第一章:第五話

 ――何か、思ってたのと違う。そう思いながら、水洗寺清彦は洞窟を歩いていた。


 周囲には唸り声を上げる狼と小鬼ゴブリン、遠方にはコウモリの鳴き声も響いている。

 しかし、清彦の歩みには恐れがない。もちろん下半身は未だに裸で、半そでシャツに靴下とスニーカーという恰好だが、その無防備さも気にならなくなりつつあった。


 周囲のモンスターが道を譲る理由は、先を歩くライム・プルプルト・プリエルの圧倒的な力によるところだ。初めからモンスターたちは何かを恐れるように警戒していたのだが、それでも襲い掛かってきた何匹かを瞬殺してからは、モンスターの敵意が完全に失われたのである。



「間もなく四層への通路が見えてくるはずです」

「……そ、そうか。ありがとう……」


 ございます、を必死に飲み込む。

 一応はライムの神(?)らしい態度を維持していた方がいいだろうという判断から、目の前にいる圧倒的な強者に敬語を使う事をためらったのだ。


 しかし、鳥肌と冷や汗が止まらない。

 目の前の化け物スライムは酸を飛ばしたり、モンスターを呑み込んだり、身体を一部硬化させて殴り飛ばすという離れ業を見せてくれる。

 どういう物理学によるものか――つまり筋肉の代わりに何が働いているのか知らないが――視認できるギリギリの速さで行われるそれは、清彦の目には残像に見えた。


 赤いコアが漏らす光に照らされた、水まんじゅうの残像である。

 そしてその残像が消える頃には、哀れなモンスター達が血の花を散らしていた。


(冗談じゃねぇよ。この世界にはこんな奴らがうじゃうじゃ居るのか!?)


 清彦は目立たないように手の甲でサッと冷や汗をぬぐう。

 スライムといえば、清彦の偏見によればザコ中のザコであった。

 先ほどからの殺戮ショーを見ても、それは中々覆せないイメージである。

 例えライムが強いとしても、この辺りで最強のモンスターだとは思えないのだ。

『全ては鳥山明や堀井雄二のせいかも知れない』と思いつつも清彦はライムの言葉を思い出す。


 ――地上には強力なモンスターも多い、という言葉だ。


 これはすなわち、当たり前だが、ライムでさえ対抗できないモンスターが存在する示唆であろう。清彦はぶるりと身を震わせる。

 目の前のライムでさえ、人の顔面をでろでろに溶かして、硬化した一撃で内臓を破裂させる事が容易いはずだ。

 実際にライムが狼を殴ると、相手は血で膨らんだ水風船のように破裂して四散したのだから。


 しかも、そんなライムに瞬殺された狼ですらも火を吹く。

 その火に燃やされれば人間はあっけなく死ぬ、学校でも習わないほど当たり前の事であった。

 とくに仕事終わりの深夜に死んで転生したばかりの、すなわち丸一日ほど風呂に入っていない三十歳のアブラギッシュが合わさればよく燃えるだろう。


 つまり、普通の人間ならこんな洞窟で生き抜けるとは思えないのだ。


(……しかし風呂か)


 清彦の胸に恋に似た気持ちが去来した。彼はそれなりに綺麗好きな男である。

 毎日の風呂はもちろん、洗顔やスキンミルクによるケアに加え、最低でも二か月に一回は美容院に行くタイプだ。


 それは二十代前半の頃に鬱病で風呂に入らなかった時期の反動かも知れないが、今となっては本人にもわからないところである。


 風呂に入る自分を想像して、喜びと口惜しさの感情がぐちゃぐちゃに入り混じった。

 少なくとも、ここはダンジョン。熱い風呂での入浴なんて望むべくもないところなのだから、複雑な気持ちも当然というものである。


(でも……せめて風呂と歯磨きくらいは済ませたいなぁ)


 理想としてはもちろん入浴だが、最低でも汚れを落とせれば良い。水魔法は確かに便利だが、お湯ではないのだ。皮脂を落とすという意味では頼りない。

 それに、これはもっとも重要とも言えるところなのだが、MPという存在の有無についても考慮するべきだろう。魔法が何の消費もなく生み出せるなら苦はないのだが、恐らくそれはない。


 大昔のエジプトで始まったとされる錬金術は、鉄を金に変える事は不可能であると実験的に証明したのだ。水魔法を放つなら、どこかから関連する原子を持ってきて、射出するだけのエネルギーを発生させなければならない。


