第8話 噂の社員、カフェでの邂逅 side Rene

「ヤス、もっと飛ばせ」

「嫌だ。今だって百三十キロ出してるんだからじゅうぶんだろ」

「沙羅が待ってる」

「そりゃ俺だって心配だけど、でも俺たち機械のことわかんねぇんだからなんもできないだろ」

「通訳」

「専門用語もそんなわからないのに!?」


 レンタカーにて。レネはステアリングを握る康貴にもっと飛ばすように圧をかけたが、彼はこれ以上スピードを出す気はないらしい。


 アウトバーンは制限速度無制限区間がある道路として有名だが、彼の運転速度は中央レーンを走る乗用車としては標準、といったところだ。

 理想的な安全運転である。


 レネはムッとして押し黙っていた。


「レネ、あんまりあからさまにするとセクハラになるぞ。あんた今社長なんだからな? あの子は立場上、拒否できない」

「……わかってるし、そんなんじゃない」


 幼なじみのふたりは、普段の砕けた言葉遣いで話していた。


「ダイナミクスに惹かれて今度は本人って感じかァ? まぁ、ああいう頭が良くて真面目頑張り屋で超美人とまでは言わなくてもまあまあ可愛くて? で、自分に簡単になびかない女、昔っから大っ好きだよな」

「うるさい、事故るなよ!」


 レネは一喝すると、助手席のドア、窓のところに肘を乗せて頬杖をついた。いかにもアウトバーンらしい、代わり映えのない単調な景色が彼のヘーゼルの目に映った。日本の高速道路とは段違いのつまらない景色である。


 自分の女の好みを把握されていることには若干いらついたが、これだけ付き合いが長いと仕方ないと彼は嘆息した。


 当初、レネは遺伝子上の父親である健二を勇退ではなく引退させてやろうと意気込んで南方精密に乗り込んだのに、ここ最近は一人の技術員に思考の大半を奪われていた。

 そんなつもりは全くなかったのに、何故こんなことになったのだろう。


「うちの社員なんてパーツだと思っていたのにな」


 個々のパーツに宿るパーソナリティなど、レネはまるで興味なかった。彼にとっては取るに足らないものだったのだ。

 その上、工場勤務やあっちこっちの現場へ出張して作業服を着てあくせく働くブルーカラーの仕事なんて、全く美しくないとそう思っていたのに。


「レネの復讐に駆られた頭を、男として健全な思考回路にしてくれたヒガシさんに心から感謝してるよ」

「うるさい、南方の社員とどうにかなるつもりはない。無駄口叩いてないで前向いて運転してろ」

「ほんとかねぇ?」


 レネは康貴の言葉を遮るようにそう言うと続く言葉を無視し、もう聞きたくないと言わんばかりにラジオの音量を上げた。ラジオニュースのアナウンサーが、ドイツ航空、ルフトハンザとドイツ鉄道、Deutscheドイチェ・ Bahnバーンが近々ストライキを計画していると淡々と読み上げている。


 レネは雲一つない晴れ渡った空を眺めながら、初めて沙羅の姿を認識した日のことを思い出していた。

 二週間前、沙羅が本社のある丸の内に出勤した日。あの日に彼女と遭遇していなければ、今とは別の未来になっていたに違いない。


 あの日も、彼女はグレーのスーツを着ていた。


 ***


「あ、レネ、彼女だ。一緒にドイツ行く社員。あのショートカット」


 康貴に耳打ちされて、レネは手元のタブレットに落としていた視線を上げた。

 昼下がりのカフェ、十三時前。


 ランチに外に出た彼らは贔屓にしている和食店で食事をしたのち、ここ、本社ビル近くのコーヒーショップでひとごこちついていた。


 コーヒーにうるさいレネであったが、この店のコーヒーはチェーン店にもかかわらず、値段の割に悪くない。コーヒーは香り高く、ラテのミルクはコク深い。他店に比べれば寄ることの多い店であった。


 レネはできるだけあの男と同じ屋根の下にいたくなかったので、昼の休憩時間はぎりぎりまで外出しているのが常であった。


「……興味ないな。女が来るなんて面倒だ、せっかく経費でドイツに帰れるのに。俺の邪魔をしたら首にしてやる」


 ドイツ語なので彼は言いたい放題だった。康貴は「日本はそう簡単に社員を首にできないぜ?」と笑っている。レネだってそんなことは百も承知だ。


 彼はとにかく今は女なんか目に入れたくないという気分だった。

 先週は業務課のとある女性がとにかく色目を使ってきてうるさいので別室に呼んで説教して泣かれたばかりだったし、第一秘書課の女性はほとんどが彼の言うところのが手をつけた女性ばかりだった。


(吐き気がする……お盛んすぎるだろ、いい歳なのに)


