第32話 一週間後、沙羅の困惑
彼の部屋に泊まってから、一週間が経過していた。
あの日の翌朝「次回会った時にきちんと契約を交わそう」と彼に提案された。もちろん、沙羅に否やはなかった。「契約書を準備する。書きたいことを考えておいてくれ」とも言われた。
彼は契約の話をしながら、やっぱり美味しい朝ごはんを出してくれた。カフェマシンで淹れたカフェラテに、サラダとスープと目玉焼き、そしてバターとジャムをたっぷり添えたトースト。
もちろん、沙羅が契約に前向きだったのは前日の彼がやっぱり非の打ちどころがない男だったからである。
思った通りで彼はベッドの上でも紳士だったし、慣れない沙羅をスマートにリードしたし、何より何度も好きだと言ってくれた。
沙羅は舞い上がった。
一緒に風呂に入った時も、初めこそ戸惑ったが始終彼は気遣いお姫様扱いしてくれたし、その後はベッドに戻って朝まで一緒に寝た。
起きてのち、しばらく呆然として頬を染めるくらいには彼は完璧だった。
問題は翌朝に起こった。契約の話をしている最中も、その後も、彼氏彼女だの、付き合おうだの、そんな提案は一切出てこなかった。ああ、やっぱりと沙羅は内心落ち込んだ。
一方、彼は始終機嫌よさそうであった。しかし途中からどんどんテンションが下がっていく沙羅に気がついて心配してくれた。
沙羅自身は隠そうとしていたのだが、どうも落胆ぶりを気取られてしまったようであった。
「沙羅、どうした? 昨日実はつらかった? 今ももしかしてどこか痛いか?」
「あ、大丈夫です……その、そろそろ帰らなきゃだなと思って」
咄嗟に出まかせを言ってみる。彼は本当に嬉しそうに沙羅を見た。右手をとってそっと握られる。
「俺もまだ一緒にいたい。今日も夜まで居てくれても構わない……正直言うと、居てほしい」
(本当わからないな、何考えてるんだか……)
「いいえ、帰ります。いつまでもお邪魔してると悪いので。明日、フライトですよね」
「ああ。明日からタイとフィリピンだ。行きたくないな……沙羅、もし帰るならタクシーを呼ぶ。昨日負担かけただろう、君はそれでなくても出張帰りで荷物も多いし……アプリで呼ぶ。俺のクレカが紐づいてるからただ乗って降りればいい」
神田から沙羅の住む立川までタクシーで帰ったら料金がとんでもないことになる。彼にとっては痛くも痒くもない出費だが、沙羅がそれは流石に申し訳ないと固辞すれば、彼は駅まで送ってくれた。
「沙羅。また連絡する。出張から帰ったら会おう」
「はい。気をつけて行ってきてください」
駅の改札前。人の波から外れた場所でそんな会話をし、さて帰るかと背を向けかけると、引き止められ急に抱き寄せられた。
「……本当にもう帰るのか?」
「何言ってるんですか、帰ります。明日から出張ですよね、ちゃんと荷造りしてくださいね。杉山さんによろしく言っといてください」
「うん」
(どうした? なんなの?)
