第39話 ソファからベッドへ、初めてのコマンド
「沙羅、君はいいな、かわいい……」
部屋の空気が変わった。甘ったるいけど不快ではない。
沙羅はこの時をなんとなく待っていた。
首筋に顔を埋められて、沙羅はびくりと肩を震わせた。幾度も唇を落とされる。触れるだけの唇の熱が柔らかく肌をすべる。
触れた部分から伝わる熱は、まるで媚薬のようだ。
彼の肌から沙羅に移って、心の奥で、身体の奥でじりじりと燻り始める。
冷房の効いた部屋でレネの高めの体温は心地いい。沙羅は後ろに手を伸ばして彼のうなじのあたりを撫でた。
「そうだ、いいぞそれ、上手いな……俺は気づいた。君はボディタッチの仕方を勉強しなくちゃならない」
「日本人なので慣れてないんです」
「だとしても、慣れてないにも程がある。俺はどれだけ沙羅に嫌われているんだとずっと思ってた」
耳にちゅっとリップ音を立ててキスをされて更に肩をすくめた。
「ええっ! 嫌ってなんてないですよ!」
「今は知ってる。俺たちは普通、好きな相手にはボディタッチを増やしていって知るもんなんだ。ああ、この人は俺が好きなんだなって。でも俺は……立場上かなり控えめにしておいたが、そうだっただろ?」
確かに、この人のボディタッチは徐々に増えていった。エアフルトでは一定距離を保っていたのに、段々距離が近づき、部屋に遊びに行った時は肩を抱かれたし、それから手を繋いで……完全に納得した彼女がいた。
一方、自分からはほぼ全くである。それどころか触れられてちょっと飛び上がったりしていた。嫌われていると思われてもおかしくはない。
「で、どうやって付き合うんです? 告白もしないで」
「どうって言われてもな……友達として仲良くしたら徐々にボディタッチを増やして、それから……」
「徐々にキスしたり? 甘い雰囲気出したり?」
沙羅は後ろを振り向いた。すぐ近くに彼の秀麗な顔があってとまどった彼女がいた。未だに慣れない。
整った鼻筋が寄せられ、形のいい薄めの唇が動いた。
「そうそう、そんな感じだ。徐々に」
「いちゃいちゃして流れで? 家に行ったらベッドにゴーですか? 付き合ってくださいもなしに?」
「うん、俺たちみたいに……わかるだろ、好きなんだなって。で、そんな感じで自然に付き合い始めるわけだ。形式じゃなくて流れを重んじる」
「……なんかよくわからないけどわかりました。確かに……流れを重んじるってのはロマンチックかもですね。いちいち口にするのは野暮なのかも」
まだ肩の辺りに触れていた手が、するりと滑り沙羅の首筋をなぞる。彼の視線が自分の唇にあることに沙羅は気づいた。
「沙羅、コマンドをくれ」
「レネ、《
唇が重なった。何度か啄んで、思ったよりもすぐに離れた。確かに後ろを振り向いてのキスは体勢が少々きつい。
「んっ……」
首筋に彼の唇がふれ、耳たぶのすぐ後ろ、付け根の皮膚に吸いつかれた。ちくりとした刺激に鼻にかかった声が漏れる。
「今の、跡つきませんでした?」
「耳の裏だから簡単には見えない」
「ちょっと!」
「沙羅、俺にもつけてくれ」
沙羅は目を白黒させた。自分にキスマークをつけてくれとこの男は言ったのか? それはハードルが高くないか?
「あのぉ……具体的にどうすればいいんですか?」
キスマークなんて話に聞くだけの都市伝説だと思っていた沙羅は、素直に告げた。経験がないと。
「吸えばつく、簡単だ。沙羅、俺はまだ君に《
Domが己のSubに贈る《
首につけるチョーカーやネックレス……言わば首輪である。
彼がそんなものに執着するとは思わなかった。でも、SubはDomとの契約の証を欲しがる傾向がある。
(やっぱSubだな……)
沙羅に巻きついていたレネの腕から力が抜けた。沙羅は彼の望みを完全に理解し、一度ソファから立ち上がった。コマンドで彼に上半身の衣服を脱ぐよう指示、今度は向かい合わせに彼の大腿部に乗り上がった。
当たり前だが、結果として彼を近距離で向かい合わせになり、沙羅は少々もじもじとして目を泳がせた。
沙羅は戸惑いがちに彼の首筋に鼻筋を、次に頬を寄せた。滑らかな肌は気持ちがいい。自分と同じフローラルなシャンプーがほのかに香った。触れるだけのキスをして、それからくっきりと浮かぶ鎖骨を指先でなぞった。
夏場だ、できるだけ見えない場所にしよう。そう考えた沙羅であるが、レネは全てをお見通しであった。
「仕事中はワイシャツしか着ない。そのあたりなら大丈夫だ」
鎖骨の少し下のあたり、そこを吸ってみたがうまくつかず、二、三度のトライでうっすら色づいた。
沙羅はそれに指で触れて、これでどうだとレネの目をまっすぐ見た。彼は満足そうに笑みを湛え、沙羅の顔中、唇以外に触れるだけの優しいキスを落とした。
「沙羅、好きだ」
吐息混じりのその言葉は、直後重なった沙羅の唇に解けていった。沙羅は目を閉じて、触れるだけの優しいキスに酔う。
