第24話 フランクフルト、エンジントラブル

「沙羅。君、順調だったのは行きのフライトだけか?」


 レネはビジネスクラス搭乗だったので、先に飛行機から放り出されたようだ。彼は椅子に座って沙羅たちを待っていた。

 沙羅は彼の隣に腰を下ろした。そして、完璧におかしなテンションでこう言った。 


「はい! 帰りの飛行機が不具合で飛ばないとは驚きですね!」


 そう、彼らはまだフランクフルトにいた。一度、飛行機に乗り込んだはずなのに。

 康貴が沙羅とレネの姿を見つけて駆け寄ってきた。

 

「お疲れー! いやあ引き返すなんてさぁ……」


 ことの顛末はこうである。

 アナは仕事に行く前に車で駅まで連れて行ってくれた。沙羅とは抱擁を交わして、今度アナが日本に来る時会おうと約束もした。

 それからICEイーツェーエー、高速鉄道に乗ってフランクフルトまで30分くらいの遅れで到着、空港に到着し、小腹を満たして順調にイミグレーションを通過、14時前には飛行機に搭乗した。


 そう、順調だったのだ。


 だが、滑走路までタキシングした飛行機であったが、途中で停止し、ややあって放送があった。エンジントラブルのため、引き返すと。おそらくバードストライクか何かだろうと沙羅は推測していた。


「エンジントラブルでそのまま飛んでいってどうにかなるより遥かにマシですが……」


 沙羅がそう言えば、康貴は神妙な顔つきで頷いた。


「確かに……トルコあたりならともかく、旧ソ連の国で緊急着陸して放り出されたりしたら困惑する」


 現在の航路はトルコやジョージア、それからアゼルバイジャンやカザフスタン上空を飛ぶルートだ。


「ジェットエンジンは片方止まっても飛べるって言いますけど、訳のわからない空港に降りるとかより……社長、大丈夫ですか?」


 彼は己の足元を呆然と見つめていた。流石に心配になって沙羅は彼の背に手を伸ばした。


「ただ待つならばと他社の飛行機に変更するかと二人が来るまで検索したが……エコノミーでも50万近くする」

「まじかよ……だったら振替えの案内待つか」


 まず最初の案内はSMSで来た。お詫びのミールバウチャーがもらえたので皆で食事に行く。ダラダラとビールを飲みながら案内を待つが、連絡は全然来ない。

 とりあえずフライドポテトを頼んで三人でつまむ。


 飛行機から放り出されたことももはやネタとして最高なので、とりあえず沙羅は実家の母親にメッセージを送った。

 この頃になると、沙羅はいい加減ハプニングに対して図太くなってきていた。


「とりあえずこの面白状況を母に連絡しました。仕事休んで迎え行こうか? とか言ってます。いつ帰れるかわからないって言いましたが」

「ヒガシさんのお母さんって仕事何してるの?」

「うちの子会社の社員ですよ」

「「まじで?」」


 レネと康貴の声が見事に重なった。 


(社長もまじとか言うんか……)


 少し意外だった。年齢相応な姿は少しばかり安心する。


「東北南方精密。買収したとこです」

「ああ! 福島のあそこは……白河か! 去年一度行ったな……」

「うちの母、社長のこと知ってましたよ。と言うより顔を合わせて会話してますよ」


 レネの目が見開かれた。沙羅は笑いを堪えきれず、小さく口元に笑みを浮かべた。


「部署は?」

「生産管理の部長です」


 声を上げたのは康貴だった。


「あああー! いた! 名前とか顔とか何も覚えてないけど、あの年代の女性で生産技術部長はやばいなってレネと話したじゃん……レネー?」


 レネは顔面を覆って、文字通り頭を抱えていた。


「どうかしたんですか?」

「工場を案内してくれた。思い出した……。そうだな、やたら長い苗字だと思った。そうか、今ならわかるぞ。自分もそれから娘の会社も同じ船に乗っていればああもなる。しかも、買収しようと言い始めたのは俺だ」