妙にしおらしい男に沙羅は困惑した。思い切り抱き寄せられ、正面から抱きしめられているので彼の顔は見えない。
沙羅は彼の腕から逃れようと軽く胸を押した。
彼女は典型的で真面目な日本人だったので、人の多い駅の前で真昼間から抱き合っているこの状況が耐え難かったのだ。
「ちょっと、離してください」
そう言ってもなかなか離してくれなかった彼だったが、最後しぶしぶといった様子で抱擁を解いた。そこで安心した沙羅だが、もう一度抱き寄せられて極めつけにキスをしてきたので沙羅は飛び上がって、あんまりにも恥ずかしかったので改札に逃げ込んだ。
赤面しながら車内でスマートフォンを見れば即座に謝罪のメッセージが来ていた。
さすがに怒り心頭だった沙羅であったが「大丈夫です。こちらこそびっくりしてすみません」と送り、その後何度か着信も来たが何を話していいかわからず、困り果てて無視してしまった。
その後も何度か話したいとメッセージが来たが、沙羅はどうしていいかわからずまともに返事できていない。
作業中だからまた後で、などと返事をし、それからこちらからは返事できていないのだ。
「沙羅、なんかテンション低いけど大丈夫?」
「あ、早紀。ごめん……色々、色々あってさ」
この日、日曜はドイツ帰国子女の友人の早紀と新宿で映画を見て、早くからやっている酒場でダラダラ酒でも飲もうかという話をしていた。翌日は海の日で祝日。めいいっぱい遊ぼうと話をしていたのだ。
二人は、さて、これから店に入ろうというところだった。
早紀には出張土産を手渡し済であった。欲しがっていたヘーゼルナッツクリームの入ったお菓子とジンジャーレモン味のグミである。
沙羅だけでは見つけられず、レネがスーパーで一緒に探してくれたものだ。
「ドイツ出張大変だったって聞いたけど……」
店は荻窪の英国居酒屋。四時から開いているのだ。
ここは元々早紀のバイト先。
店長とは沙羅も顔見知りだ。それもあって席も広めの場所に案内してくれたし、混んできたら2時間制だが、空いている間はのんびりしてほしい、と言ってくれた。
周りを見回すと、他に客はもちろんいない。
「うん、やばかった……」
「とりあえず飲むか。いいよ、聞くよ。愚痴でも何でも。社長結構いい人だってこの前電話した時言ってたのにこんな……大丈夫?」
「大丈夫。とりあえずビール飲もうかな。こんなテンションでごめん、今日は奢るよ。早紀も何でも頼んで」
先ほど観た映画の内容なんてもうこれっぽっちも覚えていない沙羅がいた。全く大丈夫ではないのだが、沙羅は大丈夫だと思い込んでいた。
大丈夫だということにしておきたかった。
「いや、お土産もらっておいてそれは申し訳ないから大丈夫だけど……なんか適当に頼もうか。とりあえずフィッシュ&チップスいく?」
「うん」
そして、出張のことからその後のことも、多少オブラートに包みつつ、酒を片手にポテトをつまみ、たまに食事をつつきながら沙羅はとつとつと語った。
「泊まったの?」
「うん」
「じゃあプレイだけじゃなくって、その……」
「うん」
つまり寝たのかと早紀に暗に問われて、沙羅はうんと素直に言った。
「察した。で、何でそんなにへこんでるの? 相性最悪だったとか? やばい性癖だったとか? それともど下手くそだったわけ?」
これ以上はもっと飲まないと話せない。普段、こんな生々しい話を沙羅は人にしたことがなかった。
とりあえずハイボールを頼む。早紀はバーボンをロックで。
それを傾けながら、翌朝の件も、それから謝罪のメッセージが来たことも、そして電話にどうしていいかわからず無視してしまったという話をした。
泣きたくなった。もうどうしていいかわからない。
「好きとかなんか言ってくれなかったの?」
沙羅は先週の夜のことを思い出していた。ベッドでも、それからシャワーの最中も散々言われた。
「沙羅、好きだ」
最初はキスの合間に。触れそうなほど近くで紡がれるその言葉に、沙羅から唇を求めた。
「綺麗な肌だな。ずっと触っていたい。かわいい、本当に好きだ」
膝を掴んでその内腿に頬を寄せながら。
「沙羅、好きだ」
ラストスパート、快感の向こう側に駆け抜けながらうわずった声で。耳元に唇を寄せながら。
あの日の出来事が脳裏に鮮明によみがえり、沙羅は赤面した。誤魔化すように酒を口に運ぶ。
でも、盛り上がったらそれくらい言うのではないか、ああいう恋愛慣れしてそうな男は。
「あの、その、言われたけど、最中だから当てにならなくない?」
早紀は特大級のため息を吐いた。ダブルのバーボンをごくごく飲み干して、どんと音が鳴るほどの勢いでコースターに置いた。氷がカランと鳴る。
ロックのウイスキーをこんな勢いで飲む人間を沙羅は初めて見た。
「そいつ本当相当なバカだな。日本住み長いんでしょ? 沙羅、いいこと教えてあげるよ。そいつ多分沙羅ともう付き合ってる気満々だったと思うよ。でもそっけなくされて多分パニックになってる」
「え? ど、どういうこと?」
沙羅はびっくりしすぎてグラスを取り落としそうになった。
「もう多分、先週の時点でそいつは沙羅と付き合ってると思ってる。絶対そう。間違いない。びっくりするほど詰めの甘いSubちゃんだな。本当にそいつ仕事できるの? そいつが社長? まじで会社大丈夫?」
「だって一度もそういう話されなかったよ? そんなわけなくない?」
「律儀に『お付き合いしてください』って言うのは日本含めこの辺のアジアの人間がする謎文化。欧米人は告白なんてしない。聞いてみなよ。私ってあなたの彼女でいいんですよね? って。当たり前だって絶対に言う」
沙羅は理解が全く追いつかず、バカみたいに口を開けて早紀を見た。
その時だ、テーブルの上の沙羅のスマートフォンが震えた。
なんと、レネからの着信だ。あまりにもタイムリーでパニックになる。
沙羅がギョッとして手を虚空でさまよわせていると、なんと早紀がスマートフォンをひったくった。
「ちゃんと話しな! はっきり、いいね! あれだったら今ここに呼びつけちゃえ。男なんて呼びつけてこない奴はゴミだから! こなけりゃポイ捨てだ!」
着信ボタンをタップし、沙羅の耳元に電話を押し付けてきた。
(ぎゃぁぁぁぁ!)
