第21話 障害馬術、馬場馬術

 翌朝、沙羅は朝イチでアナに礼を言った。もう申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだ。

 やはり、いくらか包んだ方がいいだろうと考える。


「大丈夫、疲れてたんでしょ。のんびりして。お客さまだからお金のこととか気にしないでね」

「ありがとうございます」

「私が日本に行ったらその時は一緒に遊んでね」

「はい、もちろん!」

「だから今はいっぱい食べて街を散歩にでも行って、この国をいっぱい楽しんで」


 彼女は朝ごはんを出してくれた。


「パンとチーズとハムと……ジャム、バター……パンに好きなものつけてね。あとはヨーグルト」


 彼女はそう言って、ミルクたっぷりのカフェオレも持ってきてくれた。ありがたくそれをいただいていると、康貴が起きてきた。

 沙羅は元気よく挨拶をした。


「おはようございます!」

「おっはよー! あれ、アナさん、レネは?」

「おはよう。レネは馬に乗りに行った」

「馬!?」


 さらりと答えたアナに、沙羅は目を見開いて驚愕した。


(社長馬にも乗れるのか……バケモン)


 話を聞けば、今日一緒にバーベキューする二人は隣の乗馬クラブの若夫婦らしい。

 レネは昔よく馬の世話をして小遣いをもらっていたようだ。その時に乗馬も覚えたらしい。

 朝っぱらから元気だなぁと沙羅は遠い目をした。彼とのプレイで体調は劇的によくなったが、さすがにそんな元気はない。


(誰だよインドアって言ったの〜)


「レネが唯一するアウトドアなこと、乗馬だけ。大学の馬術部出てからは大学に顔出した時とドイツに帰ってきた時限定。日本の乗馬クラブ、高いらしいね」

「高い……でしょうね。そもそも郊外に行かないと馬なんていませんし!」


 すると康貴が一つ提案してくれた。

 

「せっかくだからちょっと見に行く? 飯食い終わったら俺が案内するよ!」

「行きたいです! ありがとうございます!」


 かくして、朝食後に沙羅と康貴は外にくり出した。確かに玄関を出て庭を抜けると、視線の先には昨日は気づかなかったが広大な放牧場があった。

 朝の空気はひんやりしていたが、心地よくて胸いっぱい吸い込む。空気の匂いがなんだか日本と違う気がする。


 体調が回復したことも相まって、足取りも軽い。なんだか視界も明るい気がする。


「俺ら出張中なんだよな〜どうなってんだろ」

「確かに。今って……出張中なんですよね」

「そのはずなんだけど、俺もだんだん訳わからなくなってきた……」

「ですよね」


 涼やかな空気が流れる木漏れ日の街道を進む。空は透けるような青空。雲ひとつない。確かに運動するのに最高な気候だ。


 見えてはいるが、思ったよりもお隣さんへの道のりは長かった。必然的に会話が途絶えた。

 その空気に耐えかねた沙羅は、かねてより思っていた疑問を康貴に聞いてみることにした。 


「杉山さん」

「うん?」

「社長、いくらあの環境でも日本語うますぎません? 顔も頭も良くて馬にも乗れる? 頭だっていい。バケモンですよ」


 康貴は「バケモン」と繰り返しながら笑い始めた。


「レネはねぇ……そう、あいつはバケモン級にいいやつなんだよ」


 康貴は懐かしそうに遠くを見ながら口を開いた。 


「俺、母親ドイツ人だけど子供の頃はドイツ語からっきしだったわけ。それでアナさんとばっかり日本語で喋ってた。んで、ここいらの子供らに全く相手にされなかった。全然遊んでもらえなくてさ」

「ああ、目に浮かびます。都会ではないし、アジア系なんて少ないでしょうし」

「うん、そしたらレネ、自分も俺と喋りたいって小さい頃に猛勉強始めたんだよ。俺が馬鹿にされてるのが耐えられなかったっぽい。ドイツ語わかんないから馬鹿にされてることすらわかんなかったけど」


