第38話 新人の頃、森山との出会い

 入社三年目のことである。沙羅は当時の部長、河村に直談判に来ていた。主任にも、係長にも、課長にも相談したが、みんな上が乗り気じゃないと苦笑するばかり。かくなる上は、直接部長に言うしかないと沙羅は決断したのだ。


 沙羅は必死だった。今思い出すに、滑稽なくらい必死だったと自分自身で思うくらいに必死であった。


「あの、お願いです。私修理に行きたいんです。電源の交換からでもいいので……」

「それで電源交換して復旧しなかったら、どうするんだ? 修理はそんな簡単なものじゃない。実力も伴っていないのに、お願いで仕事させてもらえるなんて思わないことだ」


 沙羅の懇願は突っぱねられてしまった。

 昨年入った後輩の男性社員はもうひとりで修理を任されているのに、どうして自分はやらせてもらえないんだろう。


 アフターサポートで女性で修理に行っている人間はいない。そう、暗黙の了解だった。女性は客先に行き、操作の講習までしかさせてもらえない。修理作業をさせてもらっている女性社員はいなかった。


 何度も何度も練習機を使って練習したし、基盤の交換だって、モーターの交換だって、調整だって、なんだってできるのに。


 そして、投げられる仕事だって何か遠慮されているのか、量も少ない。沙羅には時間だけはあった。


 さらに、人が足りないので部長ですら外に出まくる沙羅の部署では、オフィスを抜け出してこっそり工場に忍び込むチャンスはいくらでもあった。

 それにとびっきりの味方もいた。再雇用で権限はないが、顔が広く皆が慕う安田だ。あの舞姫騒動を沙羅に教えてくれた長老である。


「ヒガ、組み立て工程アッセンブリ見せてやるから来い」


 彼は部長が不在の日に突然沙羅を呼ぶと、組み立て工程に連れていき、森川を呼び出した。

 八王子工場は、全国や海外拠点で製造した部品が集結し、機械の組み立てが行われる南方精密ではかなり重要な工場である。

 機械での検証も可能で、使い勝手もいいことから沙羅たち修理部隊も八王子の工場併設のオフィスに勤務している。


「この子アフサポの子なんだけど、筋がいいからちょっとアッセンブリ教えてやってくれねぇ? 小型機なら大した腕力もいらんし、クレーン操作も俺もいつも見てるが危なっかしいところなんてひとつもねぇからよ」


 森川は仕方ないなと言った様子で頷いた。恩のある安田の頼みだ、断れないと言った様子だろう。見上げるほど身長が高く、厳つい顔の中高年の男性だ。


(この人、多分Domだ……)


 サイズの合わないメンズの作業服に着られている自覚が大いにある沙羅は同じくDomである彼に内心怯えたが、「ありがとうございます」とできる限り大きな声で頭を下げた。


 声の小さくてひ弱に見えると製造業の男社会では嫌われる。三年目の沙羅はそれをよくよく理解していた。


 全体の組み立ての一部分ではあるが、ユニットの取り付けを一通り解説つきで説明してもらえた。

 彼は製造工程部門、組み付け工程を仕切る課長の一人。課長自ら申し訳ない。


「次のユニット取り付けやってみろ。サポートするから」


 森川は驚いたことにそう言った。

 今一度見ただけの組み立ての様子だ。本当にいいのだろうか。


「いいんですか!?」

「構わん、俺がやったことにするから。ダメならバラしてもう一回やるから気にするな。リストはこれだ」

「森川課長……ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」

「礼はいいからさっさとやれ」


 組み付ける部品のリストを渡された沙羅は感極まって何度も礼を言った。

 森川の倍ほどの時間をかけて組み上がった機械は、そのまま最終検査に回された。見事合格。「安さんを疑ったわけじゃないが、本当に筋がいいんだな」と森川は笑顔を浮かべた。


 それが運命の出会いであった。


「河村部長がいない時、課長はいっつも私に組み立ても修理も色々教えてくれました。出荷検査までやらせてくれました」

「森川は修理もできたのか?」

「はい、組み立てに移動する前はアフターサポートの係長だったんです。多分課長が飽和するから組み立てに移動したんだろうって本人が言ってました」


 沙羅はアイスティー・ソーダを口に含んだ。シュワシュワとして心地いい。彼も自分のグラスに腕を伸ばし、ごくごく喉を鳴らしながらうまそうに飲んだ。


「定時過ぎでも顔を出せば、いつも優しくしてくれました。そして言ったんです。もうちょっと頑張れ、河村だっていつまでもアフサポの部長してるわけじゃないって。そうして踏みとどまってたら、河村部長は去年本社勤務、経営側になって、森川課長がうちのとこの部長になりました……森川部長はいきなり私を難しい修理に同行させてくれました」

「そこから修理にも行くようになったと」

「はい。でも私は頭でっかちで経験値が圧倒的に足りません。頑張らないとなって思います」


 ずっと頭に何かが触れている。おそらく彼が頬を寄せている。彼が耳元でこう言った。


「森川に感謝しないとだな」

「ええ、それはもちろんです。本当にありがたくて……」

「俺だ。俺が感謝しないといけないなと思ったんだ。森川がいなければ、今頃君は南方を辞めていたかもしれないし、ドイツ出張の人員を考えたのは森川だろう」


 なおも片腕はがっちり腹部に絡まっている。もう片手は沙羅の左脇から伸びて、右の肩を柔らかく掴んだ。こめかみに唇が落ちる。


「それにしても河村の野郎は……辛かったな、頑張ったな沙羅。よく踏みとどまってくれた」

「なんかすみません、休みの日に仕事の話を。しかもこんな愚痴みたいなのを」


(本当はこういうのをこの人に言うのはよくないってわかってるけど……)


「最初に出張の話を始めたのは俺だろう? 別に俺は君の話を聞くのは嫌いじゃないし、河村が行っていたことはハラスメントだ。俺は経営者としてそいつの所業を許すわけには……」

「あの、今は何かあるわけじゃないし昔のことなので!」

「仕方ない、沙羅がそう言うなら……」


 河村、要注意だな。言葉とは裏腹に現在生産統括部門で部長をしている河村をどう扱うか思考を巡らせているレネがいるなど沙羅は気づきもせず、あまりに密着する身体に困り果てて少々みじろぎした。


「嫌か? 暑い?」

「いえ……こういうの慣れてないだけです。身の置き場がよくわからないというか……」

「そんなに緊張せずもっと寄りかかれ。君はもっと自信を持つといい。仕事でも私生活でも」


 入社してしばらく干された経験は、彼女の中で未だトラウマになっていた。沙羅は信じたくなかったのだ。自分が女性だから冷遇されているとは思いたくなく、自分が至らないせいだといつも自分自身を責めていた。


 森川が沙羅を一人でドイツに送り出したのは、実のところ上司としての思惑があったのだ。会長からは金は節約しろと苦言は呈されていたが、森川が出張に同行することは多少無理をすればできることであった。それを荒療治とは思いつつも沙羅を一人で放り出したのである。


 レネはそれにうっすら気づき始めていた。

 一方の沙羅はそんな事実には全く気づいてもいない。


「君は職場では優秀な社員だし、プライベートでは俺の自慢のDomだ」

「ありがとうございます……」

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