第41話 出張帰り、彼女のこと side Rene
沙羅はソファで寝息を立てていた。寄り掛かられているのでレネは身動きが取れなかったが、疲れ切った恋人の寝顔を飽きもせずに眺めていた。
頬の柔らかな造形に無意識に手が伸びそうになり、レネは左手を宙で彷徨わせた。伏せられたまつ毛も、うっすら誘うように開いたつややかな唇も愛らしい。
彼女は風呂に入って食事をしながらワインを一杯ほど飲んで、寝支度をした後にレネが淹れてやったカモミールティーをカップに半分残したまま眠り込んでしまったのである。
(悪いことをしたな……)
沙羅は、ここ一年で出張が激増した。これは昨年から本格的に経営に口を出すようになっていた経営者としてのレネの判断のせいである。
ここ数年、南方精密は世界情勢の不安や世界的大流行した感染症への懸念の煽りを受け、売上をかなり落とした。この製造業全体で機械への投資を抑えたのだ。当然営業職は受注が取れずインセンティブが下がったが、沙羅の所属する技術メンバーは違った。
一般的に、工場で使用する機械というのは納期が長い。短くて三ヶ月、長いと年単位。
前年の受注残の納入試運転、修理作業に点検業務。そして、機械は景気にかかわらず壊れるものだ。景気は悪くとも、その修理や点検作業は例年と変わらずこなさなければならない。
会社としての利益は減っているので、仕事量は変わることもなく賞与だけガッツリと減り、元々足りない人手で皆の不満は募った。
特に昨今流行りのリモートワークできないアフターサービス部門はリモートワークする内勤へ鬱憤が会社に向かい、退職者が相次いだ。再雇用組も、契約社員となって賞与もなくなり、新入社員並みの手取りになった。そんな長老たちは南方で長年働いてきたベテランということで年齢にもかかわらず引く手数多。人材流出も止まらず更に忙しさだけが増していく。
レネは再雇用者の引き止めのため、彼らへ賞与支給を提案し、足りない人手を補うため中途採用に力を入れた。当時の社長である現会長、南方健二へ社長としての経営ミスを追求し、役員報酬の一部返納を迫り、自らも役員報酬を一部返納。
自転車操業させてしまっている技術部隊への労いの意味を含めて給与や賞与だけでなく出張時の手当てを厚くした。
しかし、中途社員が一気に入った全国各地拠点の修理部隊は、元々人手が足らないので新人教育もおぼつかない。彼ら新人を一年ほど八王子工場に勤務させようかという案も出たが、中途社員は家庭持ちも多い、そんな残酷なことさせられるかとレネは一喝した。
(日本企業は簡単に転勤を命じて家族をバラバラにするからな……)
そこで白羽の矢が立ったのは、八王子工場の経験豊富な先鋭たちだ。
全国各地の拠点に配属された新人を伴って、北海道から九州、沖縄まで試運転や修理作業に行き、彼らのOJTをさせることにしたのだ。
当然新人たちは東京に赴任せずに、自分のエリアで仕事を学べるので、週末は必ず家に帰れるし、場合によっては作業にも家から通える。
通常、出張にはエリアがある。沙羅の部署は遠方でも新潟や長野くらいがせいぜいだった。まれにエリア外出張もあったが、拠点メンバーでは難しい作業やどうしても人手が足りない時などに応援に行く程度。
しかしこのOJTのプロジェクトが始まり、八王子メンバーは月に最高で三度や四度もあっちこっち飛び回ることになってしまった。
新人が育つまでの辛抱、期限付きならば皆で頑張ろう。再雇用者も含め全員でサポートすると部長クラスは合意してくれたが、現場はかつてないまでに負担がかかっている。
エリア外の出張にはプラスアルファで手当てをつけることにしたが、皆どう思っているのだろうか。沙羅に今度聞いてみようかとレネは悩んでいた。
(こんなに疲れて……全部俺のせいだ……)
今度八王子の工場を視察に行こう。ヒアリングして皆素直に本音を吐くとも思えないが、行かないよりはましなはず。まずは役職者との面談を組んで率直な意見を聞こうか。
なんとか踏みとどまってもらわないとならない。
沙羅は依然、レネに寄りかかったまま気持ちよさそうに寝息を立てている。
首がおかしな角度に傾いているので、このままではよろしくないだろう。
レネはしばし逡巡したのち、目尻に小さく触れるだけのキスをした。
「沙羅、ベッドに行こう」
「……う〜ん」
「う〜んじゃない。しっかり横になって休んでくれ」
だめだ。仕方ない。レネは彼女の腕を取って、己の首に回させるとぐにゃぐにゃの身体を抱き上げた。
うまく抱きついてもらえるならともかく、意識のない人間を運ぶのは実に骨が折れる。
(しまった、ドアを開けてから抱き上げればよかった……)
レネは苦労しながら寝室へのドアを開けて沙羅をそっと下ろした。
「ん〜?」
沙羅の目がうっすら開いた。レネは目を細めて彼女の額に唇を寄せた。
「片付けしたら戻るから先に寝ていてくれ」
「レネ……行っちゃうの?」
舌足らずに問われ、腕を掴まれてレネは苦笑するしかない。離してくれないと食器の片付けもできない。悩殺的にかわいい、どうしてくれよう。
「沙羅、すぐ戻る。離してくれ、な?」
沙羅の手から力が抜ける。彼女の髪を撫で、彼は後ろ髪引かれながらも寝室を後にした。
キッチンに戻った彼は食器を食洗機に放り込みながら、彼は翌日の予定のことを考えていた。
明日はレネの《
「でも絶対行くって言うよな……」
レネは珍しく独り言を発し、食洗機の扉を閉めてスイッチを押した。
彼女は間違っても自らのSubに一人で《
彼女が買ってくれたのは細いプラチナのネックレスだ。ペンダントトップは細い長方形。Domの名前を掘るのが定番なので、裏面にSaraと入れてもらうことにした。
レネは「シルバーの変色が気になるならチタンでいい」と言ったのだが、沙羅はガンとして譲らなかった。銀座で月収以上のものを一括払いで買ってくれた彼女の本気を見た。
そんな彼女にレネはなんとしても何かネックレスなどの身につける物を贈りたかったのだが、そんなものはいいと断固拒否され、沙羅のあまりの清々しいまでのDomっぷりに圧倒されていたこともあり前回すごすご引き下がってしまったのだ。
眩しいくらいに女王様が過ぎた。
彼らしくもなく、胸を撃ち抜かれてしまって日本語能力が消失したのである。
レネは明日こそは絶対に何かプレゼントしようと思っているのだ。
(お揃いになるようなネックレスをと言ってみるか)
そうでも言えば、彼女も納得するだろう。
彼は脳内でプランを組み立てながら寝支度を整え、寝室へ向かった。
明日はいい加減、色々と伝えたいこともある。まあ、明日の自分がなんとかするだろう。
レネは人ごとのように明日の自分にミッションを委ね、すやすやと気持ちよさそうに眠る沙羅の隣に身体を滑り込ませた。彼女を抱き寄せ頬に唇を寄せ、「いい夢を」と口づけてから目を閉じた。
※OJT …… On the job training(オンザジョブトレーニング)の略。 先輩や上司などが部下や後輩などに対し、実際の仕事を通して新入社員などの教育をすることを指す。沙羅の場合、実際に一緒に作業に行ったりすることなどが主。
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