「ちょっと顔合わせたくらいだと思ってました……知らなかった」

 

 確かに社長と海外出張に行くと沙羅が母に伝えた時、彼女は正直面白くなさそうな反応をしていた。その年で社長とかそいつ本当に大丈夫? とか言っていた。30そこそこの息子を社長にしちまう一族どうかしてるだろとも言っていた。

 その時彼女が言ったのだ、実は一度会って話をしているのだと。


(お母さん社長のこといじめたか嫌味言いまくったか喧嘩売ったか……口調きついからなぁ……)


「あ、電話。うちの母からです」

「気にせず出ろ」


 空港内の割とオープンでカジュアルなカフェレストランだ。周りも電話している客もいるし、まあいいかとその場で沙羅は電話に出た。

 爆笑していた。


『まーた巻き込まれてんの? 持ってるね〜!』

「ちょっと笑い事じゃないってば……!」

『実際どうなの? 大丈夫そう?』

「一人じゃないから大丈夫だと思う。今空港のカフェバーで振替えの連絡待ってる」

『エンジン不具合のまま飛ぶより全然良かったよ! 南方ジュニアネイティブなんだろ? 全力で頼って帰っておいで! 飛行機決まったらまた連絡してよ。仕事はなんとかして迎え行くから』

「……ありがと」


 それから二言三言話した時だ、レネと目が合った。


「終わったら俺と代わってくれ。詫びを入れる」


(詫びって何!?)


 沙羅は少々困惑を隠せいないまま無言で頷いて、その旨伝えてスマホを手渡した。


「ご無沙汰しています。南方精密の南方レネです。娘さんへの電話をお借りし、失礼します。この度は日本に戻れずご心配をおかけしており、大変申し訳ありません」


 電話も終わり、喉を潤そうとビールを口に含んだ沙羅は噴き出しかけた。


(謝んなくていいってば! 何も悪くないしっ! 欧米人って謝らないイメージあるんだけど……)


「レネは真面目だな〜」


 康貴の言葉から察するに、彼もどうやら同じことを考えているようだ。


「必ず責任を持って日本に帰しますので……ええ。はい、わかりました。それはもちろんです。今もビール飲んでいますよ」


 何を話してるんだ、と沙羅が困惑していると、それから二言、三言話して通話は終わったようだ。彼は接続の切れた端末を沙羅に手渡した。


「社長、なんっにも悪くないじゃないですか」

「君をドイツに送り込んだのはだ。責任の一端が俺にはある」

「いや、そうは言っても……」

「俺が謝ったら君の母親は笑っていたぞ。美味いビールを飲ませてやってくれと言っていた。ほら、好きなだけ飲め。まだミールクーポンの上限にもいってないしな」


 ならば次は何を飲もうかと沙羅はメニューを物色した。


「俺らの分も使いなよ、なんか疲れて食欲ないし」

「沙羅は元気だな……感心する」

「元気ですよ〜!」


 カラ元気ながらそう言ってみれば、康貴が小さく微笑んだ。


「日本帰って落ち着いたらさ、三人で打ち上げでもしようよ。レネんちの近くの魚屋で刺し盛とか頼んでパーっと」

「俺の部屋か」

「ええ? 嫌? どうヒガシさん、レネんち覗いてみたくない?」

「社長、嫌がってそうですが?」

「別に嫌ではないが……」


 レネは沙羅の方をちらりと見た。来て欲しそうな顔だが、沙羅はどう思っているのか困っているようだ。沙羅にはそれが残念ながら手に取るようにわかってしまった。


(部屋に上がるのか、参ったな……)


「行きますよ」

 

 もう、「行く」としか沙羅に許される言葉はなかった。なんだろう、ちょっとかわいい。できるだけ距離を取ろうと思っているのに、ここで突っぱねるほど沙羅は強い意志を持てなかった。

