第一章:第二話

 価値のない人生だったと思う。

 学生時代には居場所を求め、社会人になってからは生きる理由を求めた。

 二十五歳を超えたあたりから考えるのが面倒になって、結局のところ意味や理由なんて最初から存在しなかった事に気づいた。


 ずっと空っぽだった生活をゲームとアニメで満たす日々。

 ――満たす? 果たして満たされていたのだろうか?

 俺は人生を満たせるほどゲームやアニメを愛していたか?

 あるいは、決して埋められない空白を適当なもので埋めたつもりになっていたんじゃないだろうか。 


 今となっては何もわからない。五年間も考える事を辞めていて、そして俺はついに死んでしまったのだから。

 夢も未来もどうにもならない。どうせ裏切られるなら最初から期待なんてすべきじゃないんだ。

 いつもそう考えてきたはずなのに、俺は結局――また『期待』を裏切られたのである。


「……そうだろうよぉ、女神様……っ!」


 複雑に入り組んだ薄暗い洞窟。俺はその脇道の影で息を殺して身を潜めていた。

 複数のモンスターが鳴らす足音と鳴き声の共鳴は近づいては遠ざかってを繰り返す。

 ……どうやらひとまずは気づかれていないようだ。


 震える息で静かに深呼吸する。――開幕からひどい有様だった。

 女神の部屋から転移した先は狼のようなモンスターの住処、そのど真ん中であり、咄嗟の事で悲鳴を上げてしまった俺は十匹を超える狼(なぜか火を吐く)から追われるハメになってしまったのである。


 途中から巨大なコウモリや茶色いゴブリンなども交じって追いかけられ、かといって抵抗する方法もなくガムシャラに逃げ回っていたところ、なんとか曲がり角からすぐの脇道に飛び込む事で追っ手を振り切ったのだった。


 洞窟の大半は篝火かがりびの灯りで問題なく周囲を確認できる。

 しかし今 俺が身を隠しているような脇道はぼんやりとした青白い光で照らされている為、足元まではよく見えなかった。

 今は何とかバレていないが、洞窟に住む生き物は嗅覚に優れている可能性が高い。

 同じ場所に隠れ続けるのは危険だろう。


 ――まさに地獄だ。油断していたつもりもないが浅はかだった。

 あの女神が異世界モノっぽい感じとかいうから、【だだっぴろい草原】とか【神聖なる森の祭壇】とか【城の地下の儀式場】とか、そういう場所に転移して、『美人なヒロインとの出会いから始まる大冒険!』みたいなものを心の何処かで期待してしまっていたが、完全に迂闊うかつだった。


 そもそも女神はこの世界を『懲罰用の箱庭』と言っていたのである。あの陰湿の権化としか表現できない女神が。せっかくモンスターから生き延びたのだから、今からでも気を引き締め直すべきだろう。


「……それなら、まずは女神アイツからもらった魔法の使い方だな」


 女神は俺に魔法をくれると言っていたが、使い方についてはまったく教えてくれなかった。

 何なら身体の感覚に変化が無いから、本当に魔法をもらえたのかどうかすらわからない。

 わからない……が、しかし水魔法の使用は火急かきゅうの要件である。


 何故なら――いや、先に説明が必要だろうか。


 これから諸君には『内痔核ないじかく』について お話したい。

 内痔核とは肛門の内側に出来た腫瘍しゅようで、ざっくり言えば『いぼ痔』と呼ばれる病気の一種だ。

 ちなみに大きさは大豆だいずくらいである。枝豆一粒くらいと考えてもよいだろう。


 ――こんな状況で何を言うのか。

 健常な諸君らは俺の気が狂ったと考えて呆れたかも知れないが、今このタイミングで内痔核の説明は必須なのである。


 さて、いぼ痔は内痔核ないじかく外痔核がいじかくの二種に分かれる。

 中でも内痔核は≪痛覚がない為に痛みを伴わず、通常は肛門の内側に収納されている≫というのが特徴だ。つまり普段は生活に支障をきたさないのである。


 ところが排便時(わかりやすく大便ビッグ・ベンと言ってもよい)には例の茶色い物体と共に痔核が肛門の外側に飛び出し、病状によっては指で押し戻さないと肛門へ収納されない。

