第42話 銀座、帰化の話
「は、は……リー……ウィンストンって書いてありません?」
「書いてあるな」
銀座にて。半ば喘ぎながらブランド名を口にした沙羅がいた。
一方かたわらの男は薄いグレーのサングラス越しに沙羅に視線を向け、飄々と肯定してのけた。
よく知らないがなんとなく聞いたことがある。
沙羅の野生のカンが告げていた。この店はあれだ、車で言うところのポルシェとかフェラーリとかランボルギーニとかよくてベンツやアウディだ。絶対にだめだと。
(やばいやつだ。ガードマンもいるし、店構えが違う)
「じゃあ入ろう……沙羅?」
「無理無理無理何言ってんですかだめですよ!」
「……だめか?」
(だめに決まってる!)
観光客でごった返す路上で挙動不審になった沙羅は、レネの腕を掴んで引っ張った。
「ほら行きますよ!」
店の前にいたガードマンにすみませんすみませんと頭を下げながら沙羅はその場を後にした。
「俺にも何か贈らせろ。君ばかりずるい」
「ずるいの使い方おかしいですよ! 別に私はいいですよ……あの店、安いのでも三百万とかしますよね? 首に車ぶら下げるようなもんじゃないですか! 無理! そんなの身につけて外歩けませんってば」
この手のものには詳しくないが、三百万くらいは普通にするだろう。多分。沙羅がそう思ってレネを見上げると、彼は必死に笑いを堪えていた。
「首に車……傑作だ。じゃあ百万くらいのにしよう。百万じゃ新車は買えない」
「百万……」
(百万もやばいってば)
「だいたい君、普段定価三千万くらいの機械を平気でいじり回してるじゃないか」
レネは片眉を上げ、妖艶な笑みを浮かべて言った。
「それとこれとは別です!」
その後、結局言いくるめられて三越に引っ張られて行った沙羅は、沙羅でも知っている有名ブランドの八十万くらいのネックレスを贈られた。プラチナにダイヤが三つきらめく普段使いもできそうなシンプルなネックレスである。
そして今、彼らは老舗中華料理屋でランチコースを楽しんでいた。個室なので気楽なのが唯一の救いである。
真っ昼間から彼はシャンパンをオーダーしていた。沙羅も相伴に預かっていたのだが、これがまたいい。
この暑い気候にさっぱりとしたシャンパンと、モダンチャイニーズの前菜は抜群に合う。
「うん、やっぱりおかしい。俺の年収と君の年収で比較した場合、それじゃあ割に合わない」
「割とかどうでもいいですってば。じゅうぶんです。これ以上は無理です! つけられません。金庫行きです!」
「……そうか。なら仕方ない」
彼の首には沙羅が贈った《
額面ひと月分の給料とほぼ同等。出費としてはかなりだったが、沙羅としては自分のSubにつまらないものは身につけてほしくないし、それが彼のような男ならば尚更である。
(うん、やっぱり似合ってる。ネックレスで正解だ)
沙羅は続いてサーブされた蟹とフカヒレのスープを口に運びながら満足げに頷いた。このコースで確かひとり一万円。いい加減金銭感覚がおかしくなってきた自覚がある。
「中華にシャンパンも悪くないだろ?」
「はい、美味しいです!」
「沙羅が満足してくれるならそれでいい。またジュエリーは贈らせてもらう。君は髪が短いからピアスも似合いそうだ」
(まじか……)
沙羅はどうしたもんかとうんうん考えた。誕生日と言っておこう。五月だ。かなり先。それなら間違いない。
「誕生日……あたりで」
「わかった。五月だな、楽しみだな」
沙羅が上機嫌のレネに内心ため息を吐いていると、次の料理である大海老のチリソースが出てきた。
エビは沙羅の好物である。彼女は目を輝かせ、迷いなく口に運んだ。食感も味も食べごたえも最高だ。ピリリとした刺激のチリソースとシャンパンも合う。
「なあ沙羅、お盆は実家に帰るのか?」
「あー! すみませんお盆のこと話すの忘れてました! 毎年帰ってるので今年も帰ります。一緒に出かけたかったですよね……お父さんのお墓参りに行きたいので、すみません」
そう言えば、彼の顔が曇った。
「君からは母親の話しか出てこなかったから、もしかしてと思っていたんだが」
(あっ! 言ってなかった!)
