第20話 夕飯、それは真夜中に

 沙羅はベッドの中で伸びをした。そしてパチリと目を開ける。目が覚めた、気分は最高。身体は完全復活だ。そしてハッとして時計を見た。


「11時……」


 夕飯の時間などとうに過ぎていた。もうどうしていいのかもわからない。

 ドアを開けると、カゴの上にタオルをかぶせた何かが。「洗濯物、勝手に畳んでおいたよ! 夜に目が覚めたら冷蔵庫のもの好きに食べてね! キッシュとスープも温めてどうぞ! レンジの使い方は裏を見てね! アナ」と書かれたメモが乗っていてギョッとした。

 裏返すとレンジやオーブンの使い方も簡単に書かれていた。


(なんていい人なんだ……)


「ごめんなさいごめんなさいアナさん!」


 小声で謝罪し、カゴを室内に移動させた。綺麗に畳んだ服が入っていた。

 沙羅は寝起きの頭のまま焦りに焦り、とりあえず気分をすっきりさせようと一階に降りて顔を洗って歯を磨いた。アクロバティックな寝癖も整える。


(明日お礼言わないと。喉乾いたしお腹もすいた……)


 皆寝ているだろうが、とリビングに近寄れば電気がついている。恐る恐る覗く。


『は? ヤス下手すぎ。なんでまっすぐ走れないんだ?』

『うるせえな。お前が上手すぎるんだろ』


 なお、二人の会話はドイツ語なので沙羅には全く理解できていない。 


「……失礼しまーっす」


 小声で入れば、リビングのテレビの前のソファに座りコントローラーを手に取るレネと康貴がいた。

 彼らはパーティーゲームをしており、レネは沙羅を見て柔らかく微笑んだ。


「沙羅、起きたか! おはよう!」

「おはようございます……寝過ぎました」

「あーヒガシさんちょっと待って今……あーっっ! くっそ!」


 テレビモニターの中で、康貴が操縦しているらしいカートがコースをアウトした。レネはその隣で颯爽とゴールを決めた。


(社長、ゲームとかするんだ……)


「はい連勝、楽勝。もう少し歯応えがないとつまらない」

「勝てねぇ……やめだやめ! ヒガシさん起きてきたし飯だ飯!」

「あ、沙羅もゲームする? 夕飯がいい?」


 レネの問いに沙羅が正直に応える。


「ご飯食べたいです……」

「じゃあ夕飯にしよう」


 レネは機嫌良さそうに笑みを浮かべながら電源を切ってコントローラーをしまった。

 さっきまで沙羅とプレイしていた男はそれを感じさせないくらい平然としていた。彼を変に意識してしまっていた沙羅は雑念を振り払った。


「調子は?」

「問題なしです。色々ありがとうございました。お二人ともまだ夕飯食べてないんですか?」

「ああ、二人ともシャワー浴びてちょっと前まで寝てた。母さんに悪いことをした」

「アナさんから『スープとキッシュ作ったから食べて』ってメモがあった。さすがだなぁ。生粋のドイツ人だったらこうはいかない。料理上手! キッシュはイタリア料理じゃないけど!」


 先日も聞いていた通りで、この親子がイタリア系であるということを思い出した。レネやアナは沙羅が接した限りではあったが、周囲のドイツ人と比べるとあまりにもおしゃれすぎる。いや、洗練され過ぎている。

 いい意味で、ドイツ人はもっとナチュラルで素朴なのだ。


「アナさんに申し訳ないです……」

「俺は寝る間際のアナさんに遭遇したけど『ご迷惑を申し訳ないです! 明日以降はホテルに移りますんで!』って言ったけど全力で拒否された」

「あの人らしいな。電車復旧するまで居ろって言うはず」

「そ、レネの言う通り。普段一人だからわいわいしたいんだって。あんまり気にしなくていいと思う」


 まじか、と沙羅は焦った。最初こそ、強そうで性格がきつそうだなと警戒したが、朗らかでいい人だ。だが、流石に申し訳ない。


「大丈夫、金を払おうとか思うな。日本にしょっちゅう遊びにきているから、来日した時に一緒に出かけてくれたら喜ぶ。安心しろ、俺かヤスがつきそう」

「大丈夫大丈夫、アナさん、ヒガシさんのこと気に入ってるっぽいし」


 レネと康貴がそう言うので、沙羅は渋い顔をして頷いた。納得はできていなかったが、さて遅い時間だが夕飯にするかとレネと康貴がキッチンに向かうので沙羅も彼らを追いかけた。


