第35話 個室にて、カルチャーショック
「クソ……俺としたことが……」
レネは自分自身に悪態をついた。
早紀はレネを個室に引きずって行った後、座りもせずにドイツ語でこう問いかけたのだ。
「日本人と付き合うときの、お約束の言葉……覚えてますか?」
その言葉にレネはハッとした。そして己の顔面から血が引くのがわかった。彼は完全に血色のなくなった顔色をして珍しく片言で言った。
「……スキデス、ツキアッテクダサイ」
「
その通り。早紀に言われ、よろよろとレネは椅子に座り込んで文字通り頭を抱えた。
「しまった……ベッドの中で好きとか散々抜かしときながら付き合う気のない典型的なクソ野郎みたいな行動を……クソ……俺としたことが……」
「お話が早くて助かります。沙羅は混乱してます。しかも沙羅はダイナミクスのパートナーと恋人は絶対兼任したいタイプです」
「俺もだ。パートナーと恋人を分けるだなんてそんなの無理だ。ああ、俺は最低だ……なんてことだ……」
「沙羅もあなたじゃなければ言ったでしょうね。私と付き合う気あるの? って。沙羅は本来気が強いし言いたいことはきちんと言う性格ですけど、流石にあなたみたいな……会社の偉い方となると……」
「怖気付くほどのイケメン」という言葉を飲み込んで「会社の偉い方」に言い直した早紀がいるとも知らず、レネは頭を上げた。
「ありがとう、通訳してくれて助かる」
彼女は日本語の通訳をしたわけではないが、文化の通訳をしてくれた。素直に礼を言おうと思ったレネであった。
「お礼のひとつもなければその辺の椅子でぶん殴ってるところですが……まあ、気を落とさないでください。謝れば全然大丈夫です。じゃあ、沙羅を呼んできますね」
「悪いな」
「ここの会計、奢ってくれればいいです」
「もちろん」
レネは小さく笑った。
***
「大丈夫ですか? 早紀になんか言われました?」
沙羅は個室に行けと早紀にどやされて、テーブルの間をぬって個室に飛び込んだ。
「沙羅、ごめんな……忘れてた」
沙羅はいきなり謝られて混乱した。あれ、この男なんだか様子がおかしいぞと思って腕の中に飛び込む。
スーツ姿の時のような香水ではなく、少しセクシーな沙羅の好きな彼自身の肌が香った。彼女は誘われるように先週の官能的な触れ合いを思い出していた。心臓が高鳴る。
(違う違う違う今は違うっ!)
「どうしたんですか?」
沙羅が平静を装ってレネの背中をポンポン撫でてやると、彼は悩ましげに言った。
「ドイツでは……俺たちは男女交際において、日本で言うところの告白は普通しないんだ。本当に盲点だった」
「……それさっき早紀が言ってました」
本当に告白しないのか。それでどうやって付き合い始めるんだ。こうやってなぁなぁな感じで始まるのか。
にわかに信じがたい。でも彼も言うならそうなのだ。沙羅は彼の腕の中で目を回しそうになった。
「きちんとけじめをつけた方がいいか?」
「……え? 何です?」
沙羅は目をぱちぱちとしばたたかせた。グリーンとブラウンの綺麗なグラデーションが真剣な眼差しでもって彼女を見下ろしていた。
「俺は君と付き合ってるつもりだし、大切な彼女だと思っているし……でも、沙羅がすっきりしないなら改めて言った方がいいか?」
「私たち、付き合ってるってことでいいんですよね?」
「ああ」
「じゃあもう大丈夫です……」
なんだ、付き合ってたのか。沙羅はどうしていいかわからずに俯いた。顔が熱い。
こんな同じ人類とは思えない見目麗しい社長が彼氏。
何だか心臓がバクバクいい出して、このまま自分は死ぬんじゃないかと考えてしまった沙羅がいた。
いやしかし、彼と一緒にいてカルチャーショックを感じたのは今回が初めてだ。沙羅は彼の目を見上げて言葉を紡いだ。
「私がちゃんと聞けばよかったのに、すみませんでした」
「いやそれは……怖くて聞けなかっただろ。俺が完全に悪い。全面的に悪い」
「ごめんなさい」
「もうそれ以上謝ってくれるな」
「はい……」
彼の国の男女はどうやって付き合いはじめるのかさっぱりわからない。後で改めて聞こう。ここにいつまでもいたら皆が心配するし、そのうち客も来るだろう。
レネは沙羅を軽く抱き寄せると、額に唇を落とした。後頭部に彼の左手が包み込むように触れた。
「まだ痛む?」
「大丈夫です……」
沙羅は急に甘くなった空気が気恥ずかしくて戸惑いながらもレネの右の手を取った。
「じゃ、もう行きましょ。一緒にご飯……」
「そうだな、おすすめを教えてくれ」
「はい」
「沙羅とこういう暗めの店で酒か、いいな。ドイツを思い出す」
「懐かしいですね……ひと月半前なのに」
レネはしっかりと沙羅の手を握り直した。ドアを開ける。
「あれはあれで悪くなかった。ホテルの件も、それから飛行機にも電車にも感謝しないとな。君と仲良くなれた」
「何言ってるんですか」
「今思えば、結構楽しかったな」
いや、あれはしんどかっただろう。沙羅は呆れて物も言えずに彼を見上げた。
レネは機嫌よさそうだ。今にも踊り出してもおかしくないくらいには足取りも軽い。
(ほんっとうわかりやすいよね……)
気難しくて気位が高そうに見えるのは話し方が堅苦しく、しかも仕事の際はきりりと真面目な表情が多く、その上猛烈に容姿が整っているから。