沙羅は震える手でスマートフォンを掴んだ。恐る恐る声を発する。
「も、もしもし……」
「沙羅……よかった。ありがとう出てくれて……本当にすまなかった……あの時思わず……外で嫌だったな。本当に悪かった、許してほしい」
「大丈夫です……すみませんこちらこそ、電話とか出なくて。ごめんなさい」
早紀は映画館で買ったグッズのペンとメモ帳をバリバリ開封して、何事か書き殴って沙羅に見せた。
『謝るな! ここに呼び出せ。今すぐ来いって。私がバカにもわかるようにそのバカにドイツ語で説教してやる!』
(こ、怖っ……)
バカが被っている。多分酒が猛烈に回っている。呼び出したら、何が起こってしまうのだろうか。
店の中でこれ以上大騒ぎするのは不味かろう。腰を半分上げ、店長の方を見る。
手のひらを向けられて、座っておけとジャスチャーされ、沙羅は椅子にもう一度腰掛けた。
確かに未だ五時前。客は自分達だけだ。
「沙羅は何も悪くない」
「いえ、そんなことは……ところで、出張大丈夫でしたか?」
「ああ、なんとかな。正直出張なんかどうでもよかった。早く日本に戻って君に会いたかった。話したかった。本当にすまなかった。会いたい。今、すぐにでも」
その言葉に、沙羅は息を飲んだ。
鈍い沙羅でも流石に勘づいたのだ。早紀の言うことは多分正しい。
プライド高く気取ったこの男が、ここまで謝ってきて会いたかったと何度も言うのだ。まるで懇願しているかのような声色で。
(嘘でしょ……そんな)
「ああもうじれったいな」
向かいに座って頬杖をついている早紀の目が据わっていた。彼を呼ばないと暴れるなりなんなりするのではと沙羅は目を泳がせた。
おそらくさっきの一気飲みがいけなかった。彼女はアルコールに脳神経を冒されている。このまま電話を切ったら、多分烈火の如く怒る。
沙羅は思わず保身に走った。
「あの……今から会いませんか? 友人といるんですけど……彼女が会ってみたいって」
「もちろん行く、どこにいる?」
「荻窪のパブです。イギリス料理とビールとウイスキーのお店」
「わかった、住所を送ってくれ。ちょうど今新宿にいるから、タクシーを捕まえ次第すぐに行く」
電話を切ると、腕を組んだ早紀がにっこりと笑ってよくやったとでも言うように頷いていた。すかさず店長の声が飛んできた。
「なんとなく雰囲気で察したが……お早紀、野郎におイタするのはいいが、暴れるんじゃねーぞ」
「大丈夫ですよぉ。あ、奥の個室って今日予約入ってます?」
「7時まで予約はない。使ってもいいが、暴れるなよ? いいな、暴れるなよ?」
店長と早紀の物騒な会話を聞いて、沙羅は心の中でレネに謝罪した。
(ごめん、頑張って……)
早紀は予想以上に友達想いなようだ。いやまさかこんなに、とは思ったが、自分のことを心配してくれているのだと思うとあまり強く出られない沙羅がいた。
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