第36話 初夏の夜、電車で立川へ
「なかなか美味しかったな。いい店だ。酒の種類も多い」
「日曜ならサンデーローストが食べられます。店長のローストビーフ、美味しいですよ。たまに鹿のローストとかもあります」
「それはいい。また行こう。今度はふたりで」
駅前までの道をゆく。もう日は落ちていて、外は幾分涼しくなっていた。
ここのところうだるような暑い日がつづいていたが、店に入っている間に少し雨が降ったようで過ごしやすい気温になっていた。
それでもまだ夜の八時前。
まだ一緒にいたいと沙羅が考えるのは、ごくごく普通のことであった。
(いやでも流石に海外出張から帰ってきたばっかりだし……)
彼はフィリピンとタイを梯子するアジア出張から帰ってきたばかりだった。疲れているだろう、流石に。
昼間も出歩いていたと聞いていた。流石に家に帰りたいのではなかろうかと沙羅は考えた。
「どうした?」
急に黙り込んだ沙羅に何かを思ったか、レネが問いかけてきた。
「……もうちょっと一緒にいたいなぁって」
「俺もどう切り出そうか考えてた」
彼は肩を抱き寄せると目尻に唇を寄せてきた。
ちゅ、と小さなリップ音。
少し酒も入っていたし、この頃になると沙羅もいい加減慣れてきていた。流石に文句を言おうとか、押し退けようなどとも思わない。
いやしかし、最初のあの人を食ったような小馬鹿にしたようなプライドの高そうな男はどこに行ってしまったのだろう。もはや別の生き物である。
ベタ慣れしすぎてちょっとどうしていいかわからない。
野良猫か野犬を手懐けたらこんな感じなのだろうかと沙羅は考えた。
それにしても雰囲気が甘い。甘すぎる。
子供の頃、仏壇からくすねた落雁並みの糖度である。
ちなみに、くすねたことは両親からこっぴどく叱られた。
「でももう腹は減ってないしなぁ……」
「あの……明日は用事とかあるんですか?」
「ない。家でダラダラしようと思っていた。出張の荷解きは昨日のうちに済ませたし、洗濯も済ませたしな。別に今日遅くなっても何も困らない」
沙羅はごくりと唾を飲み込んだ。
こういうとき、いい歳した付き合っている男女が行くといえばホテルである。
しかし、彼女は職業柄しょっちゅうホテルに泊まっているので、ホテルは正直勘弁だった。はっきり言って目の敵にしていた。
レネの家か自分の家でまったりしたい。
「うち、来ますか?」
彼の足がはた、と止まった。少し驚いたような視線で見下ろされる。
「行く。いきなり行っていいのか?」
「はい、うちでダラダラしてってください。その、よければ明日も」
「よし! ……タクシー呼ぶ」
レネはスマートフォンを取りだした。
(この人普段電車乗るんかな……)
タクシーも構わないのだが、なんだろう。彼と電車で移動するのも悪くない気がした沙羅だった。
高校を出て以降、交通網の発達した東京で暮らす沙羅は、プライベートの移動はもっぱら電車。電車移動こそデートっぽいなと感じてしまうのも仕方がないのかもしれない。
「電車乗りましょ、電車。新宿過ぎてるから混んでないですよ多分! 普段電車乗ります?」
「……電車か。まあ構わないが。普段は通勤以外では乗らないな」
「むしろ通勤で乗るんですか!?」
一度夜に東京駅で食事をした時、確かに彼は電車を利用していたが、一駅だし地上に出てタクシーを拾うのが面倒だから電車に乗ったのだろうと勝手に思っていた沙羅がいた。
「うん。一駅だけだしな。あの距離でいちいちタクシーを呼ぶのもだるいし、そうでもしないと歩かない。いいぞ、たまにはプライベートで電車も」
「それはそうですね……あの、本当に電車嫌だったらタクシーでもいいんですよ? 断ってくださいね」
「いや、電車に乗ろう。せっかくだ。沙羅に誘われたし」
私に誘われたからなんなのだと沙羅はその場でひっくり返りそうになった。
しかし、目を白黒させながらも彼女は「OKです! 駅行きましょう!」と彼の手を取った。
スマートフォンを取り出し改札を通り、ちょうどやってきた快速に飛び乗る。席は空いていないが、それほど混んではいなかった。
「確かに満員ではないな……」
「金曜の夜とかは悲惨ですけどね。土曜のこの時間ならまだ大丈夫です。出張帰り、大荷物持って完璧空気読めない人になってますよ」
「だがこればかりは仕方がないな……」
「そうなんです」
「今週は出張はあったのか?」
「今週はずっと社内でした。ええっと……」
沙羅は今週は出張もなく社内でひたすらPCの修理をしていた。壊れたハードディスクやSSDの復旧、OSやソフトウェアの再インストール、電源装置の交換などが主。それらを説明し、平穏だったと笑って、それから彼を見上げた。
「タイ、どうでした?」
「タイは外は暑いのに、室内は冷房が強烈でジャケットが手放せなかった。東南アジア特有だな」
「確かに、南の方の国って室内は冷房ガンガンって聞いたことありますね……」
「流石に後半は身体がだるかった。日本の暑さも辛いが、冷房は常識の範囲内だ。向こうの冷房と外気温の温度差は効くな」
そりゃあ、いつにも増して疲れているだろうなぁと沙羅はかたわらの男を見上げた。確かにうっすら隈が見受けられた。
やはり、タクシーで移動した方がよかっただろうか。冷房の効いた車両内、沙羅は彼の手に己の右手を伸ばした。
彼の指が勝手知ったるように絡んだ。
「どうかしたか?」
「なんでもないです……楽しいなって思って」
今更になってじわじわと実感が湧いてきた。
自分がこんなに格好いい人と付き合ってるだなんてどうしよう。
「それはよかった。俺も楽しい。ただ電車に乗っているだけなのにな」
真っ暗な窓に映る彼と己の姿を見て、ああ、全然見た目が釣り合ってないなとは思いつつ、それでも幸せな沙羅がいた。
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