 ――俗にいう【エターナルこんにちは状態】、またの名を脱肛だっこうと呼ばれる状態におちいるのだ。

 痔が肛門の外に脱出するから脱肛、わかりやすいね。


 さて、脱肛した痔はちょっとした刺激で激しい出血を伴う。

 トイレットペーパーですら大量出血を招くデリケートゾーンを、文明の欠片もない異世界洞窟で適切に対処するなら水魔法を用いるしか無いのである。

 そして俺はこの瞬間の為に水魔法ウォシュレットを選んだと言っても過言ではない。


 ――そう。もう察しの悪い諸君らも気が付いた事であろうが、俺は漏らしたのである。


 仕方がないさ。モンスターから逃げるのは精神的苦痛を伴うし、ストレス社会の犠牲者である三十歳童貞の俺は過敏性かびんせい腸症候群ちょうしょうこうぐんという、一言で言えばすぐ下痢になる病気を患っているのである。


 逃げ込んだ脇道で座り込んだ時、ちょっとガス抜きのつもりで肛門を緩めたらあっさりと弾丸発射に至った事も、全ては女神が作った地獄の作用に違いないのだ。

 何かスゴい地獄的なパワーで肛門を普段よりガバガバにされていたのだろう。


「……いずれにせよ、いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかないよな」


 すっと立ち上がる。もちろん下半身は脱衣済みだがチンブラに構っている余裕はない。

 ……心を無にして指先に意識を集中してみる。


「……ウォーター」


 呟いてみるが、とくに反応はない。ならば……。


「ゥワーラァー」


 ネイティブっぽくねっとり言ったがこれでも変化はないようである。呪文の詠唱が必要なのか?

 少しずつ肛門が痒くなってきて冷や汗が頬を伝う。

 事態は着々と進行しているのだ。――俺の焦りを置き去りにして。


「……深海を踊る威容いよう残滓ざんし、死者をいざなうは銀の泡。永遠を騙るじゃの魂を、その清廉せいれんにてしずめたまえ。――ウォーター……ッ!!」


 適当にそれっぽいポーズでそれっぽい呪文を唱えてみると、指先に少しだけ青い光が浮かんだ。

 実際に魔法を出す事は出来なかったが、何となく魔力を感じる事は出来たような気がする。


 それと同時に身体の内側から『……うーん、ちょっと長いねんなァ』というエセ関西弁が聞こえたような気がした。誰だか知らんがちょっとムカつく。

 俺に与えられた魔力の声だろうか? だとしたらすげぇ嫌だ。


 とはいえ方向性はわかってきた。さっきの詠唱みたいに中二病っぽくて、もっと単純な詠唱ならば俺の中のエセ関西人も納得するのだろう。咄嗟に思いつくセリフは……。


「我がケツ穴に応えよっ……!」

『それやァ!!』←内なる声

「――ぅ゛お゛ぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?!?」


 エセ関西人の嬉しそうな声と共に、肛門を破壊するような衝撃が訪れた。

 ――水魔法セイレーン発動カミングである。


 ……いや待て待て待て! ケツに当たるのは良いが水圧が強すぎる!