「ま、顔くらい把握しとけよ。戻ったらしれっと経理でも覗きに行くか? 多分彼女、ユーロの受け取りに来たんだと思う」

「行かない。経理の隣はクソ野郎の部屋だ。近づきたくもない」


 そうは言いつつもなんの気の迷いだろうか、レネは吸い寄せられるように視線を彼女の方に向けた。


「あのグレーのスーツの?」

「そうそう」


 彼女はカウンターで店員に何かを注文しようとしていた。メニューを見て少々迷っているのか、口元に指先を当てて小首を傾げている。

 違和感のない程度に染めた、ハイライト混じりのブラウンの髪。薄いストライプの入ったグレーのパンツスーツがとても似合う女性だ。


 すらりと伸びた背筋。肩にはシックな艶感の革のビジネスバッグをかけている。

 普段、地味な作業服で機械いじりをしている女性には到底思えなかった。


「あれが例の理系女か」

「うち唯一のバリバリ外勤女性技師。先週は東北の客先で修理してたらしい」


 開発室にも女性はいるが、外勤となると話は別だ。


「もっといかにも機械オタクっぽいやぼったい見た目の女なのかと思ってたな」


 彼女は注文を済ませ、スマートフォンで支払いをすると受け取りカウンターに移動した。受け取りカウンターは、ふたりの座る席の比較的近くだ。


 彼女が耳に髪をかけると、きらりとピアスにはまった石が光った。

 オーダーした品はあっという間にできあがり「ありがとうございます」というしっとりと落ち着いた声が聞こえた。


 ドイツでは店の店員に挨拶をし、それから買い物が終われば礼を言う。誰しもが行うごく一般的なことであったが、この国で店員に礼を言っている人間はさほど多くなかった。

 店員と客は本来対等な立場なはずのに、日本だと客の態度を見るに一概にそうとは言えないのだ。


 レネにとってかなりカルチャーショックを感じる事象だった。十年以上日本に滞在しているが、こればかりは未だ慣れない。

 それゆえに、彼女の姿は彼の目にかなり好印象に映った。


(ふん、悪くないな……)


 これで自分に色目を使ってこず、前評判通り仕事もできる女なら多少は目をかけてやろうか。まずはお手並み拝見、といこうではないか。

 レネも根っからの悪人ではないのでそのようなことを考えながら、手元のタブレットをケースにしまう。


「戻るか?」

「ああ」


 康貴に問われて返事をした時だ、少し離れたテーブルから怒号が聞こえた。何かと思えば、ことの発端はわからなかったが、Domの男性客がSubと思しき女性店員を怒鳴りつけている。


 店員に何か落ち度があったのかもしれないが、ああも怒鳴るのはいただけない。周囲の客にも迷惑だし、明らかに悪質なクレーマーである。

 女性店員は何度も謝っているが、男性はなおも激昂し繰り返し謝罪を求め、ついには「Domの言うことが聞けないのか?」という一言までもが飛び出した。そしてあろうことに、彼はコマンドを行使したのだ。


(クソ野郎が!)


 バックヤードから店長と思われる男が出てきたが、彼はヒートアップする客に謝るばかりで、事態は好転の兆しを見せることもない。


 女性店員は震えて泣いていた。このようなコマンドの使用は到底許されるものではない。Subであるレネは心底その女性店員に同情し、とてもではないが黙っていられなかった。


「ヤス」

「へいへい、ちょっくら収めてくる」


 子供の頃からの親友で今や部下、名を呼ぶだけで彼は全てを察した。康貴はDomなのである。


 その時だ、パンプスの音を響かせて、例の社員がつかつかとその客に歩み寄った。


「いい加減にしろ。お前みたいなDom、真っ当なDomからすれば本当に迷惑なんだよ」

「な、なんだお前……」


 次の瞬間、男性客は彼女を見て情けない声を上げて大人しくなった。


 DomがSubを支配する際、あるいはDom同士で喧嘩をする際に威嚇のように発せられるオーラのようなものがある。Glareグレアと呼ばれるそれは意識無意識を問わず、怒りなどの衝動によって放たれる。Domとしてランクの強い者はそのコントロールに長けており、より一層力も強い。力の弱いDomならば一瞬で敵意を失い、腰を抜かすほどの威力すらある。


 だからレネはDomとしてランクが高い康貴をけしかけようとしたのだ。だが、彼女は康貴よりも強いDomだ。それはレネもすぐに気がついた。


「え、ちょっと待って、俺でも勝てない。あの子Sランク以上」


 彼女はAランクの康貴でも勝てないほどのGlareを放ったのだ。逃げ帰って掠れたように言った康貴であったが、レネはそれどころではなかった。

 彼女のGlareに当てられてしまったのだ。


 突然跳ねたように早鐘を打ち始めた心臓。彼女が睨みを効かせた瞬間、体内をぞくりと何かが駆け巡った。


 あの視線を、己が浴びたいとまで思った。こんなことは初めてだ。


「ちゃんと店員さんに謝る、ほら。さっさと支払いもして、二度とこの店に来るな!」


 男は床を這いつくばるようにしてレジに向かった。彼女はパンプスで男の尻を蹴り飛ばす。


(とんでもない女がいるもんだ……)


「おい、レネ、大丈夫か?」

「目も見てないのにこのザマなんて最悪だ」


 レネは携帯していた抑制剤を水で流し込んだ。


 ***


 車の窓から外に視線を向け、二週間前の極彩色のようなパンチのある出会いを思い出していたレネの視界に、徐々に高度を落としていく旅客機が飛び込んできた。フランクフルトは目と鼻の先。


「なあ、レネ」

「なんだ?」

「あの時のあれ見て、あのおっさんみたいに尻を蹴飛ばされたいとか思ったわけ?」

「ふざけるな、俺はそういうSMみたいなプレイは好みじゃない」


 だが、彼女に《kneelおすわり》のコマンドをもらって、見下ろされたらどんな気持ちだろうか。しばしレネは逡巡した、不覚にも。


「はぁ、お前もなかなか難儀だよなぁ。どっからどう見ても、コマンドを使う方の側にしか見えないのに……」

「うるさい」

「何がうるさいだよ。今もヒガシさんのこと考えてただろ? 隠そうとしても無駄無駄。本当病人だよな。恋の病ってやつ?」

「誰が病人だ」


 ウインカーの音を響かせながら、康貴が車線を変更した。

 アウトバーンの出口はすぐそこに迫っていた。

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