 ――そんな事は不可能である。低学歴な清彦に具体的な想像は不可能だったが、不可能である事は漠然と想像できた。聖水の構成に必要な原子と射出のエネルギーを周囲の外気や清彦の内包カロリーから抽出及び変換出来たとして……いや、もう無茶苦茶な話である。

 トンネル効果で人間がマントルまで落ちるような話だった。つまり机上の空論である。


 とにかく、自分がどれだけ魔法を使えるかについては考慮すべきなのだ。百回使ったら二度と使えなくなるかもしれないし、毎日ニ十回使えるような代物かも知れないのだから。


「しかし……はぁ」


 思わずため息がこぼれる。これからどうすべきだろう、という不安が脳を渦巻いているのだ。『王』になるという目標を与えられたものの、今の自分は地上から遠ざかってむしろダンジョンの地下に向かっているのである。


 ぶっちゃけ、ライムの力を見る限り、彼女?(声が女性的だが性別不明。雌雄同体の可能性が高い)に敵うモンスターがイメージできないのだが、現在のヴァルア大窟三層以下はライムをして厄介と言わせしめる連中の巣窟だとか。


(しかもライムは地上へ行くのを拒んでいるみたいだし! ……ライムの力でこの洞窟を制圧できれば、もしかすれば『モンスターの王』と名乗る事は出来るかもしれない。武力でも制圧すれば事実上の王と認められるだろう。――理想論かな? しかし、ライムが言うにはこの洞窟の四層にある聖水は彼女を強化できるらしいから、意外とこの洞窟を制覇できるかもしれない。ぶっちゃけゲームやアニメじゃないんだし、動物を溶かしたり酸を飛ばせるスライムとか無敵だろ。……しかしスライムという種族がどうにも引っかかるなぁ)


 考え込んでいた清彦がふと現実に戻る。目の前のスライムが自分の方を――顔がないため恐らくだが、体内の赤いコアが清彦の方に寄せられているところから推察するに――見上げるようにしながら、身体を小刻みに震わせているのが見えたからだ。


 思わずぎょっとして身構えた清彦に、ライムの怯えるような声が聞こえる。


「……如何いたしましたか? 我が主よ。何かご不快な思いをさせてしまいましたでしょうか?」

「え?」


 彼女の怯えに心当たりなどない。……いや、疲労から無意識にため息くらいは出ていたかもしれない、と思い当たった。

 思えば自分は14時間の勤務を終えて自宅へ帰る途中に死んだのである。そして女神に会い、そのまま異世界転移だ。

 残業時に少しハイだったためか眠気はあまりないが、動悸がある。ため息くらいはつくだろう。


「……まさか、わたくしの戦闘に何か不満がございましたか? 細心の注意を払っていたつもりでしたが、まさかお身体に返り血でも? それとも、敵の全滅が目的でしたか? お望みとあらば、あの程度は今からでも」

「い、いや! 待て待て待て、……いいっ! いいから! ら、ライムの戦闘はため息が出るほど素晴らしいと思ってなぁ!?」


 咄嗟に無茶苦茶な事を言ってしまうが、ライムには好印象を与えたようだ。――そんな事ありません、的な事を言いながら、左右に伸び縮みして喜んでいる。……たぶん、喜んでいるはずだ。


 別にわざわざ全滅させる必要はない。清彦としては、とにかく安全に王になる事だけが目的なのだから、王になる目途が立ってない以上は安全こそが優先である。

 どんな強さのモンスターが居るかわからない以上、要らない戦闘は避けても良いだろうと思うのだ。


(そう考えるとやっぱり地上に出たいよなぁ。まずは四層に向かうというのがライムの希望だが、それが終わったら地上へ行くように何とか説得しよう。地上と地下のどっちが危険かなんてわからないが、今は建物の中でぐっすり眠りたい。出来れば布団があるところで……)


「主よ。もし何かご要望があればいつでも何なりとお命じくださいね。きっとご期待に沿った働きをお見せしますから」


 ライムは張り切った様子で言う。さきほど褒められてぐぐっとやる気が上がった事もあるが、元々何とか清彦の役に立ってみたいという気持ちが強い様子だった。


「何でも、か……」


 清彦は仕事終わりのルーティーンを思い浮かべる。


(仕事終わりはだいたい冷凍食品とハイボールで飯を済ませて風呂に入るんだよなぁ……。酒はぼーっとするために飲むだけだからいいけど、冷凍のチャーハンが食いたい。やっぱり仕事終わりのストレスは味の濃い食べ物でしか癒せないんだよな。ハンバーガーもいいなぁ)