いつも余裕そうな笑みを浮かべているように見えるが、プライベートにおいては実はとてもわかりやすい男なのである。
沙羅の目にはもうかわいいSubにしか見えていなかった。
ふたりが元の席に戻ると、早紀と佳代が仲良く並んで酒を飲んでいた。
「先にいただいてます〜」
まだ始まったばかりなのに飲み過ぎではないのかと沙羅は早紀を一瞥してからレネを見た。彼は肩をすくめてから佳代に視線を移した。
「あなたも沙羅の友人?」
「あ、どうも、佳代です!」
「佳代さんとはここで何度か一緒に飲んでます。ここの常連さんです」
「レネだ、よろしく」
沙羅が腰を下ろし、繋いでいた手が流石に離れる。
「沙羅、会計は俺が持つから好きなものを。ふたりも何でも頼んでくれ」
佳代が「本当にいいんですか?」と驚き、一方の早紀は「よっしゃ」とメニューを広げた。
沙羅は視線をレネに向けた。
「あんのぉ……いいんですよ、そんなことしなくても」
「彼女に借りを作ってしまったから音速で返したい」
レネが言えば、早紀は沙羅を見てピースしてきた。ああ、抜け目ないなと思った沙羅である。
一方の佳代はいつもの闊達なお姉様はどこに行ったのか、驚いたような声を出した。
「え? 私も?」
「君も沙羅と仲がいいんだろう。何かの縁だ。あと店長に礼を言わないとな。部屋を借りてしまった」
(相変わらず超まじめだな……)
沙羅はとりあえずレネの前にドリンクメニューを広げた。ビールは看板のものがおすすめ、個室以外はオーダーはカウンターからと簡潔に伝える。
沙羅はハイボールを口に運んだ。
純度の高い氷だからか、あまり氷が溶けておらず美味しい。
「色々あるなぁ……とりあえずエールにしようか。みんなはフードはどうする?」
レネの目が言外に「早紀に何か食べさせないとやばい」と語っていた。沙羅は全面同意だった。無言で彼の目を見つめながら頷いた。
「メンズいて四人いたら結構頼めるんじゃない? コテージパイいこうよ」
「ん〜とりあえずフィッシュ&チップスはどう〜?」
佳代の提案したコテージパイにはサラも大賛成だったが、早紀フィッシュ&チップスはどうかと思った。先ほど平らげたばかりではないか。
「早紀、大丈夫? さっきフィッシュ&チップス食べたの覚えてる?」
「ん〜? 食べたっけ?」
目が据わっていた。
「ちょっとお冷やお願いしてきます」
「俺が行く。あとコテージパイだな、ああ、そうだ……」
彼は財布を取り出して、中を確認した。
「悪い、ちょっとオーダーがてら外に出てコンビニに行ってくる」
そう言って、腰を上げかけたレネに早紀が頬杖をついてにいっと笑って言った。
「財布に忍ばせてた買い置きのゴムが尽きたとか?」
(ちょっと待ってちょっと待って何言ってんの?!)
沙羅は焦ってレネを見た。
レネは三秒くらい固まった。いきなり避妊具の話なんてされるとは思っていなかったのだろう。そりゃあそうである。
彼はドイツ語でボソッと何か言った。そして早紀がまたもやドイツ語で何か言った。
「俺のリスニング、合っていたな……聞き間違いかと思ったんだが。沙羅、本当に友達なのか? 弱みでも握られてる?」
「残念ながら握られてないですね……酔っ払ってるんで許してあげてください。私を同類だと思わないでもらえると嬉しいです」
「あたしも同類じゃないんでそこんとこよろ」
佳代が自分を巻き込むなと言わんばかりの目で早紀を一瞥した。
「え、じゃあコンビニに何しに行くんですかぁ?」
「ATMだ。現金を下ろしに行くんだよ……ここは個人経営の店だろう、現金の方がありがたいはず」
カウンターに寄って店長に注文を伝えたレネはドアノブをカランコロンと言わせて店を出て行った。早速沙羅は苦言を呈した。
「ちょっと早紀……」
「あっは、思ったよりも日本語できるね、やばい」
「お早紀、あんた酔ったふり? タチ悪いわ……」
「いい加減冷めた。あー面白い。ま、あのくらいできる人なら多分付き合ってても言語的に支障ないと思うよ」
その時だ、店長がテーブルにお冷やをサーブしにきた。
「なんか、彼氏、すぐ戻るって言って出てったけどなんかあったか……? コテージパイはちょっと時間かかるけどみんな大丈夫?」
「大丈夫、待ちます。ってか店長聞いてくださいよ、お早紀が!」
佳代がかくかくしかじかとコトの経緯を説明した。すると店長は感極まったようにこう言った。
「わざわざATM行ったの!? やっば……神客か……」
「現金だと嬉しいんですか?」
沙羅は首を傾げた。
「クレカは! 手数料を取られるから! おいお早紀、下品なこと言った上に何しに行くだなんて聞くなよ、粋に現金払いしようとしてくれた奴さんを立ててやれんのか!」
「え〜そんなこと考えてもみませんでした〜」
なるほど、彼は店舗側の手数料のことを考えていたのか。
しばらくしてレネが戻って来ると店長はエールをサーブして、四人は乾杯したのであった。
レネも店長に一杯奢っていた。
楽しい夜はあっという間に更けていった。
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