第23話 想いの自覚、エアフルトツアー
「え、すご……」
沙羅は広間からの絵画のような光景に言葉を失った。ドーム広場、70段ある階段の上に、雲一つない青空に尖塔を向ける二つの教会が聳え立っている。聖マリア大聖堂とセヴェリ教会だ。
「
***
月曜、仕事に行くアナを見送り、沙羅は報告書を書いて午前中メールチェックをし、もういい感じにやることも無くなった。部長である森山からは「せっかくだからのんびりしろ」とメッセージも送られてきた。
沙羅の仕事は、何かのプロジェクトで動いているわけではなく、試運転や上司から振り分けられた不具合などの問いあわせ対応や修理の依頼で動くことがメイン。
ましてや出社していなければ、上から何か降りて来るはずもなく仕事はないのだ。
(午後は散歩でも行くか……)
昨日体験乗馬をさせてもらったからか股関節周りや太ももが近年稀に見るほどの筋肉痛だ。多少散歩などの軽めの運動をした方がいいかもしれない。
キリがいいところで沙羅が飲み物を取りにリビングに行った時、レネと康貴はタイ出張について忙しそうに話をしていた。いや、レネがしょうもないことで駄々をこねていた。
沙羅が降りてきたからか、ふたりは突如日本語に会話を切り替えたので沙羅にも理解ができた。
「もうどこにも行きたくない。辛いものは嫌いではないが毎食は食べられない!」
「辛いの嫌ならチャーハンでも食ってろよ。チャーハンは辛くないから! あとビール! チャーンとかシンハービールうまいからなんか店連れってってやる。ところでこのアポちょっと時間ずらさない? 厳しそうじゃない?」
「タイは道が混むって言うしな……ずらすか。今回予定なんてものはあてにならないと学んだ。日本の新幹線がオンタイムすぎていささか平和ボケしたようだ」
それを聞き、沙羅は内心笑いそうになった。
(どこでそんな堅苦しい日本語を覚えたんだ……)
それに、もうどこにも行きたくないというのは沙羅も同じだった。もう、出張は飽きた。国内でも海外でも。
邪魔しないように無言で脇を通り過ぎると、冷蔵庫から好きに飲んでいいと言われているリンゴジュースを取り出した。
「沙羅!」
レネの声が飛んできたので、なんだ? と後ろを見た。彼は脚を組んで沙羅の方に向かって笑みを浮かべていた。
彼はゆったりとしたネイビーのオーバーシルエットのTシャツを着ていた。
「炭酸が嫌いじゃなければ、それを炭酸水で割ってみろ。ちょうど半々がベストだ」
「ああ。
康貴が腰を上げた。
なるほど、と沙羅は炭酸水のペットボトルを取り出してリンゴジュースと半々で注いでみた。一口その場で飲んでみる。喉越しがとてもいい。
100%のリンゴジュースだと夏場など少々濃すぎるが、これは爽やかさっぱり。最高だ。
「美味しいです!」
「外で飯食いに行ってもこれ出してくれるよ。カフェとか」
「杉山さん、さっきこれなんて言いました?」
「
背後からレネの声が聞こえた。いつの間に、と沙羅は彼の方を仰いだ。
彼に炭酸水のペットボトルを渡すと、持っていたグラスに注いでから康貴に渡していた。
「ヒガシさん、仕事の進捗はどう?」
「部長にのんびりしろって、これは業務命令だと言われてしまったので、あとちょっとレポート書いたら何もないです。まあ、今から客先にメールしたとて日本は夜中ですし、部長の言う通りにちょっとその辺散歩でも行こうかなと」
のんびりどころか、エアフルトの大聖堂を見てこいとか要塞や橋を見てこいとか、道端でイカついおじさんが売っている焼きソーセージを買って食べてみろとか別方向の課題がきていた。
確かに、部長はドイツ駐在経験があると噂に聞いていたから納得した沙羅がいた。
上司が街を散策して来いと言う。ならばそれは仕事であるし、自分が街に繰り出しても責められるべくは上司である森山である。
沙羅は真面目な性格であったが、上司の指示に忠実な部下でそれなりにユーモアも理解する性格であった。
