第9話 社長のフォロー、早めの退勤
金曜午後3時、
とりあえず今日やるべきことを全て片付けた沙羅がいた。
彼らだけでもうそこそこの操作もできるようになって、皆機械を試しとばかりにいじくり回している。
彼女はショールームの端っこのデスクを借りて、PCに向かって早速出張報告書を書いていた。皆には質問があればいつでも呼んでほしいと言っている。
(ええっと、月曜日何したっけ?)
こういうものは、忘れる前に書くに限る。目まぐるしい日々に追われ、初日の出来事など早速忘れかかっていた。
そうだ、社長の挨拶だ、それから工場見学。思い出した沙羅は、先ほどスマートフォンから取り込んだ写真を貼り付けた。
さすが、地震のない国の倉庫で日本では考えられないような在庫や部品の管理をしている、と一言添える。
ショールームは冷房管理されておりかなり涼しいので、沙羅は自販機で購入したホットチョコレートを飲んでいた。これがまた、甘すぎなくて実に美味しい。カフェテリアのホットレモネードも最高。
先日パン屋で購入した素朴なケーキもとても美味しかったし、パンは硬めで沙羅好み。食に関しては同僚たちから聞いていた最悪の前評判と違い文句なしだ。
月曜の内容が書き終わり、報告書は火曜の仕事分に移った。
エアコンの音と、それから機械の動く静かなモーター音、そしてSH社の面々の話す低音のドイツ語に、まれにドアの開く音、沙羅がキーボードを叩く音が混じる。
その時だ、ふわりとウッディでありながら少々スパイスの効いた香りが漂った。
「真面目すぎるのも考えものだな。少しは休憩したらどうだ?」
「うわっきゃぁぁぁっ!」
いきなり背後から話しかけられて、沙羅は飛び上がった。
「しゃっ社長っ!」
「私は化け物か何かか?」
レネは腕組みをし形良い片眉を上げて心底面白そうに言った。
三メートルほど先、ショールームにいた面々がこちらを見て笑っている。彼らの隣に康貴もいて、やっぱり彼も笑っていた。
心臓がバクバクいっていた。何をするんだ、と沙羅は非難がましくレネを見上げた。相変わらず卒倒しそうなほどのイケメンである。
「……お疲れ様です」
「思ったよりも元気そうだな。さっきマネージャーと色々話をしてきた。取り急ぎ今週のやるべきことは終わったらしいな」
「はい」
頑張った、とにかく今週を倒した。
この男が帰ってきたのならば、やっと気を抜ける。ただし、それは仕事の上での話である。
自社の社長がイケメンすぎて落ち着かない。
この五日間で気づいたことだが、やはり彼は抜群にイケメンなのだ。まずは顔の造形が整いすぎている。そして日本人女性が好みそうな長身痩躯。足が長い。腰の位置が高い。
何度見ても見慣れない。
これほどスーツが似合う男を沙羅は知らなかった。ヨーロッパに来ればこのくらいの男はゴロゴロしているのかとも思ったが、この数日間過ごした限り、彼はどうやら普通じゃないくらい整った容姿の男だ。
「もう今日は上がっていいぞ。やるべきことが終わったなら、いつまでもここにいるのはナンセンスだ」
彼は皆にも聞こえるように英語でそう言った。相変わらず尊大な物言いである。
(社長の英語、聞き取りやすいな……)
だが、彼は小声でそっと耳打ちしてきた。今度は日本語だ。
「顔色が悪い、少しゆっくりしてこい。ホテルに戻ってもいい。あとはこちらでなんとかしておく」
今夜は皆で会食ではなかっただろうか。いいのか? いや、もしかして会食にも出してもらえないくらい呆れられたのか?
沙羅の目が泳いだ。
「どうかしたのか?」
「すみません。体調管理もままならず」
「何を言っているんだ。別に俺は君を非難してるわけでも、嫌味を言ってるわけでもない。面倒ごとは俺に任せて今日は休め。せっかく会社の金でここまできているんだ、週末寝込んでいたらつまらないだろう? 早めに帰っておけ」
君が望むなら、通訳兼観光ガイドをしてやっても構わない。そう言われて沙羅は無言でブンブン頷くことしかできなかった。レネは少しだけ目を細めて唇の端を上げた。
瞳の緑と茶のグラデーションが本当に綺麗だ。
ドイツは青い目の人間も結構いるので見慣れたつもりだが、単色とは違った美しさに釘付けになってしまった。
彼は不意に後ろを向いて言った。
「ヤス、送ってやれ」
「え! 自分も解放ですか!? よっしゃ! でも、レストラン予約してるんじゃないんですか?」
「今日もう三百キロくらい運転してるだろ。解散だ、あとは任せておけ。頭数合わせるのは向こうの仕事だ」
「ラッキー! ヒガシさん、帰ろう!」
沙羅は急いでコントロールキーとSを同時押しして書きかけの報告書を保存し、ばたりとノートPCを閉じた。
また来週と皆に挨拶をし、さっさと駐車場に向かう。ドイツを代表する高級車が止まっていた。レンタカーなのか、驚きだ。
「ヒガシさんのおかげでさっさと解放されたよ。ありがとう!」
「いえ……私そんなに顔色悪いですか?」
荷物はここに、と後部座席を開けてくれたので、リュックを放り込む。
康貴はそのまま助手席をどうぞと開けてくれたので失礼しますと乗り込んだ。
「いいとは言えないかな。社長、多分、明日以降ヒガシさんと遊びたいんだと思う。今晩はゆっくり休んどけって言ってるんじゃないか?」