 まるで消防車から放水されているかのようだ。デリケートな内痔核はウォシュレットですら傷つくというのに、このまま魔法を受け続けては大量出血必至である。

 咄嗟に腰をねじって回避を図るが、水は完全に肛門を追従してきた。

 侮れない、これが魔法の力だと言うのか。


「ひゃ、やめ、止めてへっ……とめ……止めろっ……!」


 ……すん。どうやら言葉による命令で魔法を止めることが可能らしい。

 周囲のモンスターを警戒するあまり命令が遅れて肛門へのダメージが拡大してしまったが、何はともあれ汚物は流れただろう。

 安堵のため息をこぼしつつ指で痔を肛門へ押し戻した。


「……かなり弱い感じで我が指先に応えよ」

『なんやイマイチやなァ、しゃーないケド』


 ちょろちょろと流れ出る水魔法で痔に触れた指を洗い、ようやく火急の問題を片づけた。

 体内に住み着いたムカつく声はとりあえず無視する事にしよう。


「――さて、じゃあ移動するか」


 周囲から獣たちの気配はあまり感じられなくなっていたが、少なくとも篝火かがりびのある明るい通路へ戻るべきではないだろう。となると脇道の先か。

 幸い奥まで通路が繋がっているようだし、まずはそちらへ進んでみるとしよう。

 そう考えて一歩踏み出そうとしたのだが……。


「……ぁ?」


 足が、正確に言うと靴が重い。月光みたいな薄明りではよく見えないが、何やら足元に粘着質の物体が広がっているようだった。


「……何だこれ?」


 足元の物体はざっくり直径二メートルほどの円形で地面にのっぺりと広がっている。

 例えば風船ガムのようにかなり強い粘着力だが、ここはさっきまで座っていた場所だ。今 歩き出そうとするまでは普通の地面で、少なくともこんなネバネバが広がっている感じではなかったはずだが……。


 何らかのトラップか? だとしたらどんな条件で作動したのだろう。

 座っていた状態からの変化と言えば立ち上がって水魔法を使った事ぐらいだが……。


 ――待てよ、もしかしてこの粘着物質はここでからびていたのか?

 そこに水魔法を吸収してちょっと柔らかくなってネバついたのだとすれば……。


「我が足元にちょろちょろっと応えよ」

『はいよォ』


 足元に水を流しつつ力をこめると徐々に靴が抜け始めた。やはり水分に応じて粘度が弱まっていくらしい。謎の物体はすぐに水を吸収し、間もなく靴が完全に抜けた。


 結局こいつが何だったのかわからんが、ひとまずは脱出できたので良しとしよう。

 段々と液体のようになってきた物体は独りでにぷるぷると震えているように見えた。

 気味が悪いのでここは早く立ち去るとしよう。


「……靴と靴下がベタベタで気持ち悪いが、まずは一歩前進かな」


 スニーカーの上に少しだけネバっこい液体が張り付いているが、ネチャネチャして上手く取れそうにないし、重くもないのでこのままで良いだろう。


 ……それにしても、私服のまま異世界に来てしまったが、半そでのシャツにスニーカーでは頼りなさすぎるよな。

 ズボンとパンツは捨ててしまったし、どこかで新しい装備を手に入れられればいいのだが……そのためにはこの洞窟を脱出してどこか人間のいる場所を目指さないと。


 この世界にそんな場所が本当にあれば、だがな。


「……はぁ。先が見えないな」


 王になる事が目的なら適当な土地で建国宣言すれば達成出来るかと考えていたが、そもそも俺って国の定義も知らないんだよなぁ。

 村や集落の長くらいなら人さえ集められればどうにでもなりそうだが、建国ってのはどうすればいいのかさっぱり見当がつかない。


 あの女神の前では思考を読まれないようにするばかりでちゃんと考えていなかったが、転生の条件についてはもっと冷静に交渉すべきだったよなぁ。


 ――まぁ、わからない事について考えても仕方がないだろう。今は食料と休憩できるエリアの確保をしたい。しかし、どちらもどうしたらいいのか……。

 俺より弱くて、かつ生食が出来る生き物がいれば良いのだが。


 待てよ? 洞窟のかがり火を上手く使えば加熱調理は可能かも知れない。

 幸いにも水資源には困らないわけだし、あとはゆっくり寝られる場所……いやいやここにそんな場所があるのか?

