第30話 リビング、2度目のプレイ

(なんでこんなダサいどうしようもない部屋着で……)


 普段の部屋着と同じ格好をしている沙羅がいた。

 ドイツに出張に行った時よりは多少ましと言えるかどうかというレベルのそれ。


 流石に、さっきまで着ていた仕事用に着ているブラウスやボトムスをもう一度というのは流石に無理だった。シャワーを浴びた後にまた着るなんて、あり得ない。


 それっぽい服は手持ちでなかった。

 荷造りの時に現実逃避してしまい、詰め込まなかったのだ。


 なんというべきだろうか、沙羅としては現実味がなかったのだ。またこの男とプレイするという事実が。そして一歩踏み込もうとしている自分自身が。

 沙羅は完璧に挙動不審であった。

 それに変に気合を入れた格好をしてもおかしいことこの上ない。


 流石に下着だけは、出張中に着用している地味で安物で最悪ホテルのコインランドリーで洗っても心情的に許せるものはいけないのではないか、このままではまずいぞ、と出張先でショッピングモールまでレンタカーを飛ばして無難なものを買いに行った。


(セットで2万オーバーなんだけど……)


 数ヶ月前、友人の早紀が男がいると金がかかるから今気楽でいいと言っていたことをふと思い出した。


「気が乗らなかったら、俺がシャワーを浴びている間に帰るといい」


 レネは先にシャワーを浴びた沙羅を、しかも、いつもの癖で髪を濡らしてしまい、シャンプーする羽目になった彼女に笑いながら追加のファイスタオルにドライヤーとミネラルウォーターを渡してシャワールームに向かった。


 とにかく気の利く男である。


 沙羅は荷物から手鏡を取り出して髪を乾かし、今や挙動不審にリビングを右往左往していた。


 自分の顔面が、あの男に全く釣り合っていない。贔屓目に見ても普通の顔面。そう思った沙羅は盛大にため息を吐いてソファに腰を下ろした。心臓はもはや己のものとは思えぬほどに暴れ回る。


「あー意味がわからない意味がわからないっ」

「何が意味わからないんだ?」

「早っ!」


 ドアが開いた。沙羅は腰掛けたまま飛び上がった。

 レネもラフな部屋着姿だった。向こうが気を遣ってくれたのかもしれないと沙羅は思いつつも、時計に目を向けた。


 別に早くもない。


 沙羅がウロウロしながらうだうだ考え込んでいたところ、どうやら時間が矢のように過ぎ去っていたようだ。

 

「別に早くはないですね」

「……普通だと思う」

「はい、そですね……」


 レネはソファに優雅に腰掛けると沙羅の方に目を向け、肩にかけたタオルで乱雑に頭を拭きながら言った。


「帰らなかったんだな?」

「はい。どこかに隠れて脅かそうとかちょっと考えましたけど!」

「それは傑作だな、なぜやらなかった?」

「高級なものとか入ってそうだからですよ!」


 レネはつかつかとリビングに行き、デスクの近くの収納を開けた。呼ばれたので素直に中を覗き込む。

 ウォークインクローゼットだ。かなりの広さがある。

 コートなどのアウターやビジネスバッグなどが整然と収納されている。


「寝室にもクローゼットはあるが、手狭でな。こちらにも多少置いている。この辺はイタリアのコートだ」

「アル、マーニ……」


 沙羅でも知っている有名ブランドが目に入った。彼女は、クローゼット内にふざけて侵入しなくてよかったと心底思った。

 他にも冬物っぽい色味のネクタイがある。


「このネクタイはヤスがくれたものだな。あいつはセンスがいいな、東京育ちは俺みたいな田舎者とはポテンシャルが違う」

「ああ、お気持ちわかります……私も地方出身なので。センスを育む場数が違いますよね、都内出身者」


 沙羅は男を見上げた。「仲間だな」そう目を細めた彼の湿ったままの髪にはっと気がつく。


「ドライヤー!」

「ついでに使ったタオルも片付ける」

「いやこれは自分で片付けます!」


 沙羅はレネにドライヤーを押し付けると、使用済みのフェイスタオルを脱衣所まで持っていった。部屋に戻ろうとすると、ドライヤーを片手に洗面台に向かおうとするレネが彼女に柔らかい視線を向けていることに気がついた。


 沙羅の背にふわりと手を回し、無理のないゆるやかさで抱き寄せられる。

 沙羅は困惑して何か言いたげな視線をもってレネを見上げたが、彼はそれを受け流して何も言わない。


 口角をゆるく上げた彼は、沙羅の額に唇を寄せた。あたたかな唇が一瞬だけ触れた。


「もう少し待っていてくれ」


 沙羅は真っ赤になって何も言えず首だけで頷くと、部屋に飛んで戻った。


***


「さて、俺のご主人様マスターは今日はどんなコマンドをくれるのかな?」

「誰がマスターですか、まだ契約関係でもないのに」


 髪を乾かし終わった男が戻ってきた。さて、準備も整ったし……という状況でこの会話だ。

 彼は入り口付近でこちらをどこか楽しそうに見遣りながら、壁に背を預け立っていた。


 なぜこんなツンケンした態度をとってしまうのか沙羅にも自分自身がわからなかった。

 Subに主導権を握らせまいとするDomの本能なのかもしれないが、沙羅にはこういう場面でグイグイ引っ張ってくれる彼が心地よかった。


「互いにパートナーがいない。これすなわち、今この瞬間は君は俺だけのDomだ。違うか?」

「なら、社長も今だけは私のSubですね」

「そうだ。だから早く俺に命令しろ、沙羅」


 こんな挑発的で能動的なSubなんて沙羅は知らなかった。

 Domに向かって、なんて言うSubなんて聞いたことがない。


(これDomにモテないだろうな……)