 しかし、いくらスライムに命じたところでジャンクフードは出てこないと清彦にもわかる。

 そんな夢物語より、まずは食べ物の確保から始めるべきだろう。実はさきほど、ほんの少しだけ狼の肉を焼いて食べてみて、今は数時間経っても腹を壊さないか確認中だ。

 どんな菌が存在しているかわからないので素人なりに警戒したのだが、問題がなければ今後はライムに頼んで狩猟してもらう予定である。


 食事はそれでいいのだが、清彦にはもう一つ差し迫った欲求があった。それは――。


「なぁ、ライム。それじゃあ、寝床を用意してもらう事は出来るか?」

「……ね、ねどこ? でございますか?」


「そうだが……ええっと、伝わらないか……。そうだな、ライムは寝るときに何かを下敷きにしないか?」


 そもそもスライムって眠らない種族なのか? 失言だったかな? と清彦は考えたが、杞憂だったようである。


「……申し訳ありません。とくに何かを敷いてその上で眠るという事はありませんが……し、しかし! ご希望があれば教えてください! すぐに、その、ねどこ!? をご用意いたしますので!」

「そうか、じゃあ……ふわふわで柔らかいものがいいな。俺が横になれるサイズで、そういうものを用意してもらえないか?」


(狼の毛皮で作る布団とかよさそうだよなぁ。ナイフはないけど、適当な石とかを使って剥いで水魔法で洗えば……いや、篝火かがりびでお湯を沸かして煮沸消毒もすべきか……ダニとか怖いし。――でも、何だかサバイバル動画っぽくてワクワクしてきたなぁ。ライムと一緒に作業とかするのも楽しそうかも。インドア派で友達も居なかったけど、誰かとキャンプとか行きたいって願望はあったんだよなぁ)


 穏やかな笑みを浮かべる清彦がふと視線を感じて下を向くと、キラキラとした粒子を浮かべるライムのコアと目が合う。


「で、でしたら! 私の上などはいかがでしょうか?」

「……は?」


「わ、私の上で! お休みになられてはいかがでしょうか、と! ふ、ふわふわでやわらかいと思いますよ! きっと!」


 ――えぇ? ぶにゃぶにゃでべちゃべちゃの間違いじゃないか? と思いつつ、清彦はウォーターベッドという言葉を思い出した。


(似たようなもの、なんだろうか? というか、ウォーターベッドって本当に水が入ったベッドの事であってるのか? どんな感じなんだろう? 職場の人が大人のホテルにあるって話してた気がするけど……結局一回も入らずに死んじゃったなぁ)


「……そうか、じゃあ、後で試してみるよ」


 ぱぁっと、スライムの表情が明るくなる。実際には水まんじゅうの中でラメみたいなものがキラキラ光っていた。

 実際、ライムはぺたんと広がれば直径2メートル強の円形になる事が出来る。もちろん楕円形も可能だ。

 身長が低い清彦にとっては十分なベッドになりえる。


(含水量はどうなんだろう……。横になったら髪の毛が引っ付いて痛い思いしないよな? それどころか、ご、ゴブリンみたいに溶かされたりは……無いと信じたいが)


「……それにしても」


 ライムの伺うような声が、清彦を思考の渦から現実へ引き寄せる。


「ずっと疑問だったのですが……主は、なぜ人間種のお姿をされていらっしゃるのでしょうか?」

「……え?」


 想像もしていなかった質問を受けた清彦は、子供から『どうして空は青いの?』と聞かれたような気分になった。『なぜ人は愛し合うの?』とか『なぜ人は争うの?』でも良い。

 もちろん童貞で他人との繋がりも希薄だった清彦が子供から質問を受けるような場面はなかったので、これはイメージである。


「なぜって、そりゃ」


 人間だもの、と言いかけて慌てて口を閉ざした。冷静に考えろ、と清彦は心の中で自責する。

 自分はライムにとっての――おそらく神なのだ。

 それは水魔法だけを頼りにした勘違いであり、逆に言えば清彦と――人間とスライムの繋がりはたったそれだけである。


 だからこそ警戒すべきなのだ。言葉を間違えれば、行動を間違えれば、ライムの従順は霞みの如く消え去り、一人の人間が洞窟の赤黒い絵の具になるのは明白である。


(でも何て言えばいいんだ?)


