第37話 沙羅の部屋、アイスティー・ソーダ

 駅前の量販店にて買い物を済ませ、彼を部屋に上げる。


「へぇ、結構広い部屋だな」


 それが彼の最初の発言だった。締め切った室内は夏場びっくりするほど蒸し暑い。

 冷房を強めにつけて、それでも汗が引かず即シャワーを浴びようとすると、彼が一緒にいたいから一緒に入りたいと言い出したので断固拒否した。


「うちの風呂場は狭いので!」

「ユニットバスじゃあないんならどうにかなる」

「どうにもならないですってば!」


 沙羅はなおも一緒に入りたいと駄々をこねるレネにコマンドを飛ばした。


「《stayステイ》!」

「ひどい……なんてことだ……コマンドを使うなんて」


 指差したソファに彼は大人しく座った。彼は捨てられた子犬のようにしょんぼりしてこっちを見ていた。


(そんな顔してもダメなんだから!)


「私が出てくるまで、どうしようもない事情でもない限りそこにいてくださいね!」

「わかった」

「覗いたらいいですか、角に立たせますよ!」


 角に立たせる、つまり彼女が言ったのは《cornerコーナー》のことだ。これは、部屋の隅などで壁を向かせ、Subを放置するお仕置きの一種である。


「流石にそんな趣味はない……戻ってきたら褒めてくれ」


 ソファにて、「一緒にいたいだけで裸を見たいとかエロいことをしようと思ってるわけじゃない」などとブツブツ言っている彼を放置して沙羅は風呂場に飛び込んだ。


 沙羅がレネにコマンドを浴びせてソファに釘付けにしたには理由があった。まず一つ、今身につけている上下揃っていない下着を見られたくなかった。そして二つ目、沙羅には目的があった。バスタブに湯を張ろうと思ったのだ。

 彼女は湯船に湯を溜めながら、若干水量の弱いシャワーを浴びた。

 沙羅自身は浸かる気は全くなかった。


 欧米人はシャワーが主とは言うが、彼は入浴剤を買ってきてくれるような男であるし、何より先週は一緒に湯船に浸かった。彼は風呂好きな男なのだと沙羅は半ば確信していた。


 ゆっくり風呂に浸かって疲れを癒して欲しかったのだ。


「ちょっとかわいそうだったかな……」


 シャワーの湯を全身で受け止めながら、彼女はぼそっと独り言を吐いた。

 早々に彼女はシャワーを切り上げてリビングに戻る。


「ちゃんとソファにいたんですね。《good boyグッドボーイ》、いい子ですね。お湯溜めたんでお風呂でゆっくりしてきてください」


 腕を回してぎゅっと頭を抱きしめた。沙羅の背中にも彼の手が回って抱き返された。不快さは一切ないセクシーな彼の肌に混じり、ほのかに整髪剤の香りがした。


 今になって気づいたのだが、彼は私服の時は香水はつけないらしい。スーツの時だけふわりと嫌味がない程度に香る。

 あれは、彼の戦闘装束を彩るアクセサリーなのだろう。


「湯船に?」

「はい。狭いですけど」

「行ってくる。俺は風呂に浸かるのが好きなんだが……よく知ってるな」

「この前も一緒に湯船浸かったからもしかしてって。ドライヤー、洗面台のところに置いたので好きに使ってください」


 コマンドを解かれた彼が立ち上がったので、沙羅は彼にバスタオルを渡してソファに座ろうとしたが、指先で呼ばれた。

 なんだ? と沙羅が思っていると髪に指先が伸びた。


「髪がまだ湿ってる。きちんと乾かせ」

「え……大丈夫ですよ」


 いいから、と言われて洗面所にエスコートされる。ドアを開けた途端、湿ってむわっとした空気が顔に当たる。


「湿気がすごいな」

「乾かないんですよ、暑いし」

「俺が乾かしてやる……リビングでもいいか?」

 

 沙羅はレネを見上げた。「リビングだと、嫌がる人間もいるだろう?」と彼は言った。確かにそうかもしれない。髪が散らばるからだ。

 だが、別に沙羅は気にしてなかった。実のところ、リビングでドライヤーを使うのが日常だったからだ。


 湿った場所でドライヤーを使ったり保管したりする行為を、沙羅は職業柄どうしても看過できなかった。

 確実にドライヤーの寿命を縮める。


「普段はリビングで乾かして、コロコロで髪の毛回収してます。あんな湿っぽい部屋でドライヤー使うなんてかわいそうです! 壊れちゃう」


 彼はドライヤーを手に取ると「さすが当社の優秀な技師の言葉には説得力がある」とくすりと笑みをこぼした。 

 ドライヤーにはMINAKATAと記載されている。家電を製造するグループ会社、南方電機のラインナップで一番高いドライヤーだ。これはもちろん社割で購入したものである。

 

「なるほどな。俺もこれからはそうしよう。どうせ昼間はロボット掃除機を走らせてるし」


 そう言って、ソファの横のタップにプラグを挿して彼は丁寧に髪を乾かしてくれた。手つきが優しい。


「髪、切ったんだな。短めも似合ってる」

「ありがとうございます。この時期、いつもよりちょっと短めにするんです」

「暑いからなぁ……」

「はい」


 程なくして髪は乾き、彼は風呂に向かった。

 十分ほどソファでぼうっと呆ける。

 レネが自分のアパートにいる。どうしよう。誘ったのは自分だ、どうしよう。どうしようもない。


「アイスティーでも淹れるか……」


 このままソファで謎の余韻に浸っているわけにもいかない。彼女はキッチンに立ち、換気扇をつけ、湯を沸かし始めた。


 ポットの前で頭に浮かぶのは、こんな小さな1DKの部屋には似つかわしくない宝石のような瞳の麗しの恋人のことばかりだ。

 どうやら彼には《stayステイ》ですら軽い仕置きになりうるようだ。実に難しいSubである。


(ちゃんと契約して、もうちょっとヒアリングしてからプレイした方がいいかな……)


