第二部
第40話 出張帰り、彼のこと
みんみんと耳にうるさく蝉が鳴きわめく灼熱の八月。
金曜の夜。出張帰りの沙羅の乗った新幹線は、終点である東京駅に到着した。
もう夜の九時前だ。彼女は新幹線の改札を通ると、中央線のホームに向かった。ホームの茹だるような蒸し暑さと人の多さに辟易としながらも、彼女の心は浮き足立っていた。降りる駅は立川ではなく神田。そう、これからレネの部屋に向かうのである。
七月以降、ほぼ毎週末と言っていいほどどちらか互いの部屋で生活を送っていた。
思えば先月、七月は沙羅にとって怒涛の月であった。レネの部屋に行き、深い仲になったが恋人同士としての確信は持てず、友人、早紀のアシストで彼も同じ気持ちであるとわかって家に泊め……。
人生とは予想だにしないことが色々あるものなのだなと海外出張に始まるここ数ヶ月の波瀾万丈っぷりに、彼女自身驚くほかない。
そして、もう一つ彼の性格を知った。
レネはサプライズが好きなようだ。立川の沙羅の部屋に泊めた後、数日して一枚の絵はがきが届いた。ポップでレトロな像の描かれた絵はがきだった。
どうも、出張先のタイから送ってくれたようだ。
(こんな字なんだ……)
契約書のサインくらいしか、沙羅はレネの字を知らなかった。とても整った美しい字だ。「沙羅、早く会いたい。Hab' dich lieb!」とあった。
「読めるかっ!」
沙羅はツッコミを入れながらスマートフォンで調べてみた。
どうも、正式には
友人同士でも使える軽い表現で、付き合いたてのカップルなどが使う表現らしい。
これを付き合ってそこそこの仲で使うと、逆に「私のことそんなに好きじゃないのか?」と思われても仕方ない表現らしい。
(なるほどぉぉぉ?)
ドイツ語のアルファベットすらよくわからない沙羅がここまで調べられるなんて、実に便利な時代である。
ちなみに沙羅は大学の第二言語はタイ語を選択した。タイには日系の工場がたくさんあり、製造業だと役に立ちそうだったからである。今やコップンカー以外何も覚えていないが。
その数日後、今度はフィリピンからの絵はがきが届いた。花々が美しい一枚は、「沙羅、Mein Mäuschen、声だけでも聞きたい」とあった。
(だから読めないし、これはスマホで打てもしないわ……)
aの上に点々がついている。仕方なしに沙羅は早紀に聞くことにした。読めない謎ドイツ語だけ切り取って、写真を撮って送ったのだ。
人に見せるのはどうかとも思ったが、そもそも読めないものを送ってきているのだ。許してくれと沙羅は思った。
本人にこれはなんだと聞くのはなんだか恥ずかしかったのである。
早紀の返信はすぐさま来た。
『これは
なるほどと沙羅は返信を打った。
ハニーもスウィーティーもつまり甘いものだ。モイスヒェンもそんな感じのニュアンスがあるんだろうか。
『ありがとう! 意味はあるの?』
『俺のねずみちゃんって感じ?』
『ネズミ?』
ネズミってなんだよと沙羅は困惑した。
沙羅はネズミにいいイメージがない。
田舎の家では収穫したひまわりの種を荒らされたし、車庫の中を駆けずり回っていたことなど数知れず、何度駆除したことかわからない。
小学校の時、トイレで浮いていたこともあった。軽くトラウマである。
『ドイツ人ってうさぎちゃんとかくまちゃんとか使うから、あんまりネズミに囚われなくていいと思う、そう言う表現があるって覚えとけばいいよ! 変な意味じゃないから! 小動物、つまりかわいいってこと!』
(クマは間違ってもかわいくないし、ドイツ人の感性、わっかんないな〜)
彼女はその週末、今度はレネの部屋に泊まりに行き、早速礼を言った。
もちろん「あなたの国の人々の感性が意味不明です」ということは言わなかった。当たり前である。
「海外出張に行ったら、また現地から絵はがきを送ろう」
「やった! 楽しみです」
また絵はがきが来る。変に気を遣われ、土産をもらうよりもよほど嬉しい。
何かケースにでも入れて保管しよう。百円ショップにでも行けばきっとあるはずだ。カードをコレクションできるようなノート型のケースが。
「次の海外出張は九月のシカゴだな……アメリカか、何か綺麗なはがきがあるといいが。あの国は水がタダで出てくるのはいいが、治安は最悪だし、チップが高すぎて外食するたびにうんざりする」
散々な言いようである。もはや悪口だ。
「大学の同期がよくアメリカ出張行ってますが、チップ高いみたいですね」
「ああ、あれはいただけない……あ、そうだ! タイとフィリピンの土産を渡そう、忘れていた」
