第27話 康貴、タイミングの悪い男
沙羅は一瞬、息をするのを忘れた。
ふたりが帰ってくるのがもう少し遅ければ。そう、彼は言った。
プレイの最中にふたりしてなんだかおかしな気分になって、キスし損ねたあの場面が鮮明に脳内で呼びおこされた。
急激に頬が熱を帯びた。
「それは……」
「もうチャンスはないんだろうな? 実に惜しいことをした」
ブラウンとグリーンのグラデーションが沙羅を射抜いていた。彼は口の端をほんの少し上げた。本気なのか冗談なのかわからない。
(ど、どういうこと……あの時私とキスしたかったってこと?!)
キスとプレイは関係ない。キスをしろというコマンドは存在するが、恋人ではないただのダイナミクスのパートナーにそのコマンドを使うのはあんまり褒められたものではないと彼女は思っていた。
(もちろん、パートナーにキスとかそれ以上する人もいるっていうけど……)
わからなかった。彼が。
コミュニケーションは難なく取れるが、彼は生まれ育ちが日本ではない。ダイナミクスのお約束も日本と違うのかもしれない。沙羅は口を開いた。
「それって……」
どういう意味ですか? と沙羅が言いかけたその時だ、インターフォンが鳴った。
彼は気だるげにスマートフォンを手に取ると「開けた、入れ」と言った。
インターフォンと連動させているようだ。
「ほんっとうにタイミングがいつも最悪な男だな……友としては最高なんだが」
開けたのは総合玄関の入り口だ。この建物はオートロックなのである。
「あの……」
「続きはまたふたりの時にでも話すとするか」
そう言って、彼は腰を上げると玄関に向かった。康貴を出迎えに行ったようだ。
「たっだいま〜! ロックアイス買ってきた。メインの後はウイスキー飲みたい!」
「おかえり、リビングの棚にあるのだったら好きに飲め」
「やったー! ヒガシさん、適当にアイスも買ってきたから食べてね!」
「ありがとうございます」
勝手知ったる状態なのだろう、康貴は冷凍庫を開けてアイスを五個くらい放り込んだ。
「そろそろメインを出すか、ヤス帰ってきたしな」
レネはそう言って康貴のワイングラスに優雅に酒を注いでから「飲んでくれ」と告げて腰を上げた。彼はそのままメインの準備をするらしい。
「何開けたの?」
「プィイ・フュメ。ミネラリティーを感じる。魚介に合うな」
「ああ、ロワールのワインか」
「
Jaは沙羅でも知っていた。ドイツ語でYesという意味だ。
沙羅はこの時になりやっと思い出したようにワインを口に運んだ。感想は一つ、なんのこっちゃわからん、というものである。
キッチンにいるレネはちらりと沙羅の表情を確認し、何やら思うものがあったようだ。オーブンから温め直した後保温していたメインを取り出しながら説明をしてくれた。
「ワイン自体にミネラル分が多いというわけじゃなくて……実際、ブドウの生産地の土壌には石灰が多いらしいが、それとこれとはまた別で、テクスチャーというか……よく火打ち石のニュアンスと言う。うまく説明できない」
「まじ理系にぶち殺されそうな感覚の話らしいよ。なんかちょっと苦いとか若干しょっぱいとか、口に入れた時に硬い感じがするとか」
そう言って、席に戻ってきた康貴はワイングラスに手を伸ばした。香りを楽しんで口に含む。
「こんなところにまで文理を持ち出すな」
キッチンとダイニングでああだこうだと議論を始めたふたりを置いて、沙羅はとりあえずもう一度ワインを口に含んだ。
言われてみれば、なんとなくキリッとしていて塩味があるような、硬質な感じがするような……だが、最終的に、よくわからないと沙羅は結論づけた。
右手のワイングラスの液体を見つめながら首をかしげる。
「ほらヒガシさん困惑してるよレネ」
「すまないが、俺の日本語能力ではこれ以上説明できない」
「ドイツ語だって無理だろ多分……」
康貴の突っ込みを無視したレネはメインをサーブした。
塩焼きくらいしか見たことのない鮎が艶々のオイルをまとっていた。付け合わせは夏野菜のマリネ。
「鮎のコンフィ、そのワインと合うと思う」
「うん、これは合うね! ばっちりだろうね!」
康貴がテンション高く言う。
(ホームパーティーでこんなの平然と作って出してくる男……やばい。おかしい。どうかしてる)
沙羅は思った。自分が関わっていいレベルの男ではない。絶対に。
文化圏が違う。
日本橋三越に毎週通っていそうな男だと思った。実際、ここから徒歩圏内である。