 清彦の脳裏にアニメやゲームに出てきたスライム系キャラクラー達が浮かんでは消えていった。

 中には、骨も筋肉もなくどうやってそれを維持できるのか知らないが、自由自在に姿を変えるキャラクターもたくさん居た。アダルトアニメにもそんなキャラが居た事を思い出す。しかし――。


(出来るのか? そんな事が……もしこの世界のスライムに擬態能力が無いとすれば、俺が嘘をついていると証明する事になるよな)


 もし『人間に擬態してます』と言った場合、ライムはどんな反応をするだろうか。清彦は二つのパターンを頭に浮かべた。

 一つは言葉通りに受け入れられ、これからもライムが尽くしてくれる想像である。

 もう一つは『なめんなよ嘘つき』のセリフと共に頭蓋骨を粉砕されるイメージだった。


 この世界では死んでもよみがえると思われるので、殺されるだけなら――決して良くはないが――容認できる。

 しかし蘇り方がわからない。ゲームみたいに元の身体で蘇ればわかりやすいが、赤ちゃんからやり直す可能性も無いとは言い切れないだろう。


 もしかしたら、蘇った時に水魔法の能力は失われるかも知れない。そもそも何よりライムという戦力は出来るだけ自分のもとに置いておくべきである。

 ……頭を使うことだらけだ、と清彦は思う。

 二度と蘇る事がなければ、それがいちばん楽でいいのに。


「……ライム」

「は、はい!」


 名前を呼ばれ嬉しそうにする水まんじゅうに、清彦は空っぽの頭で呟くように告げる。


「その理由については――今は話すことが出来ない。許してくれ」


 『逃げたな』と自責する清彦と、『自分、中々ええやん』とフォローする清彦が頭の中で溶け合い、やがて『どうにかなるだろう』と主張する清彦だけが残った。そんなふうにして生きてきたから三十歳童貞でかつ自己肯定感の低い人間になってしまったのだが、結果さえよければ世の中は回る。


「か、かしこまりました!」


 ライムは声量を抑えつつ、緊張感のある声で返事をした。まるで、手違いで重要機密を共有された若い兵士のようだ、と清彦は思う。


(いつか、彼女の想像していた救世主の姿について聞き出すべきだな。やっぱり粘液みたいなヤツなんだろうか。鼻水とか見せて、じつはこっちが本体なんだって言ったら喜ぶのかな?)


 今後の課題について思いを馳せていると、奥の方で景色の変化があった。

 通路の先に、闇の壁が出現したように見えたのである。

 疑問に思ったが、迷いない足取り(?)のライムに従う形で清彦は歩を進めた。


 やがて、徐々に闇の壁が薄くなっていく。正確には、ぼんやりとした灯りに照らし出された輪郭が、近づく事で視認できるようになってきたというのが正しい。


 洞窟の先は円形の、およそ直径2kmほどの大きな空間になっていて、遥か地底へ続く大穴が開いていた。通路は外周部に沿って下り坂になっており、ライムの話ではそれが四層までは続いているらしい。


 坂の先は見通せない闇に続いている。上空から落ちてくる濁った光と、壁面へきめんに取り付けられた篝火かがりびでは光量が足りないという事もあるが、一階層下へ進むにもかなり下まで降りる必要があるようだった。


「……ここを降りていくのか」


 辟易しながら呟くと、ライムは清彦の感情に気づかない様子で応える。


「はい。ここからしばらく下っていくと、また壁に通路が見えてきます。四層は……ええと、少し面倒な……いえ、何と言いますか、とにかく変なヤツが縄張りを構えているのですが、地底湖までは主を安全にお連れ出来るはずです。……失礼いたしました、安全にお連れ致します。必ず」


 かなり歯切れの悪い言い方に、清彦は不安になった。しかし、着いていく以外の選択肢はない。

 すでに地上へ向かう提案は却下されているし、ライムから離れれば狼やゴブリンに対抗する方法が思いつかないからだ。


(せめてどんな奴が居るのか聞いたほうがいいかな? ……いや、やめておこう。聞いたってどうせ俺に出来る事なんてないわけだし。むしろ、忘れてしまうのが良いだろう。怖いし)


 後回しは清彦の習慣である。目の前の問題を上司に報告せず何度も痛い目をみたにも関わらず、それは直らなかった。


「さぁ――参りましょう」


 ライムの言葉に従って、清彦は緊張に顔を引きつらせながら闇の地下へ進むのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る