沙羅はすっかりさっぱり忘れていた。彼に家族構成のことを言うのを忘れていたのだ。
「気にしないでください。昔のことなんで……十歳の頃亡くなったんです。だから私は母子家庭で育ちました。まあ、小さい頃は祖父母もいたんでふたりっきりじゃなかったんですけど」
妙な親近感があった。彼も母子家庭の育ちだと知っているからである。
「そうだったか……うちも昔は祖父母はいたが母子家庭だ、君も知ってるように」
「一緒だなって思ってました……ごめんなさい、こんなご飯中に暗い話。あ、実家に帰ったら桃送ります」
沙羅は申し訳なさから話を変えた。福島といえば桃。何か美味しそうなものを見繕って宅配便で送ろう。
「別に家族の話だ。謝ることじゃない。桃か……福島といえば桃だな。そのままでもいいし、カルパッチョにしてもよさそうだな。合いそうなシャンパンを買っておこう、沙羅と一緒に楽しみたい」
(桃をカルパッチョ……)
訳がわからないが、彼が不味いものを作った試しはないので多分大丈夫だろう。炭酸水の好みだけは合わないが。
「レネは休みは何を?」
「ウィークデーは役所でいろいろ手続きがある、実は……」
レネは言いにくそうに口を開いた。
「帰化の許可が降りたんだ」
「え! そうなんですか!」
(知らなかった……)
沙羅は驚いて箸で持ち上げた海老を取り落としそうになった。
帰化する……沙羅の認識が正しければ、日本人になると言うことだ。生まれ育った国に未練はないのだろうか。いや、あったら帰化の選択をするわけもない。
レネの母であるアナはどう思っているのだろう。
「一年位前から色々と申請していたんだ。正式に南方になる。カウフマンともお別れだ。日本で暮らすならその方が公私共に便利だし……不便なのは別姓婚ができないくらいだな」
「外国籍だと夫婦別姓が可能なんですか?」
「ああ。外国人はこの国で、戸籍がないからな」
知らなかった。驚きを隠せないが、それ以上に気になることがあった。彼は南方になることに抵抗はなかったのだろうか。彼は父親である南方健二を嫌っている。憎んでいるとも言える。
「南方にしなくても、カタカナのままでも日本国籍取れますよね?」
「多分な。でもあいつが俺を社長にする条件の一つに南方として帰化申請することがあった。苗字なんて記号みたいなもんだ。気に食わなければ後でいくらでも変えられる」
彼はそう言って興味なさそうに肩をすくめた。
そんな簡単に変わらないだろう、一体どうやって……と沙羅が首を傾げていると、レネが彼女の疑問に答えるように言った。
「簡単だ。養子縁組するか結婚すればいい」
「……それ簡単じゃなくないですか?」
「ヤスの両親がなんかあればうちの子になるかと言ってくれている。問題ない。まあ、でも避けたいな。俺の親はうちの母だけだ」
(そうか、カウフマンやめるのか……)
沙羅は彼のファミリーネームを気に入っていた。カウフマン、めちゃめちゃ格好いいじゃないか。ちょっと寂しいなと沙羅は思った。
「南方レネ由春になっちゃうんですか?」
「うん。なっちゃうんだ」
彼の瞳には一抹の寂しさが浮かんでいた。
(何かあるんだな……)
以前から思っていた。ただ単に、昔、母であるアナを捨てた南方健二への復讐だけでここまでするだろうか。
わざわざ日本の大学に入り、そして彼は日本で就職をし、健二の誘いはあれど南方精密に乗り込み……自分の人生を懸けていると言っても過言ではない。
法学部に入ったのも何か意味があるのだろうか?
(もしかして、会長が自分をオファーするように仕向けた?)
アナはレネが「何か企んでる」と言っていた。レネは健二を「追い出したい」とも言っていた。「最初は復讐するつもりで入社した。会社のことは何にも考えてなかった」という彼の言葉が頭の中で再生された。
(復讐なのは確実だけど、わからない……でも聞くのは……)
あまりにもデリケートすぎた。今この話題に踏み込むには交際が浅すぎる。沙羅が色々と考えを巡らせていると、彼が明るく言った。
「そんなわけで、いずれにせよ俺も夏は忙しい。お盆は母親に元気な顔を見せてやれ」
「……はい、実家でのんびりしてきます」
「君の有給に余裕があるなら秋以降休みを取って遊びに行くなりのんびりしよう」
しまったと沙羅の目が見開かれた。
「っあー! 有給、まだ一日も消化してません。やばい。どこかで五日間休まないと……」
「社長として一言いいか?」
「どうぞ!」
「絶対に五日は休め! それどころか付与分全部休め! 消えるだろ有給が!」
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