だが、肝心なことが一件あった。コンフィとは、そもそもなんなのだろうか。鴨肉のコンフィなどよく聞くが、沙羅はあんまり洋食に詳しくない。
「そもそもコンフィって……なんなんですか?」
沙羅も我ながらアホらしすぎる質問だと思った。しかし、知らないのだから仕方ない。
「えっとねぇ、コンフィはオリーブオイルに浸して、オーブンに入れて放置。低温調理! 高温短時間はヒガシさんも多分よく知ってるアヒージョ」
「なるほど! コンフィ、電気代えぐそうですね!」
「電気代は考えないことにしてる。俺だって日本にずっといなかったから電気使っていないし、まあいいかと作ったくらいだ」
内陸野山育ちで、鮎は頭から食べるのが定番の沙羅は迷わずナイフで頭をカットし口へ。
柔らかい。とにかく骨まで柔らかい。これはワインが進む。広角が自然に上がった。
「再来週末からタイとフィリピンだしね」
「行きたくない」
「私も出張うんざりしている人間なのでわかります。頑張ってください。マンゴーとかいい季節ですし。うーん、でも、社長が思っていることは理解できます。私は海外出張2度と行きたくないです。こんなの自社の社長に言うとかどうかしてますけど!」
そう宣言して、沙羅は残ったワインを飲み干した。レネは笑いながらボトルをワインクーラーから取り出して注いでくれた。
「あんな目に遭ったら行きたくもなくなる。沙羅に嫌われたなぁ。ドイツ」
「別にドイツって国自体が嫌いとか人が嫌いとかそんなんじゃないですからね! ちょっと……流石に疲れました!」
沙羅は必死に否定した。勘違いされては困るからだ。
レネは手をひらひら振りながら言った。
「大丈夫、俺も言いたいことはわかっている」
「うんうん、あれはしんどいって。仕方ないよ。俺も最後の最後にロストバゲージして本当呪いをかけたくなった」
康貴の荷物はフランクフルトに何かの手違いで置き去りにされており、後日郵送されて帰ってきたらしいとレネより聞いていた。
「俺も正直どこにも行きたくない。当たり前だ。これで海外出張行きたいです! と沙羅が言っていたら相当のマゾヒストだと思わざるを得ない」
「うん、それかゴマすりを疑う」
沙羅はそれを聞いて笑った。
「もはやするゴマもないですよ……」
「沙羅が今の皆の期待を裏切らない仕事ぶりをしていて俺が社長でいる間は、海外出張に行きたくないなんて言っても左遷されることはない。安心しろ。俺だってもうしばらくドイツの電車と飛行機は乗りたくない」
何を言っているんだか、と思いながら沙羅は鮎にナイフを入れた。
***
「え? なんかラインナップ変わった?」
ウイスキーの入っている棚を見ながら康貴が言う。
もう食事は終了し、スナックやアイスを食べながら皆でリビングでまったりしようかと移動したところだった。
「竹鶴も余市も……山崎もマッカランもあんじゃん、どしたの?」
「会長にもらった。いらないって言ったんだけど、ウイスキーも飲むんならって……セラーにあいつからもらったドンペリもある。ムカついて捨てようかと思ったけど酒に罪はない」
「あの野郎本当に……今更そんなことされても株価は暴落する一方なのなんでわかんないかな〜」
「常にストップ安だ」
出てきた、会長、健二の話だ。沙羅は身体を若干固くした。
「ヒガシさん、どれがいい?」
「ぜんっぜんわからないので杉山さんと同じので!」
「おっけ! 余市で!」
康貴はテーブルで器用に酒を作って沙羅に提供してくれた。
そうか、南方健二はレネにそんなふうに擦り寄ったりしているのか。最低野郎だなと思いながら、沙羅はハイボールを口に運んだ。
結構濃いめで美味しい。香りが違う。樽由来、木の香りがする。
康貴とレネはロックだ。
「さすがジャパニーズウイスキー。酒に罪はない」
「あいつ、レネが酒好きって気づいちゃったか……貢ぐなよ〜今更貢いだって無駄無駄〜」
「……」
沙羅は反応に困って無言を貫いた。
「いいんだよヒガシさん、なんか言っても」
「ノーコメントでお願いします!」
「じゃあここで、俺が読んだとある日本文学の話をしようか。森鴎外の舞姫と言うんだが」
そこで沙羅は盛大にむせた。酒が明らかに入ってはいけない方、つまり気管の方にダイブした。
「大丈夫か?!」
「レネが変なこと言うからだよ!」
咳き込んだ沙羅であったが、思ったよりもダメージは低く程なくして復活した。
レネは水を持ってきてくれた。
「……ありがとう、ございますっ」