 先ほど彼が買った今日炭酸水を冷蔵庫から取り出した。「好きに飲んで」と彼は言っていたが、沙羅は正直これが大嫌いだった。

 炭酸水で酒やらジュースを割るのではなく、ただガブガブ飲んでいる彼が理解不能である。


 本当に理解不能である。率直に言ってまずいと思っていた。


 ドイツでは何も言わずに「水をくれ」とレストランで言うと、絶対にこの炭酸水が出てきた。


 トラップである。


 酸味や苦味のようなあのなんとも言えない風味。多少慣れはしたが、正直苦手だった。

 なので沙羅は考えたのだ。この不味い水でレモンティーを割ろうと。アイスティー・ソーダだ。


 大ぶりのグラスを二つ用意する。濃いめのアイスティをティーポットに淹れていると彼が戻ってきた。


「ノンカフェインのレモンティー・ソーダ淹れてます。髪でも乾かして待っててください」

「悪いな色々」

「気にしないでください」


 彼は先ほど買った着替えを着ていた。なんの変哲もないゆったりした綿のルームウェアなのだが、恐ろしいほど着こなしている。

 ちなみにサイズはXLらしい。


(いつかダサセーターとか着せてみたいな。それでも格好いい気がする)


 そうして彼の髪も乾き、まったりとソファで肩を並べた。彼はアイスティー・ソーダをとても気に入ったようだった。それだけでとても嬉しかった。

 だがこのままではいけない。沙羅はシャワーを浴びながら心にしこりのように残っていた先ほどのコマンドの件を聞いてみることにした。


「あの、ちょっとさっき悪いことしたかなって思って……《stayステイ》、実際どうでした? 嫌でした?」

「……最初は戸惑ったが、悪い気はしないな。戻ってくるのがわかっているし。若干仕置き受けてるみたいな感じがしたが、まあ褒めてもらえるならいい」


(やっぱり……)


「次会ったときに契約書を、と言ったが……たたき台みたいなものは一応作ったが、流石に今日はタブレットを持ってきてない」

「次にしましょうか。私も内容考えておきます」

「ああ、次にしよう。土産も渡したい」

「タイのお土産ですか?」


 沙羅は目を輝かせた。


「両方だ。まあ、あまり期待せずにいてくれ。女性へのプレゼントというのは本当に難しい」


 出張中の出来事をスマートフォンの写真を見せてもらいながら語らっていれば、気づけば二十二時を過ぎていた。

 工場の写真だってなんだって見放題だ。だって、自分は南方の社員なのだから。南方精密は、製品開発は全て日本で行っている。海外にある工場は全て生産拠点でしかない。当然、沙羅が見てはいけないものなんて出てくるはずもない。


 しかもこの部品の寸法測定……図面に記載された穴や外径などのサイズを測定、管理しNG品を弾くにあたって沙羅の管轄部署の測定装置が使われている。

 機械のプログラムは本社勤務のアプリケーション専門部隊が作ったものだ。そして、部品を機械にセッティングするロボットアームの制御を担当したのが沙羅である。


「このロボットアームの制御プログラム、作ったの私ですよ」

「え……そうだったのか! これを沙羅が? 初めから知っていれば動画を撮ってきたのに!」


 綺麗なグリーンとブラウンのグラデーション、はしばみ色の目が驚いたように沙羅の焦茶の目を射抜いた。沙羅は意外にも冷静だった。 


(いらないでしょ動画……)


「本社でアプリケーションの人間にロボットアームの制御について相談されて……で、ついでに教えたんですけど、メインで教えた人が辞めたので多分本社でロボットアーム操れる人、いないでしょうね」


 沙羅がそう言うと、レネはふいと真面目な顔つきで口元に手を当てた。


「ということは、だ。ロボットアーム付きで機械を展示会なんかで展示するとしたら……」

「十中八九、アフターサポートの人間が駆り出されますね」

「そうか、覚えておこう」


JIMTOFジムトフで出すんかな……)


 JIMTOFとは、世界三大工作機械見本市の一角をなす展示会の略称である。正式には、日本工作機械見本市という。二年に一度、ビッグサイトの全ホールを使用して開催される超大型のイベントだ。


 ふとテーブルを見れば、アイスティー・ソーダは空になっている。「おかわりいりますか?」と尋ねれば彼は頷いた。

 先ほど淹れたレモンティーはまだポットに残っている。彼女は再びアイスティー・ソーダを作るとローテーブルに置いた。


「展示会には何度か駆り出されたことがあります、ビッグサイトも幕張メッセも横浜も名古屋も大阪も!」

「それは何度かどころじゃない」

「そうですね、そうとも言えます」


 ソファに腰を下ろそうとすると、レネに腹部に手を回され抱き寄せられた。座るように促される。なんと、ソファに深く腰掛けた彼の股の間に。


(まじか……)


 彼女は大人しく収まった。依然、腹部に腕が回っている。すっぽりと包み込まれ、背後の体温が気になって仕方がない。

 彼女は緊張を誤魔化すように口を開いた。

 

「先ほどのつづきですが、私は修理だけじゃなくてロボットアームの制御プログラムとか、ご存知のように機械動かすプログラムとかも作れるので展示会で本社の人間だけで人が足りなければ駆り出される人員です。工場でも人が足りなきゃ一部組み立て作業、それから最終出荷検査もできますよ」

「なんでそんなに……」


 彼は思ったとおりで絶句していた。沙羅は入社当時を懐かしむように話し始めた。

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