第28話 再びのショールーム、次の約束

 月曜、本社のショールームにて。

 沙羅は先日基盤を外した機械に倉庫から取り寄せた新品を取りつける作業をしていた。


 近くでは、営業とサポートの面々が来客対応をしていた。機械は問題なく稼働しているようだ。レネと沙羅で基盤を移植した機械である。

 よかったと胸を撫で下ろす。このまま受注につながればいい。 


(社長、今何してるんだろ……)


 平日だ。もちろん仕事をしているに決まっている。先週金曜、丸々一日一緒にいたので、おそらく仕事が溜まっているだろう。

 今や、彼が頭の中に住み着いていて離れなかった。重症である。


 今はパートナーはいらないと言ってしまったが、沙羅はそれを心の底から後悔していた。


(いっそパートナーだけでも構わない……)


 別に彼女にしてくれなくても構わない。プレイが上手くなくてそのうち幻滅される気はするが、一度でも、たとえひとときでも、彼のダイナミクスのパートナーになれたらもうそれでいいじゃないか。

 なぜあの時、断ってしまったのだろうか。


 沙羅は悶々と考えながら、機械のバックパネルを開けて交換用の基盤を手に取った。


(今、パートナーはいらないつもりだったけど、社長だったらパートナーになりたいって言ってみるか)


 沙羅自身も我ながら優柔不断だし支離滅裂だとも思ってはいたが、もう彼のことがどうしようもなく好きだった。

 もう会う約束はない。しかし、プライベートの連絡先は知っている。折を見て連絡してみよう、そう思った。

 彼女は煩悩を頭から追い出して、目の前の作業に集中した。


***


 夕刻、19時前。とうの前に顧客も帰り、調子が悪いのでついでに見てほしいと言われた機械の調整をしていたら随分と遅くなってしまった。


 ショールームは自分一人。


 沙羅は工具をまとめ、ゴミを捨て、手を洗いに行ってから何か飲もうと腰を上げた。機械の油や汚れを拭き取る木綿の布、ウエスであらかた拭ったが、未だ手がグリスでベッタベタだったからだ。


 トイレで手を洗って休憩室に向かったその時だ。沙羅は小さく悲鳴を上げた。


「しゃちょ……」


 レネがソファに腰掛けていた。

 ノーネクタイ。シャツを腕まくりをして足を組んでいる。最近見慣れてきた、彼のリラックスした姿である。


「随分な時間まで働いているな。警備ルームから女性社員が一人で作業していると聞いた」

「そろそろ帰ろうかと……」


 警備室、監視カメラがずらっと並んでいる部屋で、そこに警備員が常駐していると聞いている。

 彼は腰を上げて、靴の踵を響かせながら自販機に歩み寄り、ICカードをかざした。


「なんでもいい、好きなものを」

「ありがとうございます、ご馳走になります!」


 沙羅はミルクティーのボタンを押した。続いて、彼も同じものを選んでいた。

 二人してソファに腰掛けると、プルタブを開け缶を小さく合わせた。


「お疲れ」

「お疲れさまです」


 乾ききった喉にミルクティーが染み入った。


「結構うまいな、悪くない。普段はコーヒーばかりだが、缶コーヒーは好かなくて……」


 かたわらの彼の横顔を見上げた。いつもと違って目は合わない。

 彫刻のように端正な横顔がそこにあった。


「私、ちょうど社長とお話ししたいなって思ってたんです」

「奇遇だな、俺もだ」

「社長からどうぞ」


 彼は缶をローテーブルに置いて、此度は沙羅に真剣な眼差しを向けてきた。

  

「自分でもストーカーめいたことをしている自覚がある。でも、どうしても君とのプレイが忘れられない。チャンスをくれないか?」

「チャンス……ですか?」


 沙羅は一度視線を手元に落として、まだほとんど残ったままのミルクティーを彼と同じくローテーブルに置いた。


「もう一度プレイさせてほしい。場所は君が望むところで。別に一流ホテルでも構わないぞ? 食事ももちろん、ご馳走させてくれ」


 沙羅はぽかんと口を開け、目をまんまるにして彼を見た。

 レネは口元を小さく綻ばせ、沙羅の右手を取った。沙羅は驚いて天井の監視カメラを思わず探した。


「しゃちょ……カメラ」

「この席は死角だ。問題ない。嫌なら振り払え、沙羅」


 振り払うという選択肢ははなから沙羅に存在していない。

 手は体格相応に大きくて骨張っていて男らしい。沙羅は震える息を吐いてしばし迷い、彼の手に己の左手を重ねた。


「私も……パートナーは考えていませんでしたが、社長ならいいのではないかと思っていたところでした」

「俺ならば検討するに値すると?」

「ええ」


 沙羅は不敵に言ってみせた。お前ならば考えてやってもいい。そう相手は受け取ったに違いない。


(何言ってんだ私っ!)


