第29話 噂の寿司屋、彼の部屋への道のり
金曜、6時過ぎ。
夏場なので空はまだ真昼のようだ。
「レネ君が女の子連れ?! 珍しいね……ふたりで予約入ってたの見た時は、いつも通りヤス君と一緒なんだろうと思ってヤス君の好きな日本酒絶対入れとかなきゃって思っちゃったあはは」
「タカさん、人のことなんだと思って……」
やたらとぐいぐいくる店主である。まあ、いつもひとりで飲んで食べて帰っていくか同性の相棒連れの客が女性連れなら気にもなるだろう。レネが困っている様子だったので沙羅が口を開いた。
「私も、杉山さんと同じ会社の人間です。社長に雇われてます!」
「え! レネ君社内の女の子に手ぇ出したの? さすが社長! やるね!」
「出してないですよ……」
レネは呆れたように言い、沙羅は腹がよじれるほど大笑いした。
『寿司の吉田』の店長、吉田
出張を終え、東京に戻った彼女は、レネのマンションの最寄り神田の手頃なカフェで暇を潰し、夕方の6時前に彼と合流した。一度荷物を置きに部屋に寄り、そして今に至る。
奥側のカウンター席はレネの定席のようだった。なので沙羅もカウンター席に陣取っている。入店そこそこで驚くくらいに店主の孝彦に絡まれる。
まだドリンクすら注文していない。
「え、え、え? 今夜はお泊まり?」
「社長の家に置いてきましたが、出張帰りなので宿泊セット一式あります。その気になれば泊まれますね、泊まっちゃいますかね? あははは!」
「沙羅……ノってやらなくていい」
「出張!? どこに行ってきたんだ?」
「富山です! 太刀魚とか他にもお寿司色々食べてきました!」
「富山の太刀魚か! 今旬だしな……そりゃあいい。よーし……」
ここで、孝彦は声を落として言った。
「レネ君にはこの前ドイツ土産のワインとつまみもらったし、二人とも最初の一杯サービスする。何がいい?」
「「生ください」」
二人の声が揃って、沙羅とレネはグータッチした。
沙羅は真面目な性格にも関わらず、冗談にも見事に合わせるこのテクニックを駆使し、旧時代のおっさんだらけの日本の製造業界で渡り歩いているのだなとレネが勘づき始めていることに沙羅は気づいてもいない。
さっそくビールが出てきてとりあえず乾杯した。そんなに飲むつもりはない。二人とも、へべれけでプレイする気はないからだ。
寿司だけでなく一品料理も豊富で、沙羅はメニューを見て目を輝かせた。
***
「沙羅ちゃん、また来てね〜! レネ君、またね! 沙羅ちゃんまた連れてきてね〜!」
「またそのうち。海外出張中なので来週は難しいですが」
「ごちそうさまでした、おいしかったです」
孝彦は店の前まで出てきてくれた。沙羅は会釈して彼と別れ、レネと二人マンションに向かう。
「面白いし、美味しいお店ですね」
「兄貴のトシさんもたまに顔を出すんだが……ああ、そこの、先週の魚屋のな。ふたりそろっていたらきっともっとからかわれた」
「社長が今まで杉山さん以外連れて行ったことないってのもなんかわかる気がします」
あそこまでからかわれるとなると、一緒に行く相手は選ばないとならない。沙羅はそう素直に感じた。
「ところで、杉山さんとタカさんは仲良くやれそうですね」
「ああ、あの二人は気が合う。いつも盛り上がっているな」
そんな会話をしながら、店から数メートル離れた時のことだ。不意に、レネの右手が沙羅の左手に触れた。
(……?!)