 どうしても引き寄せられてしまうのだ、彼に。


 結局、職場のアプリでプライベートのやり取りするのは嫌だという話になり、二人と連絡先を交換した。

 後になって考えると、ここで連絡先さえ知らなければ後戻りができた。そんなことをのちに考えることになるだなんて、この時の沙羅はまだ知らない。


***


 已然、振り替えの連絡は来ない。沙羅がスパークリングを飲みながらフルーツの盛り合わせを食べていると、康貴はタバコを吸いにふらりとどこかへ消えていった。

 レネもスパークリングワインをたまに傾けながら、パソコンを開いて何やら仕事をしている様子。


(まつ毛長いな〜)


 ぶどうをもぐもぐ咀嚼しながらふとレネ見る。

 本当に綺麗な男である。若干、目の下にクマが見えて疲労感がうかがえるが。

 視線に気づいたのか、彼も顔を上げた。


「どうかしたか?」

「あ、いえ……何でもないです。忙しそうだなと思いまして。大丈夫ですか? お仕事」

「まあなんとでもなる。どっちみち、飛行機でも仕事するつもりだった」


 ビジネス用のラウンジにでも移動すれば、飲み物も無料で好きに飲めるしもっと快適なデスクがあるだろう。


「社長、ビジネス用のラウンジとか行っていただいていいんですよ。私はこの辺好きにうろちょろしてますし」

「いいや、別に後ろから覗かれて困るような仕事ではないし……君が一人になりたいなら話は別だが?」


 レネは心底面白そうに意地の悪い笑みを浮かべて言った。

 あ、しまった、誤解されたか? 沙羅は少々焦った。 


(そっちじゃない!)


「違います、そういうことではなくて……」 


 言うと、レネは小さく笑って見せた。


「わかってる、大丈夫だわかっている。俺のことは気にするな、問題ない」


 結局、フライトは翌日の昼に変更になった。ホテルの案内がメッセージで飛んできて、三人とも同じところに予約し、レネが「本当に予約できているのか信用ならん」とホテルに電話した。


 電話の結果、航空会社経由で予約は入っているが、各個人の名前は聞いていないという。とりあえず行くしかないと荷物を回収してのちはホテルに突撃した。

 もう地下鉄やトラムやらで移動しようなんて考えはこれっぽっちもない三人はタクシーでホテルに移動した。


 問題なくチェックインが済み、夕飯は外に出た。今度こそ最後の晩餐だ。

 せっかくだからフランクフルトっぽいものを食べに行こうとレネに言われた。一度SHの人間に連れて行かれて以来、フランクフルト名物は沙羅の気に入りだったのですぐに頷いた。それはGrüene Soßeグリューネゾーセという、ハーブ風味で少し酸味のある緑色っぽいソースだ。沙羅が頼んだのは、茹でた牛肉にそのソースがかかって、じゃがいもが添えられているプレートとそれからミニサラダ。


「明日こそ飛ぶといいですね! また何かあったりして」

「ヒガシさん! そういうこと言わない!」

「はーい!」

「沙羅、この状況を楽しんでるだろ」


 もはや、楽しまないとやっていけない。

 そして、翌日の飛行機はきちんと飛んだ。順調になんの遅れもなく羽田に飛んだ。

 最後、康貴の預け荷物がフランクフルトに置き去りにされたことを除けば、完璧だった。

 レーンを回ってこない荷物に絶望した康貴は「もう嫌だ〜」と言いながらカウンターに向かって行った。

 沙羅とレネは己のスーツケースを手に彼を見送った。


「最後の最後まで大変ですね」

「君はヤスを待つ必要はないぞ。迎えも来てるんだろ? 先に帰れ」


 沙羅としては康貴に挨拶したい気持ちもあったが、レネに早く帰れと言われてしまったので先に帰ることにした。

 ありがとうございました、本当にお世話になりましたと何度も礼を言って、沙羅は到着ロビーに出た。康貴にはメッセージを送っておいた。


 わざわざ木金と仕事を休んで東北から来てくれた母親に出迎えられて、やっと日本に戻ってきた実感が沸いた。二人は立川のアパートに戻った。

 翌日金曜は代休を使い、出張の思い出話をしながら水いらずで過ごした。

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