「暇ならレネに街の中案内してもらいなよ。大聖堂とか要塞とかあるよ? 街も結構綺麗だし、エアフルトは昔から交易の要所で市街は本当のドイツ! って感じだから」
(杉山さん、私と社長を二人にしようとしてるな……からかうのもいい加減にしてほしいんだけど)
電車の中でレネはどう? などと聞かれたことを思い出した沙羅は、今度はその手には乗るまいと先手を打つことにした。
「社長、お忙しいのでは? 私は一人で結構です」
「昨日も仕事していたし、そこまででもない。出かけないか?」
(そんなサービスいらないってば)
かと言っていい断り文句も思いつかない。沙羅は一瞬押し黙った。
「レネはせっかくだから地元を案内してあげようとしてるだけなのに〜」
「そこまで嫌われているとは思ってもみなかったな。悲しいことだ」
一ミリどころか一ミクロンも悲しそうに見えない、どこか人を食ったような笑みを浮かべて彼は言う。こんな余裕そうにどっかりと構えているハイパーイケメン男が、自分のような平凡女を恋愛対象として見るとは全く思えない。沙羅はそう思い知らされて心の中で嘆いた。
「……嫌ってないですよ」
自分にもっと自信があったら「恋人としても考えてくれるのならば、パートナーになるのも考える」とあの時言っていただろう。
(嫌ってないというかもう……好きだな、これ……)
沙羅は今更ながら己の恋心を認めざるを得なかった。
せめてダイナミクスのパートナーになっていればそこからうまく持っていけたかもしれない。それは都合のいいDomとして扱われるかもしれない諸刃の剣ではあった。でも、昨日あんな風に断ってしまった。もう後の祭りだ。
日本に帰ったらさっさと忘れよう。彼は本社勤務、そうそう会うこともない。
忘れられなかったら、早々に転職活動でもしよう。
これ以上自分が重傷を負う前に。
でも最後にちょっと出かけるくらいいいのではないか。デートしたい、あと一度。
心は揺れた。
そして沙羅はおずおずと口を開いた。困った子犬のような顔をして。
「あの……では、またガイドしてくれます?」
そう問いかけると、彼の口元がわかりやすく弧を描いた。
「もちろん。さてヤス、残りを片付けるぞ! 沙羅、11時半から出かけよう」
***
かくして、今に至る。
まずは教会の下の広場にあった屋台で熱々の焼きソーセージを買った。
イカつい中年の男性が、目の前で焼いてた太めで表面パリパリのそれをひょいとトングで掴み、片手で持てるサイズの切れ目が入った丸っこいパンに挟んで渡してくれる。
沙羅は「
「マスタードとケチャップはお好みで」
レネも自分のソーセージを受け取り、会計を済ませるとそう教えてくれた。沙羅は両方かけてみた。彼はマスタードのみたっぷりと。
沙羅は森山に送りつける証拠写真を撮影したのち、近くのベンチに座ってかぶりつく。表面は香ばしくパリパリに焼かれており、中はジューシーでぎゅっと詰まって食感はしっかり、そして肉の旨味が凝縮されている。間違いない美味しさである。
口の中を負傷しそうなハードなパンもかみごたえばっちり。それでいて、中はそれより柔らかめで食べやすい。小麦の風味がいきいきとしている。
美味しいソーセージに全く負けないのだ。
(やっぱご飯美味しいなぁ……)
「君、いい加減肉に飽きないのか?」
沙羅は隣のレネを見た。彼はすでにペロリと半分平らげていた。
(早すぎだろ、いや、一口が大きいのか……)
「……そんなに飽きはこないですかね。美味しいので!」
「俺は飽きた。日本に帰って魚を食べたい」
「社長って魚派なんですか?」
「どちらかと言えば魚派だな」
意外だ、と沙羅はソーセージを口に運ぶ。
ドイツは北の方を除いて内陸なので、魚介類はほとんどない。沙羅がレストランのメニューを見た限り、あってもサーモンのグリルくらいのものだった。
そしてふと周囲をあちこち見渡した。大聖堂とソーセージの屋台に視線を奪われていて、実はあまり周囲を見ていなかったのだ。結構古めかしい建物がたくさん残っていることに気づかされる。
