頷く。冒険者の宿において、実は大きな揉め事は多くない。武器を持つ人間同士では簡単に殺し合いに発展するし、基本的にはパーティーを組んでいるため誰かが止めるのだ。
むしろ凶器の扱いに慣れている者同士、分別があるという側面もある。
しかし宿の外に出れば話は別であった。たいていは飲み屋街が近いので一般人同士の喧嘩もあるが、冒険者用の宿屋でくすぶった揉め事の種火が、闇討ちという形で暴力沙汰に繋がる事も少なくない。
しかも冒険者にとってモラル及び協調性がないという評判は望ましくないので、たいていの場合は口封じの死者が出る。
そういった事情から大きな街の宿屋では一晩に一度くらいは怒鳴り声や悲鳴が聞こえる事も珍しくないのだが、ハウル通りは別格であった。
というか、夜中にストリートファイトの賭博が行われているらしく、歓声と怒号が深夜まで続いていたのである。
そこで酔いつぶれた観客たちが浅い眠りから覚醒するなり「財布がない」だの「殴られた後がある」だのとぼやいて揉め事をおこし、小鳥の代わりに朝を告げるというのが日常風景のようだった。
「確かに、昨夜はうるさかったな。……確か、レイダスという名前だったか? そんなヤツが連戦連勝しているという話までは聞いていたが、俺はその辺りで眠ってしまったな」
「あぁ……あぁ、そうだね。アタシも覚えてるよ、それ。会った事もないけど、そいつが試合するたびにすぐ歓声が上がるもんだから、すっかり嫌いになっちゃったよ」
目の下にクマを浮かべて大きく前かがみの姿勢をとり、げんなりとしたトルイアだったが、隣を歩く緑髪の女性の顔を見て意外そうな表情に変化する。
「エントスは眠れたのかよ? ちっと元気そうじゃん」
「うん。昨日はいびきが聞こえなかったから」
「……へー。そうかい」
つーことは前にいびきかいてたのはアタシか、と思ったトルイアだが口には出さない。ヘルマの前で余計な話題をこれ以上続けたくなかったからだ。
むしろ、さっさと話題を変えたい気持ちである。咄嗟に周囲を確認し、サクラに目を付けた。
「ん? なぁおいサクラ、どうしたんだよ。さっきから黙っちまってさぁ」
普段であれば、大口を開けてあくびなどしようものなら真っ先に突っ込みをいれてくるはずのサクラが、先ほどからずっと沈黙している。
思い返せば、朝の段階、宿屋でトルイアが二度寝したり着替えに手間取っていた時はうるさく小言を並べていたので、調子が悪いというわけでもなかったはずだ。
不思議に思ったトルイアに、サクラは目を合わせず、考え込むようなそぶりをしながら応える。
「うーん……さっき冒険者さん達が言ってた事が気になってて」
「あん? あー、洞窟がどうのってやつか?」
「そう。依頼にあったモンスター達が発見された辺りにあるって言う洞窟。ちょっと気になるのよね」
「……えっと、何だっけ? 食性ってヤツか?」
「うん。依頼にあったモンスターが、もしかしたら餌の関係で変異してるかも知れないから」
一部のモンスターは住む場所によって毒や酸などの特殊能力を得ている場合がある。その理由として、普段どんなものを食べているかで影響を受ける事があるのだ。
例えば、清彦の居た世界でもフグなどは食べ物から毒を体内に取り込んで外敵に備える。そういった作用がモンスターの攻撃にも表れるのだ。
中でも洞窟や湿地帯に住むモンスターは毒の特殊能力を得ている場合が多い。トルイアは昔、サクラがそんな事を説明していたのを思い出したのだ。
「確かに、変異したアーク・モンスターの報告は少ない。サクラの懸念する通り、警戒を強めた方がいいだろうね。……それに、グレイン王国領での仕事は初めてだ。未知の場所では、今までの常識は通じないと思った方がいいと思うよ」
そう言ったのはヘルマだ。自分より少しだけ身長が高いトルイアの瞳を覗き込み、ヘルマ自身の目の下をわざとらしく親指で撫でて見せる。
――トルイアのクマを指摘しているのだった。
「無理はしちゃダメだよ? トルイア」
名前を呼ばれ、いたずらな笑みを受けて顔を赤くしたトルイアは大きく目を逸らして口を開く。
「……っ! う、うるさいな! 余計なお世話なんだよ、バカっ!」
「あはは……ごめん、怒らせちゃったかな?」
困ったような笑みを浮かべるヘルマだが、もちろん演技だ。本心では『ツンデレのメスガキが、誘ってんのかよ』と思っているが、そこにはメンバーの誰一人として気づくことはない。
ヘルマの演技は完璧なのだ。
「……別に怒ってなんかねぇよ」
むすっとした感じで宙を見上げるトルイアだが、耳まで真っ赤になっている。
鍛冶修飾士のエントスがその様子をじっと見つめていた。
「……へぇ」
「なんだよ、エントス」
「別に、ただちょっとあざといなって」