自然に離れた唇、目を開ければ端正な顔がそこにあった。綺麗と言うべきか、秀麗と言うべきか、職人が作り出した大理石の彫刻のようだ。知らぬ間に惚けるように見つめていると彼が口を開いた。
「沙羅?」
「いえ……やっぱり綺麗な顔だなと」
「目の保養にもならない顔と言われた記憶があるが? あれは少しショックだったな」
彼は笑いを噛み殺しながら鼻筋を寄せてきた。沙羅はしばし考え、そうして唐突にはっと思い出した。
彼が八王子オフィスにやってきたあの日のことを。
「あ、あれはですね、言葉の綾というやつで……」
沙羅はしどろもどろ答えた。こんな外国人顔興味ないとかなんだとか言った記憶が蘇る。
あの時は興味なんてなかったが、今となると興味ないなんて嘘である。
今や、声を聞くだけで心臓が高鳴るのに。
こんなにどうにもならないくらい、寝ても覚めても頭から離れないくらい好きなのに。
だいすきなのに。
「そうなのか?」
「仕事で出張行くのに、目の保養じゃん〜とか言われて……仕事なんだから顔とかどうでもいいって言いたかっただけです……」
沙羅は誤魔化すように彼に唇を寄せた。すると、レネは沙羅のうなじに手を回してゆるゆると撫でながらキスを受け入れた。逆の手は誘うようにわき腹をなぞっている。
彼がよくするように、沙羅がレネの下唇をたっぷり吸うと彼も同じように返してくる。
彼の舌先が沙羅の唇をちろりと舐めて、沙羅も同じように返す。互いに戯れるようなキスをし、やがてどちらからともなく唇は自然に離れた。
目を開けると、蠱惑的な眼差しが長めのまつ毛の向こうから沙羅を射抜いていた。媚薬のような視線に沙羅が震える息を吐くと、背中や脇腹のゆったり這っていた左手が腰に回ってぐっと抱き寄せてきた。
密着する身体。身体の奥が暑い。彼に触れられると、熱せられたバターのように自分が蕩けていくのがわかった。
しかしそうなっているのは自分だけではない。沙羅は己の身体に当たる彼の欲望に気がついていた。
沙羅は目を潤ませて耳元に唇を寄せた。
「ね、レネ……」
「俺の女王様は何をお望みだ?」
「ベッド、行きません?」
「仰せのままに」
レネは沙羅を抱き上げて、リビングから寝室に移った。彼はベッドに沙羅を下ろすと流れるように沙羅の衣服を剥ぎ取って、コマンドをせがんだ。
「《
上半身半裸のレネと、もはや一糸纏わぬ姿の沙羅。
目の前に跪いた男は、沙羅の左の足を繊細なワイングラスでも扱うようにそっと手で持ち上げ、足の甲に唇を寄せた。
彼は妖艶に目を細めて言った。
「こんなことをしたのは初めてだ」
「私も、こんなことをされたのは初めてですね……」
軽口を叩きながらも、沙羅は全く余裕がなかった。
もっと、核心に触れてほしい。
しかし、レネは沙羅を焦らすかのような愛撫をつづけた。くるぶしの内側にキスを贈り、舌を這わせ、それからふくらはぎを吸い、膝に唇を寄せる。
まだシーリングライトも煌々と彼等を照らしていた。普段ならば絶対に拒否をするはずなのに、彼の手管に沙羅はゆるゆると力を抜き、膝を柔らかく掴まれて、抵抗することもなく脚を開いた。
彼は沙羅の内腿に頬を寄せた。
「この前も言った気がするが、本当に肌が綺麗だ……」
内腿に時折ちくりと痛みが走る。花びらのように赤い印を刻まれ、沙羅は耐えられなくて、彼の髪に手を伸ばしながら彼を呼んだ。
「レネ……」
「どうした?」
彼は余裕そうに微笑むと太ももの付け根に口付けた。
触れられてもいないのに、もうどうしようもないくらいに身体の奥が熱くて、切なくて、早く触れてほしくて……。沙羅は自分の身体が奥からとろとろとぐずぐずに蕩けきっていることに気づいた。
レネはそれに気づいているはずなのに、どうも気づかぬふりをしているようだ。彼は身体の中心の蕩けた花びらにキスを落とし、うそぶいた。
「沙羅、どうしてほしい? 触るだけでいいのか?」
彼は唇の端に弧を描きながら、もう一度そこにキスをした。
「言ってみろ。君が何をされたいのか、俺が何をしたいのか……同じだ。わかるだろ?」
「レネ……」
「次の命令を、俺の女王様」
ああ、もう我慢できない。沙羅は完全に白旗を上げた。
彼は沙羅というDomの扱いが本当に上手い。こんなふうにコマンドを使わせるなんて、なんてSubなのだろう。
沙羅自身がもう彼から離れられそうにない。
「《
沙羅は震える声で、生まれて初めてそのコマンドを使った。舐めろという意味だ。
「上出来だ沙羅」
そして、待ち侘びていた時が訪れた。
彼の舌に、息遣いに、そして指先に……沙羅は翻弄され途中から記憶すらない。
〜
これにて第一部完! 一区切りとなります。
なのでちょっと記念にゲリラ更新しました……
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