 沙羅は自分を殴りたくなった。

 一方、レネは心の底から面白そうに、声を出して笑った。


「これはやられた。俺は強いDomに弱いんだ……既に首輪をつけられたようなものだな……もう君も上がるなら、東京駅で食事をしながら決めよう。美味しいイタリアンがある」

「ぜひ」

「丸の内側の店だ。あと30分以内に入れるか?」

「はい、あとこの上着を脱げばいいだけです」


 彼は頷いてスマートフォンを取り出すと、電話をかけ始めた。


「はい、二名で。あと30分ほどで伺います。名前はカウフマンです。レネ・カウフマン」


 それから電話番号を告げて、彼は電話を切った。

 康貴が一緒ならばともかく、二人でビルを出るのは足がつくので別々に店に向かおうと言うことになった。


 KITTEのビルの地下で合流した彼は、沙羅が持っていた携帯用の小型工具箱を「重いだろう」と言って奪い取って店に向かった。

 駅の地下にある、半分が食品売り場で奥がレストランになっているイタリアンだった。カフェやジェラートを出してくれるスタンドもある。


 ワイン片手に美味しいイタリアンを楽しみ、色々と話をした。

 別に高いホテルなんて行かなくてもいいということ。また彼の部屋に行きたいということ。食事も別に、その辺の店で適当に食べるなり、何か買って行って部屋でお酒でも飲みながら食べればいいということ。


「君は本当に欲がないなぁ。俺はそこそこ金を持ってるぞ」

「そりゃ私の雇い主ですから知ってます。然るべき場ではお金持っててスマートに使ってもらわなきゃ困りますけど、私に対してそんな必要ないです」


 沙羅は彼が頼んだモッツァレラチーズを口の運んだ。ミルキーで美味しい。あまりの美味しさに二度見した。


「なんですかこれ!? 美味しいっ」

「日本のスーパーで買えるモッツァレラは偽物だと思え。これがイタリアのバッファローモッツァレラだ」


 この男と一緒にいるとどんどん舌が肥えていく。


(食事大好きなのは日本人の血を引いたか……)


 多分、普通の欧米人はここまで食に執着しないだろう。


「せっかくだから、例の寿司屋に連れて行こう。どうする? いつにしようか」


 例の寿司屋。元カノすらも足を踏み入れていないらしい行きつけの店だ。

 沙羅はレネが何を考えているのか一気にわからなくなった。


(ダイナミクスのパートナーは契約書は交わすけど……そんな……ねぇ)


 ただのパートナー候補者が、そこまでプライベートに踏み込んでいいのだろうか。

 沙羅は仕事中に見せるような冷静な顔を装った。

 機械がとんでもないことになっていたり全く修理方法が思いつかず八方塞がりなこともたまに起こるが、そんな時によく客相手に取り繕う顔である。


「そうですねぇ……金曜にします? 今週は明日移動で富山に行って、何もなければ金曜の午前で作業が終わる予定です、そこから移動しても神田なら余裕な時間に到着します。あ、お仕事忙しいですよね、土曜がいいです?」

「今週はさほど忙しくない。週末は定時で上がる予定だ。問題ない、金曜にしよう」


 土曜にすると貴重な休日一日が潰れる。彼にとってそれは本意ではないだろう。それに日曜は海外出張の移動日と聞いていた。

 だから沙羅は金曜の夜を提案したのだ。


 彼女は土曜を提案されなかったことにへこんでいるレネがいることなど知りもしない。平日の夜にさっと済ませればいいと思われている。そう考えた彼の心は見かけとは裏腹に実のところどん底だった。


 見事なまでに、どこまでもすれ違うふたりである。


「私、スーツケース転がしていくことになるのでちょっと玄関にでも置かせてもらいますが」

「スーツケースだろうが工具箱だろうが問題ない。まあまあ広いからな」


 まあまあではなくめちゃめちゃ広い部屋である。

 駅が近くて建物も新しそうなことから、買うにせよ借りるにせよ相当な金額のはずだ。寝室のサイズを見ていないし、風呂場も開けて見ていないからなんとも言えないが。


 しかし、彼の年収を鑑みるに安い部屋であるのは事実だろう。港区なんかの高層マンションに住んでいてもおかしくない男だが、沙羅が思うに多分ああいうものに価値を見出す性格ではない。


 店を出て、改札に入る。彼はホームまで工具箱を持って送ってくれた。変に律儀で真面目な男である。


「現地ではレンタカーか? 気をつけて」

「社長もお仕事頑張ってください、また金曜」


 かくして、9時半くらいに二人は解散した。

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