「えぇっと、キッシュこれか。レンジとオーブンでちょっと温めるか。あとスープを温めて……チーズとハムもあるな。俺、サラダ作る。ヤス、チーズカットしてハムと皿に出してくれ。あとパンも」

「はいよ」

「あの、私もお手伝いさせてください」

「うーん沙羅は……スープ見てて。たまにかき混ぜて。あとキッシュ。レンジの後オーブンに入れるから焦げてないかたまに見てほしい」


 そう言ってレネはスープの鍋に火を入れた。

 鍋を覗き込んだ沙羅はそれが野菜たっぷりのポタージュスープであることに気づいた。


 キッシュをレンジに入れ、彼自身は包丁、カットボードと野菜を取り出している。レンジで温め終わったキッシュをオーブンに移す。


「アナさん、料理お上手なんですね」

「そうだな……結構上手いと思う」


 レネは野菜を洗って、手際よくトマトやきゅうり、パプリカなどを1、2センチ角くらいにカットした。それをボウルに入れて、冷蔵庫から瓶を二つ取り出しこちらを見た。オリーブの瓶詰めと、オイルに浸かったチーズの瓶詰めだ。


「オリーブはいけるか?」

「はい!」

「フェタチーズ入れる。オイルも大丈夫か?」

「もちろん!」


 沙羅は気づいた。彼はおそらくドレッシングを手作りしてサラダを作る人だ。


(社長も料理できる人だ……)