 子供の頃から優しかったのか、と沙羅はなんとなく彼の性格を理解し始めた。

 でも当初、彼は沙羅に対し全く優しいとはいえない塩対応だった。そしてもしかしたら、とも思う。

 彼からすれば、沙羅は南方の人間だ。そう考えると最初の状況は納得がいく。

 彼は、実の父である南方精密の現会長に復讐しようとしているに違いない。


 彼女はこの時には既に確信していた。

 おそらく、今の彼は沙羅を南方の人間ではなく、東新川沙羅という一個人として尊重してくれているということに。


「社長って優しいですよね」

「うん……ヒガシさんがわかってくれてるならよかった」

「じゃなかったら、八王子まで来なかったんじゃ?」


 沙羅は彼が八王子まで来て名刺をくれた日のことを思い出していた。


「うん。最初は『せっかくドイツに帰れるのに南方の小賢しそうな理系女と一緒か、めんどくさいな』とか言ってたのにさぁ」

「ちょっとそれ言います?!」


 沙羅の声がひっくり返った。康貴は心の底から面白そうに笑った。


「もういい加減南方精密の人間ってバイアスを超えて好かれてるって認識した方がいいよ。あ、レネだ」


 沙羅が康貴の視線を辿ると、遥か彼方に馬に乗って駆ける姿が見えた。


「めっちゃめちゃ走り回ってますね」


 彼は飛ぶように駆けたのちに少しスピードを落とすと、ポールを優雅に飛び越えてみせた。


「飛んでる……ガチ勢じゃないですか!」

「レネはガチ勢だよ。アナさんが言ったように日本の大学でも馬術部だったし。いっやー鞭もなしであれか」

「もしかして障害馬術ってやつですか?」

「そうそうそれ」


 そしてレネと目があった。彼はこちらのフェンスに向かって真っ直ぐ駆けてきた。

 手綱を引いてぶつかる直前にギリギリで急停止。沙羅は驚いて硬直することしかできない。

 一方の康貴は飛び上がった。


「おはよう諸君」

「おいおいおいおいっ!」

「驚いたか?」

「驚くわ! ……はぁ。おはよ。ちょっと馬場馬術っぽいのやってよ。見た〜いってほらヒガシさんが」

「おはようございます。一言も言ってないっすね」


 沙羅が我に返ってジト目で康貴を睨むと、馬上のレネが声を上げて笑っていた。


「ヤス、そこの短鞭たんべん取ってくれ。流石に馬場は得意じゃないから。それにこの子、ものすごく帰りたがってる」


 馬は出入り口の柵の方をずっと見ている。

 康貴はベンチの上の黒くて短い鞭を手に取った。先端にフラップが付いている。それを背中に隠しながら康貴は馬場に入り、素早くレネに手渡した。


「鞭に過剰反応する馬とかいるから。見えただけで暴れるような馬もいる。まあレネならいなせるだろうけど、俺はあの馬の性格知らないし念のため」


 持っただけで、効果は抜群だった。馬はきびきび動き始めた。彼は鞭を一振り。するとパァンと大きな音が鳴った。


(ダイナミクスのショップで見たことだけはあるな……鞭)


 プレイはSMと似通ったところもあるので鞭を用いるDomも多いが、沙羅はさっぱり興味も湧かないので鞭はわからない。相手に痛みを与えるプレイは好きではない。小道具として使うとて、何が楽しいのかもわからない。


「あれ、フラップが二重になってるからでかい音出る。ヒガシさんもDomだから知ってるかもしれないけど、あれで腕を振り上げて人の尻とか打ったらもちろん痛い。でも馬はあの音が出る程度振っただけじゃ痛みなんて感じないから音で馬に刺激を与える」


 レネは早速馬の脚を交差させるように斜めに進んだ。沙羅は思った。テレビで見たやつだ、と。それからその場で高く脚を上げ、跳ねるようにリズミカルに進む。


「オリンピックとかで見たやつですね……」

「かなり上級技だからねぇ……プロと比べたら完璧ではないけどあれだけできたら普通にすごいと思う」


 その後、少々馬が嫌がっているのが沙羅の目にも分かった。鞭の音が響いた。


「レネ、どう見ても鞭を使う側が似合いすぎるんだけど、ねぇ……?」


 康貴の茶色い瞳が沙羅の方を意味ありげに見遣った。


「そうですね、性格的にも社会的地位を考えてもSubっぽくないですよね……あっ!」


 しまった、そう思った時にはもう後の祭りだ。

 沙羅は動揺しながらもレネの方に視線を戻した。


「あ、やっぱりヒガシさんも知ってたか。えええ? 実はプレイした? 二人とも昨日の昼間とか顔色死んでたけど今超元気だしぃ?」


 沙羅が言葉を詰まらせていると、レネが馬の頭をこちらに向けてゆっくりと戻ってきた。


「このくらいで勘弁してくれ! 疲れた」

「お疲れ〜、戻る?」

「戻る」


 彼はそう言って馬の左側にすらりと降りた。康貴がゲートを開けて、馬の手綱を貰い受けた。


「繋いで馬装解けばいい?」

「ああ、悪いな」

「任せとけ」


 康貴は馬を引いて歩き始めた。

 沙羅はベンチにあったペットボトルとスポーツタオルを手に左手に短鞭をぶら下げたレネに歩み寄った。


「お疲れさまです。結構長く乗ってたんですか?」

「1時間くらいか? よかった、君はよく眠れたみたいだな」

「はい、おかげさまで」


 ありがとうと彼はまずタオルを受け取り首にかけ、ヘルメットを取ると左の小脇に抱え、額に流れる汗をタオルで拭った。


(やっっばい)