「アフターサポートは会長と年齢近い人間が多いから何か聞いているのではないかと思ったが……ビンゴだな。ちなみに舞姫は難しすぎて最初の数ページで挫折した」
実に面白そうに、半ば笑いを堪えながらレネは言う。
「はーん、やっぱりなぁ。ヒガシさんがレネを最初避けまくってたのって色々吹き込まれてたからか」
右隣にいたレネが沙羅の肩に腕を回してきた。彼は耳元で囁いた。
「誰に何を言われた? 言ってみろ。大丈夫、査定に影響ない。ここはプライベートの場だからな」
セクシーな低音に身体の奥がゾクゾクした。先日のプレイを思い出した沙羅であったが煩悩を必死で頭から追い出した。
安田と山川から聞いたと吐くわけにもいかない。沙羅は目を白黒させるほかなかった。
「どうせ安田と山川のおっさんどもだろ? いいんだよヒガシさん、そんな固まんなくって」
康貴の声に、沙羅は彼の方を勢いよく振り向いた。彼は笑みを深めてロックグラスを口に運んだ。
「ヤスのアンテナを舐めない方がいい。俺が入社するにあたって、ヤスを入社させて俺につけろと会長に条件を出した。だから一緒にいる」
「秘書なんてやったことなかったけどね〜」
(杉山さんが社長付きの秘書になった経緯はそういうことか……)
Domの性質的に秘書はあまりしっくりとこない。誰かを支える業務だからだ。康貴は沙羅が目にする限りではかなりDomとしての性質が強そうに見えた。
誰かを支えるのは気に食わないが、レネの補佐をするなら喜んで。きっとそんな心情で仕事をしているはずだ。
それにしても、舞姫騒動の件を安田と山川から聞いたことが筒抜けだったとは。康貴、調子のいいノリでいて、かなりのキレ者である。
(安田さん、山川さん、モロバレですよ……)
沙羅は言葉につまり、誤魔化すように水の入ったグラスに口をつけた。
「ヒガシさんが最初レネに変な感じだったの納得。レネもレネであんな態度だったからまあ最初雰囲気最悪だったよね〜」
「女性社員と出張なんて面倒だなと思ったんだ。最近変な女に絡まれすぎたからな」
「社内でずっと色目使われてガチギレしてんだよこいつ。面白くない?」
「うーん、モテるのも大変ですね……」
依然、肩に回された腕はそのままだ。近い。
沙羅はレネの方をちらりと見た。彼もまた彼女の方を見ていた。
「会長とデキてた女で、飽きられて捨てられたやつが今度は俺に色目使ってくるんだぞ? 最悪だろ」
「ええ!? 会長社内の女性に手出してるんですか?」
「出してるどころじゃない、手を出しまくってる」
沙羅はそれを聞いてうめいた。
(元気すぎるだろ……いい歳して……)
経営者というのはそれくらいバイタリティがないとダメなのかもしれない。
杉山が目を伏せて言った。
「拒否した人は冷遇して追い出すとも聞いてるよ。最低だ……他にも色々よろしくないことしてるらしいし」
「最初は復讐するつもりで入社した。会社のことは何にも考えてなかった」
彼は言葉を切って、グラスをテーブルの上に置いた。
「でも、南方はこのままじゃダメだ。今や俺はさっさとあいつ自身を追い出したい。だから社長になった……普通に考えてこの歳で社長とかおかしいだろう。田舎の町工場じゃないんだ。重々わかっているが、そうでもしなければ南方はあいつのおもちゃだ。傾いたら大変なことになる」
それは彼の言う通りだった。工場で使用する工業用の工作機械や測定、計測機器のみならず、南方グループは業務向け、一般向け電化製品までも製造している大企業だ。一般人の知名度も高く、何かあれば日本の製造業だけでなく産業全体への影響は計り知れない。
「聞いたときは、よく株主総会が大乱闘にならなかったなと思って感心しましたが……」
「俺が思うに、日本人はレネみたいな何か新しい風をもたらしてくれそうな、若くて見た目のいい男が大好きだからね〜」
康貴のセリフにレネは鼻で笑って、いい感じに溶けてきたカップの抹茶アイスを手に取った。沙羅はチョコレート味のアイスを選んで、スプーンですくって口に運ぶ。
沙羅は確かになぁと妙に納得するしかなかった。
(確かに、顔は間違いなくいい)
三人のよくわからない組み合わせの会はあまり遅くならないうちに解散、レネは駅まで送ってくれた。今日聞いたことは、本当に自分が聞いてもいいことだったのだろうか。よくわからない態度をとってくるレネも相まって、沙羅は自問自答しながら帰路についたのであった。
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