「はぁ!? どう見たらそうなるんだよ!」
「まぁトルイアの事だし、狙ってやってるわけじゃないんだろうけど……なんか寝不足のクマまで伏線に見えるっていうか……天然デレ? 才能ってやつかな」
「……デレだの何だのってのはわかんねぇけど、エントスがイヤミ言ってる事くらいはアタシにもわかるぜ?」
その時、トルイアのすぐそばを歩いていたクナイが、さっとトルイアの耳元に近づいて何やら囁いた。
すると、しかめっ面だったトルイアが眉を潜めつつも、力が抜けたようにため息をつく。
「……わかってるよ。別に怒ってない」
不機嫌そうに言うトルイアを見て、エントスはゆっくりと小さく首を傾げた。
「ねぇトルイア、今、クナイに何て言われたの?」
「……別に。大したことじゃねぇよ」
「ふぅん……あのさ、ずっと気になっていたんだけど、クナイってトルイア以外と喋らないよね」
「……そうか?」
「そうだよ。トルイア以外は声も聞いた事ないんじゃない? ねぇ、オルクスは聞いた事ありますか?」
エントスからの質問を受けて、オルクスは中空を見つめてしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「クナイの声か……いや、聞いた覚えが無いな。一度くらいはあったのではないかと考えてみたのだが……はて」
「やっぱりそうですよね」
妙に得心したようなエントスを尻目に、オルクスは続ける。
「宿屋でも同じ部屋になる事は多いのだが、そういえば話した覚えはないな。そもそもクナイの役割からして、戦闘中の意思疎通でも困った事はないし、普段は必要があればトルイアを経由して伝えてくれていたからなぁ……というか、エントスとサクラはしょっちゅうこの疑問を挙げていないか?」
「だって、気になるじゃないですか。そもそもトルイアとクナイって同じタイミングでパーティーに入ったって話でしたよね? 二人とも髪が赤いし、同じ地域の出身みたいだけど、何も話してくれないし」
そこで、オルクスは話題を遮るように口を開いた。
「しかし、話したがらない事を無理に聞き出すこともあるまい。俺だって、宗教的な問題が無ければ、タパルスの出身である事は出来れば伏せて置きたかったしな」
オルクスが話題を打ち切ろうとしてくれている事に安心して、トルイアは気を張っていたような表情を少し緩める。その様子を横目に、エントスは心底残念そうだが、諦めたようにため息をついた。
ちなみに、クナイはこの話題になってからすぐ、トルイア以外の誰にも気づかれないほど自然にパーティーからやや離れた後方に移動していた。
「それはそうなんですけど……うーん、気になる……」
「……ふっ。まぁいいじゃないか。冒険者パーティーなんて基本的には烏合の衆だ。寝込みや金銭に警戒しなくていいだけでも、珍しいほど信頼感が強いパーティーだと思うぞ」
オルクスの言うように、冒険者パーティーのほとんどは寄せ集めであり、とくに長く活動しているパーティーほどメンバーの入れ替わりも激しい傾向にある。
同じパーティーの仲間とは言え、金銭や物品の持ち逃げ、異性への乱暴や殺傷沙汰も珍しくはないのだ。
「だからこそ、気になるんですけどね」
エントスがぼやくように小さく呟いた時、先頭を歩いていたサクラがふいに立ち止まり、慣性で長い桃髪を揺らした。
「……潰した薬草の匂い。たぶん、ゴブリンが近いと思う」
ゴブリンは種類によるが、基本的には猿と人間の中間程度の知能を有する。独自の言語による意思疎通や、経験則による薬学を扱う種も珍しくはなかった。
しかし自然に親しむ種族である事から薬草の臭いを嫌わず、普段から強い薬草臭を漂わせているのが特徴でもある。
サクラに応えるように、ヘルマが静かに口を開いた。
「……そろそろ、みたいだね。臭いがするって事は、ワイズゴブリンのように高知能の種族ではない可能性が高いかな。様子を見て、行けそうならクナイに先行を頼めるといいけど」
「あー、どうだろうな。地形的には開けてるし、隠れて近づけるかは微妙だが」
答えたのはトルイアだった。ヘルマが振り向き、クナイとアイコンタクトを交わすと、首を左右に振る返事が返ってきた。
「仕方ないね。なら目視して、遠距離武器を持っていない事を確認したらおびき出す方法を取ろうか」
「それがいいだろう。いつも通り、臨機応変というやつだな」
「好きじゃないんだけどね、あんまり」
ヘルマとオルクスが会話をしていると、やがて遠方の草原に影が見えてくる。
ぱっと見では数えきれない数の狼と、
――依頼にあった数と等しいモンスターの集団が、そこには居た。
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