 やはりまず洞窟を脱出する方法を探して、この箱庭の世界観を把握するところから……。


「……うん?」


 違和感。考えに没頭するあまり、何かを見落としていたような気がした。

 違和感の正体は明白である。ここはのだ。

 さっきまでは足元もよく見えない薄暗さだったが、徐々に十分すぎる明かりとなり、違和感に気づいた今は眩しいくらいなのだ。


 そしてその眩しい光がゆったりと大きく左右に揺れている。まるで暗示をかけるように……。


「……なんだ、アレ……」


 明らかにおかしい。そして眩しすぎる光に意識が朦朧もうろうとしてくる。

 引き返すべき……だろうか? しかし頭が上手く働かない。

 疲れすぎて椅子から立ち上がれないときのような無気力感で、後退する事はおろか手足を動かす気力さえ浮かんでこない。


 そういえば、ヒカリキノコバエという生き物について昔テレビで見た気がする。

 微生物の持つ≪生物発光≫という能力を利用して、洞窟内で虫などをおびき寄せて捕食する生物だ。

 同じく光を利用して狩りを行う生物の例は他にもある。

 チョウチンアンコウなどもそうだったかな。


「……奥から、何か……近づいてくる?」


 前方から暖かく生臭い風。

 吐息だろうか、生き物の気配だ。

 それも巨大で野性的なものである。

 逃げるべき、なんだろうな。しかし動けない。

 ――恐怖か? いや違う。ひどい脱力感だ。

 催眠を受けたのかも知れない。


 一応、疑問はあった。

 なぜ脇道に逃げ込んだだけで追っ手のモンスターを振り切れたのか?

 運が良かったと納得していたが、そんなに甘くはないだろうという気もしていた。

 ――たぶん、あいつ等モンスターは近づけなかったのだ。


 知っていたのだろう、洞窟の捕食者の存在を。

 俺は無知でおろかにもその胃袋へ足を進めてしまったのだ。

 あるいはとっくに催眠を受けていたのかもしれない。


 ……まったく地獄とは気の休まらない所のようだ。


 狼に囲まれてゴブリンやコウモリに追われ、わけのわからんネチョネチョをふやかし、ようやく落ち着いて冒険が始まったかと思えば、捕食を待つ獲物になってしまうとは……。

 またストレスで腹が痛くなった気がした。この世界で死ぬとたぶん復活してやり直しになるのだろうが、あんまり痛い思いはしたくないんだけどな。


 激しい逆光で姿は見えないが、牙の生えそろった大きな口が近づいてくるのがわかる。

 それこそアンコウのように前面がほとんど口となっているようで、洞窟の通路いっぱいに口腔こうくうが広がっているように見えた。


 のろまだから走れば逃げ切れそうだが、身体がだるくて動かない。

 せいぜい独り言を呟くのが精いっぱいである。

 俺に打てる手はただ一つ、魔法だ。

 しかし最大でどの程度の威力か、そして敵に効果があるかどうかは使ってみなければわからない。

 ――まさに賭け、一か八かだ。


「……一か八か、ねぇ」


 残酷にも、思わず少し笑ってしまう。

 運に味方された事なんて一度として記憶にない。

 実家では育児放棄、兄弟やクラスメートからはいじめられ、職場では居ても居なくても良い存在。

 何一つ報われない人生は三十歳で終わりを告げたが、転生先の地獄で――俺は性懲りもなくまだ期待してしまうのである。


「まったく、呆れるほどの馬鹿だなぁ俺は」


 光が俺を追い越して、暗闇が身体を飲み込もうとしている。

 どうせ叶わない期待を込めて、最後の言葉を口にした。


「――命じる。全力をもって我が敵に応えよ」

『あいよォ』

「かしこまりました、我がしゅよ」


 二つの声が重なった。一つは内なる関西弁で、もう一つは知らない女性の声?

 突如、魔法の濁流と共に背後からが現れ、激しい水流と合わさって前方へ向かう。


 そして――破裂音、血しぶき、光の拡散。

 五感を強烈に刺激する全てに、俺は混乱していた意識が覚醒すると共に、鳥肌が立つような寒気を覚えた。


 花火のように広がって薄れていく青白い光の中で、半透明の流体が血と混ざりあい揺れていた。

 ――アレは……スライム?


「遅くなってしまい申し訳ございません、我がしゅよ。……我が身を賭して、忠誠を果たすべく参じました」


 降りしきる黒い血雨けつうの後で、スライムは体内に交じる血をまとめて射出し、プルプルと震えて見せる。


 ――これは王を目指す転生者が最初の仲間を得た瞬間であり、同時に三十年間 裏切り続けた期待が初めて応えた瞬間でもあった。

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