彼はクローゼットに向かうと、土産をくれた。タイシルクのストールに、それからフィリピンのオーガニックコスメだ。
ストールは控えめに花々が描かれていて、冷房のきつい今の時期に役立ちそうだ。
コスメの方はヘアとボディに使えるオーガニックなオイルや石鹸、リップなどのセットである。香りを嗅いでみたが、オイルは爽やかなレモングラスが、そして石鹸は南国の風味たっぷりのパパイヤがエキゾチックでとてもいい。
そしてリップは甘くてうっとりするようなココナッツの香りだ。
(超高級なものじゃなくてよかった……)
この男、生まれ育ちの一般人の感覚が今でも染みついているのか、普段は結構質素な暮らしを好む。多分、玉の輿を狙うド派手なお姉様方には見た目と中身のギャップにうんざりされる気がする。
そう、彼は沙羅の見立てでは、破壊的に整った容姿や物腰、年収を裏切るほどモテない。ある意味Subっぽい。
「これ、この部屋に置いておいてもいいですか? また週末泊まりに来るのでその時に使いたいです」
「もちろん」
その晩はいい加減やっと正式なパートナーとして契約を交わした。
彼はプレイにおいて、本当にNG項目が多かった。
まず一つ、痛みを伴うプレイは厳禁。
そして二つ目、辱めを受けるようなプレイも厳禁だ。
SMで言うところのM、被虐趣味のあるSubは多いが、彼は全く持って逆。ベッドの上ではとにかくリードしたがる性分なのでなんとなくわかっていた。
性格とSubとしての性癖は必ずしもイコールではないが、彼は自尊心が高い。実際デキる男であるし、プレイでもそういう傾向があることは納得である。
プレイで定番と聞く、リードをつけて四つ足で歩かせるだとか、鞭でぶって耐えられたことをめいいっぱい褒めるとか、そんなことは論外だ。絶対にしちゃならない。する気もないし、彼のそんな姿は見たくもない。
沙羅が望んだことは一つである。人前でプレイはしたくないということ。
彼は沙羅の要望にもちろんと頷いたが、ヒアリングすると彼には他にも苦手なプレイが色々あった。
沙羅は頭が痛いと思いながらも、でも答えは簡単だった。
レネは沙羅にコマンドを使わせるのが上手いのだ。つまり、相性がそもそもいいのである。悩むことなど何もない。ようは、沙羅がすべきことは彼の望みを叶えてやることだけだ。
一見どちらが支配しているのかわからないような気もするのだが、レネ自身は沙羅をマスターや女王様と呼んで、喜んで跪く。彼も一定の被支配欲求は持ち合わせているのである。彼の許容範囲を見極めて、コマンドで命じ、できたら褒めてやればいい。
これはSMにおいても変わらない。SがすべきことはMの限界を見極め、決して無理をさせないこと。望みを叶えてやること。言わば、奉仕なのである。
そして、プレイは性行為とも表裏一体だ。彼は言葉を選ぶように口を開いた。
「沙羅はそのままでいい。俺はじゅうぶん満足している。お願いがあれば俺も遠慮せず言う、あまり悩まないでほしいが……まあ、プレイはともかく、ベッドでは……俺も君にならたまにはセックスで主導権を渡すのは悪くないと思う。君が望めば、だが」
無理にリードしようとするなと彼の目は語っていた。でもたまには逆もいいということらしい。
彼の場合、たまには受け身がいいというよりも、沙羅が不慣れながらも頑張る姿が見たいのだろうと彼女自身うっすら気がついていた。
ベッドでは優しいながらもどことなくSっぽさがあり、沙羅の反応を楽しむ傾向がある。そこがSubであるダイナミクスと拗れていて彼自身苦労してきたようだ。
(たまには刺激やスパイスもいるよね。頑張るか……そのうち)
ホームで待っていると、やっと電車が来た。終点、東京駅のホームに停まった車両はここで折り返すことになる。沙羅はちょうど真ん中あたりの車両に乗り込み、一駅で降りて彼の部屋に向かった。
既に彼には着予定時間を連絡済みだった。
もはや見知った神田駅のホームで電車を降りると、改札の前にTシャツ、ジーンズ姿のラフな格好の、秀麗な容姿の男が待っていた。
彼は沙羅を認めると、嬉しそうに目を細め、口元をゆるませた。
「お疲れ、沙羅」
迎えに来てくれたのか! 沙羅の疲れ切った表情が一瞬で明るくなる。
「レネ!」
彼女はレネに駆け寄った。広げられた彼の腕に飛び込む。
先月の沙羅と違い、今の沙羅には一切の抵抗もなかった。
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