第19話 客室、プレイは成り行きで

「これは治療みたいなものだ。気楽にプレイしよう」

「社長はダイナミクスのパートナー、いないんですか?」


 いたら相手に申し訳ないことこの上ない。

 ダイナミクスのパートナーはある意味結婚みたいなものだ。きちんと書面で契約書を交わしパートナーになるのだ。彼女はいないと言ったが、パートナーが恋人とは別にいる人間もいる。

 もしかして、と思ったのである。


「いない。俺はパートナーがいるのに他の人とプレイするだなんて不誠実なことはしない主義だ。どこぞの誰かみたいになりたくないからな……それから君が望まない限り、性的な場所には一切触れない」


 どうだ? と彼は挑発的な笑みを浮かべた。

 どこぞの誰かとは父親である会長のことであろう。そこには触れないでおこうと思った沙羅がいた。


「すると仮定して……セーフワードはどうするんです?」


 セーフワード、それはSubがプレイ内容に限界を感じたときに使う言葉である。Domの命令にSubが唯一逆らい、プレイの主導権を握ることができるのだ。それを聞いたDomは全ての行為を中断しなければならない。


 もちろん「やめて」とか「もう無理」などでもいいのだが、限界を知らせる言葉なので普段使わない言葉がよしとされている。


 己のSubのリミットを熟知し、セーフワードを絶対に使わせないDomは優秀なDomだ。沙羅はプレイを行うならばSubの望まないことは絶対にしないように心がけているDomである。


 レネは沙羅のセーフワードに関しての問いにしばらく逡巡して、もったいぶったように口を開いた。 


「……そうだな? セーフワードは『東新川主任』とでもしておこうか」


(私の苗字、ちゃんと言えるじゃん……)


 彼は初対面の時に言えなかった沙羅の苗字をすらすら言ってみせた。沙羅は部下はいないが役職としては主任だ。だから東新川主任なのだ。


「流石にそれは仕事中の気分になって興が削がれそうですね」

「だろう?」


 もうここまできてプレイしないなどと言えるはずもない。それに、さらに体調が悪化して倒れたりしたら周囲にさらに迷惑をかける。


「《Comeカム》」


 沙羅は覚悟を決めて「おいで」という意味のコマンドを告げた。ソファに深々と座り、顎を上げ、毅然とした態度で。

 ついに彼にDomとして命令を下したのである。

 ただのいち社員、名刺には主任としか書いていない下っ端である沙羅が。


 男は満足そうにはしばみ色の目を細め、ゆっくりと彼女の方に歩み寄ってきた。中性的な顔立ちに妖艶な笑みを浮かべている。


「そうだ、やればできるじゃないか」


 沙羅を焦らすようにたっぷりと時間をかけて沙羅の元へと来た男は、彼女が座るソファに片膝をつき、さらに距離を縮めた。


 そうして、彼は指先で沙羅の顎をすくい上げた。高い鼻梁が沙羅の鼻先、触れんばかり位置にある。

 プレイの最中、Subに見下ろされるなんて初めてだ。沙羅は思わず息を止めた。


「言われたとおりにしたぞ? 褒めてくれないのか?」


「……っ!《Good boyグッドボーイ》」


 コマンドをきちんと実行したSubをDomが褒める。全てはこれが基本。

 咄嗟に言葉が出てこなかった。

 褒められることが好きなSubもいれば、あえて従わず仕置きを受け、その後の褒美を期待するSubもいる。はたして彼はどちらだろうか。


「さて、ご主人様、次は何を?」


 口の端に笑みを刻んだ男は、尊大な態度を崩さぬまま言った。


(こんなSub、知らない……)


 だけど悪くない。こんなプライドの高い男が、社会的地位の高い男が、自分のコマンドに従って嬉しそうにしている。

 沙羅は彼が着ているものに目をつけた。移動日なのでカジュアルなサマージャケットを羽織っていたのだ。 


「《Stripストリップ》、まずはジャケットを」

「なるほど、そう来るか」


 なかなか面白い。そう言わんばかりに笑みを深めた男は、脱げというコマンドに従い沙羅の顎から手を離し、上体を起こすとジャケットを脱ぎ乱雑にソファに放った。


 一気に血が沸き立った気がした。彼は一体何をしてあげれば喜ぶSubなのだろう。Domは元来ご奉仕精神があるのだ。


「そんなに見つめられると穴が開きそうだ」

「社長も人のこと言えませんが?」


 彼は沙羅の言葉を鼻で笑うとソファの背もたれに両手をついた。

 両肩の真横に腕があった、沙羅は囚われたような状態で身動きが取れない。グリーンとブラウンの美しいグラデーションの瞳がすぐ目の前にある。彼は耳元に唇を寄せた。


(だから近いってば!)