 流石にドレッシングなんて作らない沙羅はぼうっと彼の手つきを見ながら鍋をかき混ぜた。たまにキッシュも確認する。

 レネはソルトミルで塩をほんの少し、それから胡椒を少々振りかけるとレモンを絞ってボウルのサラダをざっくりかき混ぜた。


「できた。さてスープは?」

「沸騰直前のいい感じかと」

「よし、火を消そう。キッシュは……まあいい感じだろう。こっちも火を消してオーブンに入れたまま余熱で保温しておこう」

「了解しました」


 レネはそこでこちらに視線を向けた。


「ところで沙羅、体調は? 酒は飲めそうか?」

「はい、おかげさまで体調はばっちりです!」

Superズーパー! 今日はSektゼクトを買ってきた。ドイツのスパークリングワインだ。あと白もあるし、まあそこそこ楽しめるだろう」


 沙羅はこの時理解していなかったが、Superズーパーとはいいねとか最高とか、何か肯定的に相槌を打つ時に使う単語である。


「レネー、こっち準備できたよー! ゴミ箱どこー?」

「ゴミはこっち。そう、そこに全部突っ込んどいてくれ」


 レネはステンレス製のワインクーラーに氷をガザガサ入れながら康貴に指示した。テーブルにサラダ、パン、スープに各種チーズやサラミが並ぶ。


「面倒だから一気に全部出していいか? キッシュも全部一緒に」

「レネ、コース料理じゃないんだぞ」

「社長って普段そんな面倒なことしてるんですか?」

「俺か? 一人の時は可能な限りワンプレートに収める。スープなんて絶対作らない」


 かくして、午前0時。三人で乾杯。男性陣曰く「真夜中の夕飯」がスタートした。


 スープも過度な味付けがなく、優しい野菜の味がして美味しいし、何よりサラダが美味しい。角切り野菜なのでスプーンで食べるのだが、それもいい。

 沙羅はナイフとフォークでサラダを食べるのにいい加減疲れ切っていたからだ。


「このサラダ、美味しいです!」

「ギリシャ風にしてみた。そう言ってもらえて何よりだ。ワインビネガーを入れても美味しくなる」


 スパークリングワインもすっきりしていて美味しいし、キッシュも絶品だ。

 明日、アナにお礼を言おうと沙羅は思った。


「肉は明日嫌と言うほど食べることになる。今日はこれくらい軽めがちょうどいいな」

「明日Grillenグリレンかぁ。トビアスとカトリンに会えるのは楽しみだけど……」

Hab keine lustハプ カイネ ルスト


 レネが気だるげにドイツ語で何やら発した。


「乗り気じゃねぇ、ってさ。レネ、こう見えてスーパーインドア人だから」

「二人に会うのは楽しみだが。俺はドイツ人にあるまじきインドアとよく言われる」


 確かに沙羅が今まで知り合った取引先のドイツ人たちは休日はハイキングやキャンプに行くだとか、自転車に乗るのが趣味と言っている人が多かった。


「んで、こいつ、イタリアハーフで料理大好きなアナさんの影響で、やっぱり夕飯とかもあんまりドイツっぽくない」

「そうだな、うちの母親は料理上手だし、食生活はドイツっぽくない」

「普通のドイツ人って、この三品くらいで夕飯終わりだろ。サラダだってこれだけ手の込んだのだったら相当だよ」


 康貴はチーズとハム類が乗った皿とパンと、それからサラダを指差した。

 沙羅は驚愕の声を発した。


「スープとかキッシュとかなしですか? 焼いた肉とかは?」

「伝統なドイツの夕飯は、夜に火を入れたものは並べない。下手するとこのサラダもないな。野菜スティックやピクルスでもあれば十分だろう。あとはビールかワインでも飲んどけって感じだ」

Kaltes Essenカルテス エッセン、冷たい食事って意味。まあ例外もあるんだけどね?」


 康貴はそう言ってグラスのスパークリングを飲み干した。レネが布巾片手に流れるように注ぎながら口を開いた。


「昼間に社食がなくてサンドイッチくらいしか食べられない人間は、夜にグリルした肉を食べたりもする。だが、温かい食事は日に一回という人間がほとんどな気がするな……若い世代はそうとは限らないが」


 かくして一本目のワインが開いた。レネが軽い足取りで2本めの酒を取りに行った。

 康貴がここぞとばかりに写真立てを手に取った。


「ねね、ヒガシさん。この写真見た?」

「あ、見ました見ました! 社長、髪染めてたんですね!」

「ぜっっったいにあのブラウンよりも地毛の方がいいよね! 今のも違和感ないけど。あいつ眉が茶色っぽいから」

「まあ本人が好きでやってることでしょうしとやかく言ったりしませんが、私は……日本人なので勿体無いなと思っちゃいますね。眉の色いじらなくていいのはラッキーですね」

「ヤス、本人がいない間に盛り上がるな」


 写真を見ながら盛り上がっていると、ワインと新しいグラスを持って戻ってきたレネが仁王立ちしていた。

 気配がまるでなかったので、沙羅は息を飲んだ。 


「ヒガシさんも金髪の方がいいってさ〜」

「ブロンドじゃない、ブルネット」

「まったまた〜、そんな謙遜を」

「ブロンドは軽そうに見えるから嫌いだ。……だいぶ色が抜けてきた。帰ったら染め直さないとだな」


 二本目のワインを飲みながら、ちょいちょいチーズやハムをつまみつつの雑談は最高に面白かった。


 プレイのことを全く口に出さないレネに、沙羅は心の底から感謝していた。そう、体調不良の被雇用者に対する治療だと思ってくれているならばありがたい。


 彼は沙羅にはあまりにも綺麗すぎる男だと彼女は思っていたのだ。なかったことにでもしてくれたらいい。そうでないと恥ずかしすぎる。


(こんな綺麗な人と……もう一生ないだろうな。いい思い出だ)


 男性のSubで彼のように綺麗な容姿の人はそうそういない。

 しかしこの時、実はレネが真逆のことを考えていただなんて、沙羅は思いもしていなかった。


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