「まじで言ってます……?」
「最初、週末は実家に帰るとか言ってたんだけど、フランクフルトに泊まるって言い出して慌ててホテル予約させられたくらいだからこの読みは悪くない線いってる思うよ?」
(まじか……どうかしてる)
こんな下っ端に親切にしてもいいことなんてないだろう。経営者として大丈夫だろうか。
沙羅は色々な感情がないまぜになったしかめっ面で助手席に乗り込んだ。
「社長、なんなんですか?」
「なんなんだろうねぇ? ヒガシさんのこと、気に入ってるんだと思うよ」
「……そんなにできる社員とは思えないんですが」
「それは自己評価が低すぎるんじゃない? 本当に仕事ができないなら、今回の出張メンバーに元から入ってなかったと思うし」
(上が何考えてるかなんて知らないし……)
さっぱりわからず「どうなんでしょうねぇ?」と言っていると、康貴がエンジンを入れてシフトレバーに手を伸ばした。マニュアル車だ。彼は慣れた手つきで滑るように発進させた。
「まあでもあの人は結構気難しいから、気に入られてるのは本当珍しい」
「社長と杉山さんって付き合い長そうですよね。プライベートでも仲よさそうに見えます」
「ご名答。幼馴染なんだ。母親の実家がチューリンゲン州のエアフルトって街にあって、レネ……社長もそこの出身。長期休みはドイツ語を使うようにって絶対ドイツで過ごしてたから。ちなみに歳も同じ。今年三十三」
先日二十九になったばかりの沙羅と四歳しか変わらなかった。一気に親近感が湧く。
ルーツが二つあると大変だ。たとえハーフだったとしても日本に住んでいてバイリンガルなんて簡単にはなれないだろう。康貴も相当な努力を重ねたはずだと沙羅は隣の男に感心の眼差しを向けた。
「なるほど……休みだけ会える貴重な友達って感じだったんですね」
「そう」
自分が右側に乗っているのに運転していないのが不思議で仕方ない。沙羅は運転席の康貴の横顔をまじまじと見た。
「レネは普通に君に申し訳なく思っている。初めての海外出張で一人で出すだけで異常だ。来週の展示会だけはせめて二人体制になるようにって色々画策したけど……」
「東ドイツのメッセで日本人のVIP顧客が来るわけでもなく、うちの営業を出すだけ金の無駄ですね。だったらドイツ語ネイティブの社長を自ら立たせて企業として認知してもらう方がいい」
旧西ドイツで行われる大規模な展示会ならば日本人の顧客がくる。その際には南方の日本人営業がいるメリットは大きいだろうが、今回はそこまでの規模はない。
来るのはほぼ全てドイツの顧客だろう。
「そう。察しが良くて何より。それにうちのドイツ子会社の人間は、知っての通り部署が全然別だ。呼ぶに呼べないって」
南方精密は加工機と測定機器、それから一般家庭と企業向けの電化製品を製造しているが、ドイツの子会社で製造及び取り扱っているのは部品を製造をする加工機とそれから安価な家庭用電化製品、つまり、家電のみだ。
それゆえ、駐在員も皆加工機の知識しかないのだ。沙羅の部署は部品を測ったり、検査をしたりする測定機。全然別の機械である。
今回呼んでも経費の無駄、そうトップが判断したことは沙羅も十分理解ができた。
「賢明だと思います。ど素人が来ても経費の無駄です」
「あいつも同意見だよ。そうだ、どこか寄る? そこのスーパーとか」
「大丈夫です、何かあれば駅のスーパーに行くので」
「土日はレネを顎で使うといいよ。この車、レネも運転できるように契約してるし、月曜まで借りてる。あいつは運転うまいから楽しみにしてるといい。特に縦列駐車の攻め込みったらない」
「顎で使う!? まさかそんなことは……」
(あり得ない……)
そこまでして沙羅を逃してはならない人材だと思ってくれたのか。それは確かに嬉しいが、うーん、と彼女は首を傾げた。
これは逃げるに逃げられないではないか。お家騒動が起こる前に彼女は転職しようと思っていた。
だがしかし、社長自ら引き止めに来ることはないだろう。
この時点でも、未だ沙羅は日本に帰ったら転職サイトとエージェントに登録しようと思っていた。
「とりあえず来週の
唐突に康貴がそんなことを言い始めた。ICEとは、日本で言うところの新幹線のようなものだ。ドイツの高速鉄道である。
「何かあったんです?」
「社長が座席を変えろって。普通のツーシートの座席を縦並びで予約してたんだけど、向かい合わせの席がいいって言い始めたから席を変えないと」
「……私の席も杉山さんが予約してくれるんですよね?」
「そう、だから三人でテーブル付きの向かいあわせの席。ほんと意味わかんねぇ」
列車で沙羅はレネと何時間も一緒ということだ。眩暈がした。意味がわからない。
頭を抱えたくなったが、ほどなくしてホテルの駐車場に着いた。康貴は慣れた様子で駐車場に切り返しもなく車を止め、彼とはロビーで解散した。
その後、結局沙羅は化粧も落とさぬまま、ばったりとベッドに倒れて意識を失ってしまった。予想以上に疲れていたのである。
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