 しかも彼はプレイとなると顕著にこういう性格になる。こりゃあその辺の一般的なDomは怒るし、言うことを聞かせようと仕置きに走るに違いない。

 でも、元々主導権を握ることがあまり得意でない沙羅には、彼のこの性格は好ましく気が楽でもあった。


「社長……」

「何度も言わせるな。名前で呼んでくれないか?」

「レネ」  


 なお呼ぶと、驚くほどの嬉しそうな笑みを浮かべてくる。

 仲が良くなる前、彼の小馬鹿にしたような笑顔ばかり見ていた沙羅は本当にその表情が新鮮だった。だが、きっと彼の笑顔はこれなのだ。


(こんなに嬉しそうに笑うのか……)


 今日明日中に契約を交わすか、それとも次会った時にするかはさておき、もう沙羅はこの時点で腹を括っていた。

 この、甘えたで高飛車で構ってちゃんなSubを保護するDomになろう。

 彼はそうそう簡単にパートナーを得ることができない。きっと困っているのだ。

 同時に、それは沙羅自身にも言えることではあった。彼女もいつもパートナー探しに苦慮している。


 そして何より、沙羅は後戻りできないくらい彼に惹かれていた。


「レネ、《Come《カム》》」


 またゆったりまったり気取って歩いてくるのだろう。そう沙羅は思っていた。

 ところが、彼は電光石火で飛びついてきた。許可していないのに沙羅に抱きしめてきたのである。


「え! ちょっ!」


 沙羅は驚きのあまりに声を上げた。身体が少し離れ彼を見上げた。

 彼の不思議な色の目がこちらをまっすぐ見ていた。悪戯成功、とばかりにその目が細まった。


「驚いたか?」

「……っ! そりゃ驚きますって。よく来てくれましたね、《good boyグッドボーイ》」


 沙羅は彼の髪に手を伸ばした。細めの艶やかな髪が指先に触れた。

 彼の突拍子もない行動で、沙羅のプランは満ち潮で瓦解する砂の城の如く崩壊した。


 彼女としては、《comeカム》で呼び、《sitシット》で隣に座らせてめいいっぱい褒めようと思ったのだ。

 それが勝手に張りついてきたのでどうしたらいいのかと思案するほかない。彼は沙羅に頬を寄せ、うっとりと目を細めてこう言った。


「君に《colorカラー》を贈ってもらいたい」

「今日のプレイ次第ですね」

「手厳しいな」


 沙羅の隣、ソファに座った彼は苦笑してみせた。


 《colorカラー》とは、パートナーであるDomから贈られた首輪のことだ。いかにも犬の首輪のような造形から、革製のチョーカー、普通のネックレスにしか見えないものまでふたりの関係性によって千差万別だ。


 そして、Subと露見してしまうリスクがあるため、プレイの時や室内でしか着用しないSubもいる。


 沙羅は、この男につけさせるならどんなものがいいだろうと首筋を撫でた。

 ゴツい首輪っぽいのは好きではないし、細い革製のチョーカーもなんだか違う気もする。肌が白いので、プラチナの細いネックレスなんかもいいかもしれない。


「俺も君に何かジュエリーを贈りたい。ネックレスでも、ピアスでも」


 彼は沙羅の手をとって、手首にうっとりと口づけた。

 美しい瞳がこちらを見つめていた。それだけで、心臓の鼓動が加速する。


「もちろん、ブレスレットでもいいし、もっと実用的な時計なんかでもいい」


(めっちゃダイヤがついたハイブランドの時計くれそうだな……いらないけど)


 沙羅は自分の手を見た。この手にブランド物はそもそも似つかわしくない。 


「さて、次はどんなコマンドをくれるんだ?」


 この男、きっと《kneelニール》が好きだ。そう確信を持っていた沙羅は彼を喜ばすためにこう言った。


「レネ、《kneelニール》」


 目の前の絨毯を指差した。跪け。彼は素直に従った。


「いいんですか? 私、いち社員ですよ?」

「それとこれとは別だろ」  

「別ですかね……」


 沙羅は彼の髪を撫でた。彼は気持ちよさそうに目を閉じた。

 彼女はこの時すでに覚悟を決めていた。プレイ以上を、自分から誘おう。この人をもっと知りたい。


「《good boyグッドボーイ》、いい子ですね」


 そう言って、沙羅は手のひらを上に向けて差し出した。彼は一瞬不思議そうな顔をして、「なるほどな」と言うと、満足そうに微笑んで手を重ねてきた。

 沙羅はその場で立ち上がって、《stund upスタンド アップ》と彼の手を引いた。


 レネも素直に立ち上がった。彼はこちらの行動を考えあぐねているような不思議な表情をしていた。

 なぜ立ち上がったのだろう、そしてなぜ自分を立ち上がらせたのだろうと彼の目が語っていた。


 沙羅はごくりと唾を飲み込んで、口を開いた。


「寝室に連れて行ってくれませんか?」

「……寝室なんて行ったら、することは一つしかないが?」

「今日、泊まって行ってもいいですか?」


 沙羅が彼の質問に答えずに質問を重ねると、彼は言葉では何も言わなかった。流れるように腰を抱き寄せられると、唇が触れた。

 始め、恐る恐る触れたそれであったが、沙羅が彼の背に腕を回すとさらに強く抱き寄せられた。


 驚いて沙羅の目が開く。日本人のそれより明るい色味のキラキラした長くて美しいまつ毛が伏せられている。

 啄むようなリップ音と共に、一度離れた唇が離れた。


「っ! しゃちょ……」

「名前で呼んでくれと何度言ったらわかるんだ?」


 彼は眉間に皺を寄せた。そしてまた唇を塞がれた。

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