「次社長と呼んだら返事をしないぞ。プレイ中くらい名前で呼んでくれ」


 彼はなおもつづけた。


「仕事をしている気分になる。余計なことを考えるな。俺は今、Sub


 少し掠れた囁き声。低音に背筋がゾクゾクした。

 完璧に振り回されっぱなしの沙羅はレネを睨みつけた。 


「……レネ、近い。私はそんなに近づけと言いましたか?」

「お気に召さなかったか?」


 彼はどこか嬉しそうだ。沙羅は静かに言い放った。


「レネ、《Kneelニール》」


 レネの肩が小さく震えた。ああ、いい反応だと沙羅は思った。

 おすわりとか跪けとかそういう意味のコマンドである。

 彼はきっと、このコマンドが好きなのだ。

 そしてこうも思った。彼は名を呼ばれてからコマンドを使われることが好きに違いない。


 こちらをじっと見つめながら、彼は少し距離をおいて絨毯の上に跪いた。きっと距離を置いたのはわざとである。


「レネ、《Comeカム》」


 沙羅は己の膝を指差した。レネの瞳がとろけたような熱を帯びた。


 彼は沙羅の膝に手を添えて、さらにそこに頬をすり寄せてこちらを見上げてきた。まさに、沙羅の意図したとおりだった。

 彼の視線に囚われて、ゾクゾクするような快感が駆け上がる。


(これは……プレイだけじゃ我慢できなくなりそうだ)


 何より相性がいいと素直に感じる。


「いい子ですね」


 髪を触ったらセットが崩れると思い、彼の頬に手を伸ばした。その秀麗な造形にうっとりしながら指の背でするりと撫でて、耳たぶを親指で愛撫した。

 彼は気持ちよさそうに目を閉じた。


 沙羅は思った。自分のような職業柄ネイルもできないお世辞でも綺麗とは言えない手で彼を撫でるのは申し訳なさすぎる。

 これほど綺麗な男を沙羅は知らない。


 沙羅の爪は機械の汚れた油で真っ黒な時もあるし、それを強力な洗剤で洗うとどうしても手は荒れる。そして作業中はハンドクリームでケアもできない。


(もっと綺麗な手が似合うよ……)


「沙羅、君はいいな……コマンドの使い方が上手い」

「そんなことは……」


 こんなことを言われたのは初めてだ。過去、色々なSubに全然リードしてくれないなど散々文句を言われていた沙羅はずっとパートナーもいない。

 レネは自分にコマンドを使わせるのが本当に上手いのだ。


 あまりにも嬉しかった。 


 膝立ちになった男が伸び上がりながらこちらをまっすぐ見つめてきた。沙羅は彼の頬に手を伸ばした。彼は気持ちよさそうに目を閉じると、沙羅の右手を取って、手のひらに口づけた。

 そして、ゆっくりと目を開けると誘うような視線を沙羅の方に向けた。

 言語化できないほど美しい宝石のような瞳がこちらを見ていて、沙羅の胸が高鳴った。


 彼はそれ以上は動くつもりはないようだ。だが、何を望んでいるかは手に取るようにわかった。


「沙羅」


 名を呼ばれて、沙羅はごくりと唾を飲み込んだ。

 熱に浮かされたようになった彼女は前屈みになってレネに顔を寄せた。まるで吸い寄せられるように。

 レネの手が沙羅の首の後ろに回り、まさに唇が触れ合わんとした時だ。

 遥か彼方で物音が響いた。ガチャ、と玄関ドアが開く音だ。


「レネー、ヒガシさんー! 帰ったよー!」


 康貴の声である。びくりと互いに肩を震わせて目を合わせ、一気に距離が空く。我に返った。

 ドアを見れば半分くらい開けっぱなし。そうか、レネが気を遣って密室にはならないように開け放しておいてくれたのかと今更ながら沙羅は気がついた。


「立っても?」

「え、ええ。もちろん」


 沙羅のコマンドで跪いたままのレネは許可を得てから立ち上がり、沙羅の隣に腰を下ろした。身体に腕が回ってきた。

 なんだ? と思っている間にハグされ、沙羅は驚いて硬直した。


「君は最高のDomだ、礼を言わせてくれ」


 そう言った彼はすぐにハグを解いた。沙羅はぽかんとレネのお綺麗な顔を見上げた。


「体調は?」

「徐々によくなってきたかと。ありがとうございます」

「それはよかった。夕飯までベッドで休んでいるといい。呼ぶ」


 確かに頭痛も徐々に治まってきていた。彼とのプレイは効果てきめんだった。


「あれ、レネ? 部屋かな?」

「ヒガシさんもいないですねぇ」


 下から二人の声が聞こえてきた。彼は静かに腰を上げた。


「二階だ! 今行く!」 


 レネはそう答えると名残惜しそうに部屋から出ていった。もちろん彼は今度こそきっちりドアを閉めた。


 しばしドアを見つめ、ぼうっと呆けていた沙羅はのろのろ立ち上がってベッドに身を預けた。

 疲れ切った体内が生まれ変わっていくような気がした。身体の末端まで血が巡っていることがわかる。


(あんな綺麗な人とプレイできるなんて最初で最後だろうな……)


 コマンド遊び程度のプレイであったが、沙羅は心地よさに目を閉じた。そして、知らぬ間に眠りに落ちていた。


ついに冒頭のプレイのシーンまで至りました!

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