第33話 喫煙所、沙羅への電話 side Rene

「……レネ」

「ん?」

「まだヒガシさんと連絡取れないの?」

「……振られたのかもしれない」

「ズバリ言ってもいい?」

「なんでも言え。いや……正直困ってるから助言があれば嬉しい」

「それ、付き合ってるって思ってるのそもそもレネだけじゃね?」


 喫煙所で、レネは逡巡した。

 今日は大学時代の部活のOBのランチ会があり、その後何人かと2件目のカフェに行き、それが終わって喫煙所に向かう康貴にタバコも吸わないのに張り付いて行って、現在は絶賛副流煙を浴びて吸いまくっている状態だった。


 付き合っていると思っているのは自分だけ? いやいや、そんなわけはない。そんなわけはない……と思ってレネは硬直した。思考停止した。


 そして、右手の手のひらを康貴に差し出した。


「何?」

「タバコくれ」

「ほらよ」


 康貴はレネにタバコを渡すと、慣れたようにライターを向けてくれた。いつ以来だろう、康貴からタバコをもらうのは年に数えるほどである。

 火がつけば、特有の苦味が口に広がった。ああ、そういえばこんな味だっただろうか。相変わらずまずいなと思って正直に口を開いた。


「まっずい」

「毎回まずいまずい言いながらもらって吸うのまじで何?!」


 まじで何、と言う康貴も彼が追い詰められているのを実は知っていた。ストレスが溜まると彼はもらいタバコをするのである。


 ちなみに、この「まっずい」をもちろんのこと周囲は理解していない。彼ら二人の日本での会話は康貴の要望で基本ドイツ語なので、周りの喫煙者からは謎言語を話す外国人がいるなという印象で受け止められている。


「いやほんと、ヒガシさんみたいなクッソ真面目がそっけないとか電話の折り返しないって、何したの?」

「帰り駅まで送った」


 康貴はこいつは何を言っているんだと言わんばかりの目をして、虚空のあらぬ方向を一瞬見つめたのちにレネの目を真っ直ぐ見た。


「うん。いきなり帰りの話かよ。そもそもさ、家に泊めたんでしょ? プレイ以上の事してるでしょ?」

「黙秘」

「何が黙秘だよ。なんにもしてなきゃ『プレイしかしてない』って言ってるだろ」


 レネはその通りだなと押し黙った。康貴には何もかも筒抜けである。そしてため息と共に煙を吐いた。

 新宿の空、灰色のコンクリートジャングルの虚空に消えていく煙を目で追う。空もどんより曇り空。


「ベッドの上で無体でも働いたんか? あんまり俺たちそういう話しないから知らんけど、レネってそういうタイプじゃなくない? ちゃんとコミュニケーション取るだろ」


 ふたりは仲がいいが、たとえ酒が入っても基本的にはお互いの下半身の話はしないタイプだった。

 

「そんな傍若無人に振る舞った記憶はない……」


 そうは言いつつも、彼自身自信がなくなってきた。誘ってくれたのが彼女の方からだったので舞い上がっていた。


(俺はなにかやらかしたか……? もっとコマンドを使わせてあげるべきだったか?)


 ベッドにインしてからはレネがリードした。コマンドを使うように促しもしなかった。でも、彼女も結構身を委ねてくれたし……何より慣れてなさそうで、うぶな様子がまたよかった、と先週のことを脳裏に呼び起こす。


「レネから誘ったんだよな?」

「違う、向こうからだ」


 え、と康貴の動作が止まった。


「まじで?」

「まじだ。俺も驚いた」


 康貴は首を傾げた。


「こんな言い方アレだけど、それ実はレネの勘違いじゃない?」

「それってなんだ?」

「いや、だからヒガシさんがベッドに誘ってきたってことだよ」

「俺はこの耳で聞いたぞ、『寝室に連れて行ってください』って」


 康貴はそれを聞いて目を見開いて、口をワナワナと開いたり閉じたりしたのち、数歩後ずさった。


「あの……ヒガシさんが、まじか……」

「あのヒガシさんがまじかってなんだよ」

「いや……」


 妙に歯切れの悪い康貴の襟首をレネは引っ掴んだ。


「なんか意外だ。そう、なんか意外だっただけ。まあでもDomだもんな。そういうのも本来は積極的なはず」

「そんなに積極的でもなかったけどな。俺は嫌いじゃないが」

「あ、そですか……」

「反応も悪くない」

「あ、なるほど……」


 ドイツの知的階級層は好んで二重否定を使う。嫌いじゃないというのは好きという意味だし、悪くないというのは最高という意味である。


 康貴はそれを完璧に理解していて「Ach, soアッハ ゾー.」つまり、「あ、そうなんだ」あるいは「なるほど」などと猛烈に適当な相槌をうっているのである。英語だと「I see.」 に相当する。


 レネはタバコの煙を吐いた。見た目には旨そうに吐いているように見えたが、内心咽せそうだったのは内緒である。

 彼は完璧に情緒不安定だった。


(沙羅……君がわからない)


