第34話 英国居酒屋、レネと早紀

 ドアベルが鳴って、沙羅はびっくりして背筋を伸ばした。


(来た、本当に!)


「ねえちょっと待って……やっば実物の方がイケメン」


 早紀が小声かつ早口でそう言った。そしてこうも言った「ドイツ人じゃないだろあれ、ゲルマン人じゃない」と。

 確か早紀は以前も彼がドイツ人っぽくないと言っていた。彼は人種的にはドイツ人要素が少ないので彼女が言っている意味は沙羅にも理解ができた。


(私は欧米人区別つかないけど……やっぱわかるもんか)


 そして早紀は畳み掛けるように沙羅に小声で耳打ちした。


「本当にSub? イケメンすぎない?」


 沙羅は重々しく頷いて見せた。

 Subであんなに綺麗な男性はそうそういない。

 レネは沙羅と目があった瞬間一瞬微笑んだが、店長と何やら会話している。


 早紀の言うとおりで誰が見ても彼は容姿端麗だ。自分には釣り合わないくらいのいい男なのである。先週の出来事は何かの間違いかもしれない。沙羅の都合のいい妄想だ。


(あれ、夢か)


 夢かもしれない。そうだ、夢だ。

 沙羅は立ち上がった。座ったままで出迎えるのはなんだかどうかと思ったのである。


「沙羅、悪いな待たせた」


 夢だと思っているその該当人物が目の前にずいと現れて、腕を広げるような、明らかにこれから自分はあなたにハグをしますよという動作に沙羅は驚きのけぞって壁に後頭部をぶつけた。

 ド派手な音とともに目の前に火花が散る。

 壁と沙羅の頭蓋骨が奏でた鈍い音に驚いた早紀が小さく叫んだ。次いでレネの声がつづく。


「沙羅?!」


 沙羅は頭を押さえてぺろりと舌を出して見せた。


「シナプス三本くらい切れたかも……しれません」

「大丈夫か? 悪かった……驚かせたな。先週から俺は何も学んでない」

「大丈夫です……あの、こちら友達です」


 気遣うように視線を合わせてきたレネ。後ろから店長が保冷剤を持って駆け寄ってきた。沙羅は早紀を紹介しておこうかと思った。


「ほら、これでちょっと冷やしとけ。お兄さん、うちのお早紀が話あるってよ」

「話?」 

「あーシャチョーさん、初めましてどうも早紀ですー!」

「レネだ。よろしく」


 沙羅が後頭部に保冷剤を当てると、早紀が右手を差し出した。レネは彼女に応えて、二人は握手をした。


Könnenクネン Sieズィー bitteビッテ ganzガンツ kurzクルツ mitkommenミットコメン?」


 沙羅の目に、レネが目を丸くしたことが窺えた。沙羅には理解不能だったが、「ちょっとだけついて来ていただけます?」という慣れたドイツ語。それも迷いがない、発音もかなりよかったから彼は驚いたのである。


「沙羅、ちょっと彼借りてくね〜!」


 レネはそのまま早紀に引っ張られていった。


「あれ何? 沙羅ちゃんの男?」


 常連のお姉さま、佳代がカウンターからエール片手にこちらを見た。

 沙羅も早紀と一緒によくこの店に来ることが多いので彼女と何度も飲んだことがあった。


「……一言じゃ言えないです」

「めっちゃいい男じゃない? 日本語も問題なさそうだし、中身がアレじゃないなら逃すんじゃないよ」

「いっやー、俺も驚いたよ。あれが沙羅の男か〜。どっかの社長なの? IT 系ベンチャーとか?」


 誰も製造業のトップだとは思うまい。

 沙羅は重々しく口を開いた。


「正直なんかの間違いだと思ってるんですが、うちの社長です」


 沙羅がそう言った瞬間、一瞬時が止まった。


「うっそだろ、南方精密の?」

「年収億じゃん……シンプルなTシャツにテーパードパンツにサンダルに……嫌味がなくていいね。いや〜早く部屋から出てこないかな。あの顔面をつまみに無限に酒飲めそう」


(佳代さん、服装チェックまでしてたのか)


 抜け目ない。すごい。早業だ。沙羅は瞠目するほかない。 


 沙羅と早紀はほぼ同時期に内定をもらい、当時早紀がバイトしていたこの店でお祝いの会を開いてもらった。常連や店員などから祝ってもらったので、皆にどこに勤めているかはバレている。


「あ。ほんとだ〜。ホームページに載ってる。これスーツ姿破壊的だね!」


 佳代はするりと早紀の座っていた席に移動、スマートフォンを取り出し、ホームページをチェックしている。仕事が早い。

 スーツが似合うのは誰よりも良く知っているつもりだった。彼の服装は堅実でいて嫌味がない。


 彼女はエールを飲み干してこう問いかけてきた。


「こう言っちゃアレだけど、靴とんがってたりしない?」

「全然。黒か茶のオーソドックスな紐靴か、あとは紐じゃなくてベルト? みたいなのがついてる時もありますね」

「ああ、モンクストラップか。いいんじゃない?」

「スーツも割とかっちりスマートにさりげなく着こなしますよ。仕事の時はもちろん高級ブランドを」


 今は夏場だからノーネクタイだが、冬になればまたネクタイにジャケットをばっちり着こなした姿を拝める。

 眼福という言葉は、スーツ姿の彼のためにあるに違いない。


「やっぱほら堅実な会社のイケメンはちゃんと沙羅ちゃんみたいな真面目でいい子を見染めるんだな〜おもしれ。頭、どう? そろそろ良くなった?」


 ちょっとこれでも飲めと店長がお冷やを持ってきた。


「あ、はい。ありがとうございます」


 沙羅は自分の後頭部に押し当てていた保冷剤を店長に返した。

 手で押すと少々痛い気もするが、まあ大丈夫だろう。

 彼女はレネと沙羅がいる奥の部屋に視線を移す。


 意外に静かであった。どうやら早紀は暴れていないようだ。


「大丈夫かな……」


 レネが早紀に何を言われているのか、それだけが気になる沙羅であった。いじめていなければいいのだが。


 正直、あのレネをいじめられる人間なんてそうはいないのだ。沙羅も頭ではわかっている。でも彼女の本能は違った。

 もう、沙羅のDomとしての本能では彼は庇護下にあるSubであった。

 大切なSubを守ろうとするのはDomのさがである。


「沙羅、気になるか? 突入する? 気分転換に何か飲む?」


 突入したい気持ちは山々だが、早紀は学生の頃からの友達だ。

 尊重したい気持ちもあった。


「なんか、スッキリしたハイボールあります?」

「任せろ。つまむものも出すか?」

「はい、お任せで」

「了解!」

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