 首筋を流れる汗に釘付けになって、沙羅は動揺して手元のペットボトルに視線を落とした。セクシー過ぎる。あまりにもセクシー過ぎる。目に毒だ。


 普段汗だくの男なんて近寄りたくもないし目に入れたくもないのに、彼に対して不快感は感じない。ああ、なんてことだろうと思ってしまった。


 沙羅は彼に惹かれ始めていたのである。それまでもいい人だとは思っていたが、最終的なトリガーとなったのは昨日のプレイだ。紛れもない。


 いや、でもまだきっと、好きとかそんなのではない。


 沙羅は自分を誤魔化すように視線を手元のペットボトルに落とした。彼は両手が塞がっていたのでキャップを開けてから渡そうと思ったのだ。

 日本と違って、キャップは一部がつながった一体型だ。若干飲みにくいが落とす心配がないのでこういう時に便利だ。


「どうぞ」

「助かる。ありがとう」


 彼は残っていた水を一気飲みした。綺麗な喉仏に一瞬視線が釘付けになり、動揺を隠すように視線を康貴とレネがさっきまで乗っていた馬に移した。


 馬は脚を止め、道端の草を食んでいる。康貴が引っ張ると渋々と言った様子で歩き始めた。


「日本語の『道草を食う』の由来はあれらしい。なかなかそのままで感心したな」

「なるほど! 言われてみて初めて気づきました。あの、何か持ちましょうか?」


 両手が塞がった状態の彼を見かねて沙羅が声をかけると、レネは無言で鞭の持ち手を差し出してきた。

 沙羅も無言で受け取った。

 自分の手のひらを試しに叩いてみた。音は派手だが痛くはない。なるほどなと感心した。


「君もDomなら使い慣れてるだろ? 俺は痛いプレイは好きじゃあないが」

「鞭、初めて持ちましたね」

「ええ? そうなのか?」

「はい。私も痛みを与えるプレイは好きじゃないんですよ。これの使い所なんてさっぱりです」

「奇遇だ、気が合うな……」


 視線で促されて、沙羅は建物の方に歩き始めた。


(これちょっと意識されてる?)


 実際、昨日の彼とのプレイは最高だった。一気に視界が明るくなったような、身体が軽くなったような気さえした。鮮烈ですらあった。


 だがレネはこちらが尻込みするほどいい男だ。沙羅は、自分のようなパッとしないDomとプレイして楽しいと思うとはまさか思っていなかったが、もしかしてと身構えた。


「なあ沙羅。君、ダイナミクスのパートナーいないんだろ? 俺は候補にならないか?」


 思った通りの台詞に、沙羅は肩をびくりと震わせた。

 昨日はたまたまだ。たまたまうまくいっただけ。沙羅はあまり積極的なプレイをしないのでつまらないなどと言われてうまくいかなかったことも多い。


 沙羅は自分の手を見た。ここ数日修理作業はないので綺麗な手だが、普通の石鹸ではいくら洗っても汚れが取れなくて諦める時もある。こんな手であんな綺麗な男を?


 そして何より、沙羅は月の半分は東京にいない。週末ならば家にいるが、多忙なこの男と定期的に会ってプレイ可能だろうか。


 彼も週末くらいはゆっくりしたいのではなかろうか。ただのダイナミクスのパートナーならば、平日の夜、互いの都合のいい時に少し会ってプレイだけするようなさっぱりした関係というのが普通である。そう、まるでセフレか何かのように。

 

 そして何より、沙羅はパートナーと恋人を分けて考えたくはなかった。どうしてもそれだけは嫌だった。


 彼は、多分自分を恋愛対象として見ていない。


「私は……その……」


(昨日は勢いでキスしそうになったけど……)


 彼のような女性に困りそうにもない男性が、自分をプレイ相手だけでなく、恋愛対象としても考えるとはどうしても思えない沙羅がいた。

 沙羅の頭の中ははちゃめちゃだった。


 彼女は言葉に困って俯いて唇を噛んだ。


「……その沈黙が答えだな。わかった、無理にとは言わない。忘れてくれ」

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