 レネは完璧に沙羅と付き合っているつもりであった。


 しかし、一つ落とし穴があった。まずもって彼の国には「お付き合いしましょう」と言ってから付き合う文化がなかった。 

 彼は久らく日本人の彼女なんていなかったので、頭からすっぽり消え去っていたのだ。日本人のこの文化が。

 康貴も近頃日本人の彼女なんていなかったし、そもそも遊び人であるし、彼も日本の告白文化をすっかりさっぱり忘れていた。


 実に救いようのない男たちである。 


「うーん、なんかやらかしてるよなぁ。あのレスポンススーパー早いヒガシさんがかぁ……まさかとは思うけど……いや、レネのことだからもちろん大丈夫だと思ってるけど」

「なんだ?」

「……ちゃんと避妊したよな?」


 今度はレネがこいつは何を言っているんだ? という目で康貴を見た。


「しないわけないだろう。俺はそんなクズじゃない」

「だよな。そうだよな……だとするとなんだ?」


 レネもさっぱりわからなかった。

 そもそも、ここまで関係が進むと思っていなかったのだ。

 まさかとは思ったが念のため買っておいた避妊具が活躍するとは先週のレネも思いもしていなかった。


「電話してみなよ」

「……怖い」

「レネが! 女の子相手に怖いって!? やっばいな……ヒガシさん魔性の女すぎる」

「魔性ってなんだよ。悪い女みたいじゃないか」


 康貴は二本目のタバコを取り出し咥えて火をつけた。


「レネをそんなんダメにしてる段階で、俺にしてみればじゅうっぶんに悪い女だよ。ほんとどうしちまったんだよ。らしくないぞ」

「わからない、俺だってこんなの初めてだ……大人になってから恋愛でこんなに振り回されるなんて予想外過ぎる」

「別に恋愛しててもいいけどさ、あのバカ一年以内に引きずり下ろすんだろ? シャキッとしろよなシャキッと」


 レネはため息と共に煙を吐いた。あのバカとは、会長である健二のことである。


「そうだな……」

「とりあえず仲直りしろ。あと、奴に気取られるなよ? 仲直りしたら、俺がヒガシさんと付き合ってるふりでもするか。そしたらきっとレネとヒガシさんが仲良さそうにしてても目を逸らせる」


 確かに康貴の言う通りだ、とレネは考えた。

 健二に気取られるのはまずいのだ。最近、あの男は自身の血のつながらない姪をレネに紹介してきた。


 健二の妻の妹の娘である。

 一言挨拶しただけだったが、その後やたらとどうだ、今度は食事でもと言ってくる始末。レネも気がついた。おそらく、見合いを企んでいるのだ。

 彼は家では妻に頭が上がらないからだ。


 レネを後継者にするのは構わないが、自分の親族と結婚させろとおそらく妻に言われているのだ。


 レネは長くなった灰を灰皿に落とし、ポケットからスマートフォンを取り出した。 

 近頃、煩わしいことが多すぎた。


(声だけでも聞きたい……)


「……かけるか」

「お? いけいけー! ほら、週末だし、出てくれるよきっと」


 レネは恐る恐る電話をかけた。

 5コールして諦めかけたその時、不意にコール音が途切れ、彼は美しいヘーゼルの目を見開いた。


*** 


「え? 会ってくれるって?」


 隣で電話を聞いていた康貴がよかったじゃんとレネの肩をばしばし叩いた。


「行ってくる。しまったタバコ吸うんじゃなかった」

「服は……外だから大丈夫じゃないか?」


 なお息は死亡している。


(コンビニでマウスウォッシュでも買うか)


「そう願ってる。じゃあ、またな」

「じゃあな、うまくやれよ!」


 康貴と話をしながら、我ながらどうかしていると思った。

 今までだったら接待でタバコ臭くなっても気にもせずに女性に会いに行っていた。


 相手に求められるまま、週末仕事終わりに会いに行ってやってるだけ、自分は偉いだろうとそう思っていたのに。 


 今まで彼は濡れ手に粟状態で美女を抱いてきた。今まで女性に困ったことなどなかった。勝手に向こうから寄ってきたし、最近に至っては正直言って食傷気味ですらあった。


 しかし、沙羅は違った。

 

(沙羅は俺を仕事の相手としか見ていなかった……)


 そう、それがあまりにも新鮮だった。

 大抵の女性はレネが冷たくしても媚びを売ってくるのに、彼女はトラブルを避けたいからか、会社の幹部であるレネに一定の距離を保ってきた。仕事以外で関わりたくないという態度を露骨に示しながらも、レネが困ると助けてくれた。

 そして慣れない土地と環境でもきっちりと己の仕事をこなす彼女はとても格好よかった。


 コンビニで目当てものを無人レジで購入し即使用、タクシーを呼ぶのによさそうな路地に移動する。手の中のスマートフォンが震えた。沙羅からのメッセージだ。店のリンクが送られてきたのである。


『気をつけて来てください』


 そう一言添えられていて、レネは笑みを深めた。そして道端ではっと顔を上げる。スマートフォンを見てニヤつくやばい男になっていたなと表情を取り繕いながら『ありがとう』と返信し、タクシーアプリに住所を貼り付けすかさず呼んだ。

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