指が絡んだ。恋人繋ぎである。まさかの展開に沙羅は潤滑油の切れたロボットのようにギクシャクとした挙動不審な動きをした。
「沙羅……嫌なら嫌と言えばいい」
それは沙羅がよく聞く自信に満ち溢れた声でも、たまに耳にする呆れ返った声でもなかった。
「嫌だったら……コマンドでも
同じDomに対して威嚇として放ったり、Subに対して放った怒りの
相性によってはSubの本能を刺激し、強い
沙羅の
ただその場にたまたまいただけのDomやSubにすら影響を与えるほどの強さで、彼女自身よほどの場面でないと使わないと心に決めていた。
「できるのと実際にするかどうかは別だろう。それに、俺は君の雇い主だ、報復を考えるんじゃないか?」
沙羅はしばし逡巡した。
数秒後、彼女は言葉を選ぶように言った。
「私がここでもし
「なんの根拠で」
「なんとなくです」
「そうか……この角、左だ」
彼は口の端に笑みをたたえながら沙羅の手を引いた。
実のところ、沙羅の脳内にはそう考えるだけの根拠があった。
レネが健二を、父親であり会長であるその男を反面教師としているならば、沙羅が彼の意に沿わないことをしても社会的に制裁を加えるわけがないのだ。
信号を待つ間、彼は無言であった。そして思い出したように言った。
「とりあえずこの後の話だが、帰ったらシャワーを浴びたい。そうでもしないと君は髪に触れてくれそうにないから」
沙羅はとなりの男を見上げた。
今日も変わらず前髪をすっきりと上げたスタイルである。セットしていないと目にかかるくらい長いことを沙羅はよく知っていた。
欧米系だとあまり見ないストレート。質感は、見た感じ柔らかそうだ。
「そんなに綺麗にセットされてたら触れませんって」
(手にワックスつくし! ヘアスプレーも使ってそうだけど!)
彼は「それもそうだな」と小さく笑った。
「私もシャワー借りたいです。今週の客先、規定で半袖ダメだからってずっと長袖作業服だったんです。汗だくですよ、工場出た瞬間に脱いで荷物に詰めましたけど」
なかなか骨の折れる現場だった。今週はよく頑張ったなと自分でも思う沙羅がいた。
「ああ、安全のためか」
「そうです、誰かが前にやらかしたんでしょうね。防護メガネもありでした」
何か労災が起こるとそういう装備が厳しくなるものだ。その客先もかつて誰かが怪我をしたとか何かあったのだろう。
「メットも?」
「もちろん」
「それはご苦労だったな」
「なので借ります、シャワー」
「好きに使うといい」
(これ、今夜本当に泊まりかもしれないな……)
沙羅次第で、プレイだけでは済まない気がする。
Domなら、
(私だ、Domの私が動かないと何も進まない……きっと社長は社会的立場があるからこれ以上は何もしてこない……)
沙羅はちらりと彼と繋いでいる手に視線を落としてから前を見た。プレイのその先を望んでいるのは沙羅自身。もうごまかしようもない事実であった。
しかし、だ。
彼の性格からして、ただのパートナー候補とこんな手の繋ぎ方をするだろうか? あの時キスしたかったなどと匂わせるだろうか?
あれほど父親である健二を恨んでいたら、この男なら無責任な思わせぶりをするとは思えない。
ドイツで、彼の実家であんな成り行きでプレイした時ももしかしたら彼は自分のことをただのDomではなく一人の女性として見ていたのではないか。そう考えた沙羅の足が一瞬止まりそうになった。
(全然気にもしなかった。社長が何考えてるか考えようともしなかった。馬鹿だな……いや、でもこんな規格外イケメンが私を……?)
この後に及んで、にわかに信じがたい。もしも本当にそうだったらこの男、ちょっと女の趣味が悪すぎるのではなかろうか。黙っていても華やかな女性がいっぱい寄って来るに違いないのに。
沙羅の頭の中では溢れて錯綜する情報に大洪水が起こっていた。
見知った建物が見えてきて、ふと視線を上げた。
先週は康貴と訪れ、それからさっきも荷物を置きに来たマンションがふたりのすぐ近くにあった。
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