「そういえばここ、結構古い街並みみたいですね」
「あまり連合軍の空爆を喰らっていないからな。ライプツィヒの先にあるドレスデンという街なんて空爆で瓦礫の山になったと聞いている。ヤスがエアフルトは本当のドイツだと言ったのはきっとそんな意味だろうな」
(そっか連合軍か、日本みたいに米軍じゃなくて……)
「ってことは、ここは昔から広場だったんですね」
「実はそうでもないらしい。そこに要塞があるが、あそこにナポレオンが立て篭って、そっちの市街地にはプロイセン軍が陣を敷いてドンパチやった。ここにも民家があったはずだが、その結果真っ平になった」
沙羅はそれを聞いて、しばし硬直した。スケールが大きすぎる。
「……ナポレオンがこの街に? え? そんな凄い街なんですか?」
「ここは大街道が交わる要所、商人の街だ。昔は今よりももっと栄えていたらしいぞ。まあ今も、旧東にしてはまあまあ栄えてはいるがな」
その後も色々とこの街の歴史を聞くと彼はすらすらと話してくれた。ベンチでの軽食ののち、大聖堂へ向かう。
大聖堂と教会は巨大な階段の右と左にあるというなかなか見たことのないような配置だ。元は丘の上にあったのだろうか。
昨日の体験乗馬の結果、筋肉痛と謎の股関節痛にプルプルする脚を叱咤激励し、途中危なっかしいと腕を掴まれ、ようやく階段を登り切る。
近づけば、見上げる首が痛むほどの荘厳な建物があった。まずは大聖堂へ。
「あの……ちょっとどこかで座ってもいいですか?」
「教会だからな、椅子は腐るほどある。中に入るぞ」
耳に飛び込んできたのはパイプオルガンの音色、それから見上げるほど高い天井、縦に長いステンドグラスは十メートルはありそうだ。数々の彫刻やレリーフや絵画、それから荘厳な祭壇を見上げて言葉を失う。
「沙羅、椅子に座らなくていいのか?」
「忘れてましたっ!」
石造りなので外よりも涼しく、しばしまったりと見学したのちに遅めの食事をとった。店は、近くにあったシュニッツェルの専門店。
通常メニューだけでなく小腹がすいた時の小盛りメニューもあり、先ほどソーセージを食べた沙羅にはちょうどよかった。
その後、すぐ北西の要塞を見に行った。
ヴァルトブルクが日本で言うところの天守閣のある城ならば、こちらは五稜郭に近い。あちらも無骨で要塞っぽく沙羅の目に見えていたが、こちらこそまさしく要塞であった。
堅牢な壁の中の展示を見てトンネルを巡り、エアフルトの街並みや教会を見下ろせる高台に出る。
「綺麗ですね……」
「俺の故郷だ、綺麗だろ?」
自慢げに言う彼に沙羅も目を細めて笑みを浮かべた。彼の言う通り息を呑むほどに綺麗で、一生忘れられない景色となりそうだ。
レネはこれはなんだあっちに見える建物はどうだと色々説明してくれた。しばし景色に心洗われ、語らい、写真を撮って、それから高台から降りた。
続いて沙羅とレネは部長に言われた通り橋を見に行った。
「これ、橋ですか? 普通の道でなく?」
「橋だ。後で外から見てみようか」
左右にさまざまな店やカフェ、レストランが並んでいる大通り。途中染物屋の店に入り、藍染めのような濃いブルーの布製品を見たりアイスを食べたりした。
実際に通りを出ると、今まで歩いたのは本当に橋であった。橋の上に建物が建っていてなんだか不思議だった。途中エアフルトにあるイタリアンジェラートの店はマフィアが経営しているというレネの話を半信半疑で聞き流しながら市庁舎などを見て、最後夕飯の買い物をして帰路に着いた。
この日、沙羅はアナへのお礼を兼ねて和食を手作りした。もちろんレネと康貴も手伝ってくれた。
四人で囲む夕飯はレネへの持て余した気持ちを除くと最高に気分のいいもので、アナも喜んでくれたようで素晴らしいものとなった。
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