第7話 疲労困憊、突然の電話

「まっじでしんどい……」


 あれはなんだこれどういう構造なんだこの場合はどうしたらいいなどと質問が飛び交う。

 そして、母国語ではないのでいつもの3倍くらい頭が疲れる。


 しかし、母国語ではないのは相手方も一緒だ。時に身振り手振りと翻訳サイトを駆使してなんとかやりとりする。


「さすが技術大国の先鋭たちだ、違う……」


 まだ木曜だ。一昨日のうちにセットアップは終わったので、昨日はメカの調整の仕方を説明。今日は実際の操作の説明を行った。もうヨレヨレだ。時差ボケが今になってボディブローのように効いている。食事に誘われたが断った。

 ホテルに戻れば沙羅はベッドに倒れ込むほかなかった。


(もう無理……今夜はスープで済ませよう)


 昨日スーパーで買った、お湯を注げば済むインスタントのスープがある。パスタも入っているので、食欲のない臓腑にはちょうどいい量だろう。正直、食欲すらも今の沙羅にはなかったのだ。


 ベッドに仰向けに横たわり、額に手をやり考える。

 技術員の海外出張はふたりで組んでいくという暗黙の了解、あれは遵守しなければならない。


 SHの皆は悪くない。勉強熱心、向上心もある、そして、皆優しいのだ。コーヒー飲むか? 休憩するか? とこちらを気にかけ、チョコレートなどおやつをくれる。これが結構美味しかったりする。


 そして、ランチの時も気を遣ってか話しかけてくる。おそらく、あれが余計よろしくない。心が休まる暇がないのだ。


(日本語で話したい……せめて一人にしてほしい)


 あまりにもしんどかった。実家の母に電話しようかと思ってスマホを手に取る。世界時計を見れば、日本時間は0時過ぎとあった。


 沙羅の母は現役で働いている。彼女は、地元、福島の工場であの年齢の女性にしては珍しく生産管理の部門長を務めていて、同じく製造業の人間だ。人生においても仕事においても先輩。そして、今や母の所属する組織は2年前の買収により南方精密の子会社となり、東北南方精密という社名になっていた。

 こんな時に話をするには最高の人間なのだが、明日も仕事だろう。こんな時間に泣きつくわけにはいかない。


(だめだ……)


 沙羅はよろよろと起き上がった。

 妙に身体が熱っぽい、だるい。そして、彼女はこの症状の理由を知っていた。


 Domとしての欲求不満である。


 普段であれば、特になんの対処もせずとも支障はない。彼女は医師に処方された抑制剤を朝晩きちんと飲んでいたので完璧にコントロールできているはずだった。ドラッグストアでも購入できるが、病院で処方されるそれは沙羅の身体に抜群に合う上に副作用も感じない。


 そのはずだった。だが、今回は抑え込めていない。


 おそらく、疲れとストレスでDomとしての欲求が高まっているのだ。たとえば風邪などの疾患もそうだ、疲れていて免疫が落ちていれば罹りやすくなる。ストレスが溜まると、ダイナミクスの欲求は酷くなるものと相場が決まっている。


 このような状況になれば、彼女は好きではなかったが、性的な行為は抜きでプレイだけしてくれる店、サロンに駆け込んで金を払ってSubとプレイするという選択肢がある。だが、ここは異国の地、簡単にその選択ができるわけもない。


 緊急時は倍量抑制剤を飲んでいい、と言っていた医師の言葉を思い出し、沙羅は錠剤を取り出してミネラルウォーターで流し込んだ。再度ばたりとベッドに倒れ込んだ。

 気がつけば、まぶたが落ちていた。


 ***


 一時間ほど気を失ったように眠っていた。どうにか薬も効いてきたので身を起こす。窓から入る光は昼間のようだ。外はまだ明るいが、この国は日本と違い、夜二十一時近くまで明るいことを思い出して、はっとしてスマートフォンを手に取った。


「まだ七時か……ん? なに?」


 通知が来ていた。アイコンをタップすると、レネからのメッセージだった。


「生きているか? こちらは全て片付けた、明日の夕方にはフランクフルトに戻れそうだ」

「お疲れ様です。生きてます、なんとか。こちらも予定通りに進んでます」


 慌ててそう返信した。すると、間髪入れずに着信が来た。驚いてスマートフォンをベッドの上に取り落とした沙羅は、焦りながら拾って応答した。


「お、お疲れ様です。東新川です」

「余裕がなさそうだな……体調でも悪いのか?」

「しゃ、ちょう……」


 日本語が話せるというその事実だけで、涙があふれてきた。


「沙羅? 泣いてるのか? 何があった? あのクソ技術部長が何か言ってきたか?」


 沙羅は首を振った。だめだ、電話だ。きちんと口で伝えなくては伝わらない。


「ち、違うんです。仕事は、仕事は大丈夫です、順調です……」


 沙羅は必死だった。今、彼女はひとりで会社の看板を背負っていた。失敗するわけにはいかないのだ。

 レネの声を聞いたら張り詰めていた緊張の糸がぷっつり切れてしまったようで涙腺がゆるんでしまったようだった。


「何があった?」

「日本語聞いたら、ちょっと安心しちゃって……すみません」

「謝るな、今回は本当に申し訳なかった。そこまで負担をかけてしまったのはこちらの責任だ。あと一日、頑張れるか? 役に立てるかわからないが、明日の夕方以降なら便利な通訳がふたり同行できる。週末も気晴らしに出かけたいならアテンドできる。来週も張り付いてはいられないが、基本的には近くにいる」

「はい……ありがとうございます」


 沙羅は袖口で溢れる涙をぬぐった。レネの声もあまり覇気がなかった。きっと疲れている。

 そりゃあそうだろうと思った。ドイツに移動する前、彼はアメリカにいたのだ。アメリカは日本と約十二時間差、ドイツは七時間差。体内時計だってメタメタだろう。


「君はそれなりに酒が飲めるようだから、明日か明後日にでもちょっと高めの酒でも飲みに行こうか。現物支給だ。皆には内緒にするように」


 囁くように言われて、思わず笑みが漏れてしまった。


「楽しみにしてます……」

「今夜はゆっくり休め、ではな、おやすみ」


 沙羅もおやすみなさいと言って電話を切った。


 当初、関わりたくないなどと言っていた彼女であったが今は違った。

 早く、明日に。明日の夕方にならないだろうか。


 今すぐにでも会えるものなら彼に会いたい。

 そう思ってしまった沙羅がいた。

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