第5話 ドキドキの初日、ホテルの真相

 翌朝、ホテルのロビーに向かうとすぐさま先方の若い男性が迎えに来たので挨拶ののちに車に向かう。彼はシュナイダーと名乗った。


 ホテルから外に出ると、朝の清涼な空気が肺の中に飛び込んできた。

 涼やかだ、高原のような空気である。

 ああ、ここは日本ではないのだなと改めて思った。


 シュナイダーが助手席ドアを開け「どうぞ」と言ったが、レネは「私は後ろに乗る。そこには彼が」と康貴を座らせ、後部座席のドアを開けて沙羅の方を見た。一瞬とまどっているとさっさと乗れと顎を向けられた。

 普段そんなことをされたら憤慨ものだが、なんだかこの男はさまになっていて何も言う気も起きず、無言で車に乗り込んだ。


(隣か……)


「グレーのスーツか。似合ってるな」

「ありがとうございます、社長もいい色のスーツですね」


 彼のスーツはグレーブラウンっぽいアースカラー。実年齢よりも落ち着いて見えるが、薄くストライプが入っており若々しくスマートにも見える。

 写真を撮りまくって事務の小森に見せてあげたいくらいには格好いい。


(ブロマイドとか売れば一儲けできそうだなぁ)


 普通にビジネススーツのモデルとかできそうだ。隣にそんな男が座っている意味がもはやわからない。


 走り出して早速、右側を走行しているので違和感を覚えた。沙羅は窓の外を覗く。路面電車、確かヨーロッパではトラムと呼ぶのであったか、それらが往来を行き交っている。

 沙羅は広島や富山に出張した時はレンタカーで路面電車とドキドキの並走をしたことがあったが、走行する車両の量が違う。壮観である。彼女は興奮を隠せなかった。


 隣のレネが後部座席のど真ん中に手をついて、沙羅の方に乗り出してきた。


(近いってば!)


 お綺麗なご尊顔が近くに寄ってきた気配を背後に感じ、沙羅は内心びくついた。


「ヨーロッパに……ドイツに来たのは初めてか?」

「初めてです。海外は旅行で行った台湾だけです」

「そうか、なら見るもの全て目新しいだろうな。土産を買うならスーパーに行くといい。あそこに見える、Reweレーヴェは大手スーパーマーケットチェーン、間違いない品揃えだ。あとはRossmannロスマンDMデーエム、こちらはドラッグストアだ。女性向けの土産ならクナイプのバスソルトとか、ヴェレダのハンドクリームやオイルなんかが日本より安く買える。下手したらヴェレダは本国スイスより安いかもしれない。他にはハーブティーもありだな」


 すらすらと女性向けの商品名が出てくるので沙羅はびっくりして後ろを振り向いた。

 めちゃくちゃ近くに顔があった。色味が薄めの眉は綺麗に整っており、長めのまつ毛がセクシーだ。


「社長もそういうの買うんですか?」

「秘書や総務にばら撒くんだよ! 僕も営業事務の同期にジンジャーレモンティーを買ってこいって言われてる」


 康貴の声が飛んできた。


「ご機嫌取り、というやつだ。あとは菓子類も買わないとな。郊外の大きなスーパーに行きたいなら来週にでも一緒に行こう。案内してやる」

「社長はこう見えて買い物好きな男なので便利な翻訳機として連れ回して大丈夫。僕は勘弁なのでパスします」

「お前は一人で酒でも飲んでろ」

「社長命令で飲みに行くんで、経費使ってもいいですか?」

「ダメに決まってるだろうが」


 二人はそう言いながら笑っていた。沙羅は思った、この二人、きっとプライベートでも付き合いがありそうだ。それくらい仲がいい。

 八王子の工場に来た時も漫才していたし、おそらく間違いない。


 二十分ほど車を走らせると、取引先、シュレーダーアンドハーン社、南方社員の言うところの通称、SHエスエイチに到着した。日本とドイツの国旗が上がっている。


「これを裏切らないようにしなきゃ、ですね」

「あまり気を負うな。仮に何かあっても技術員一人で送り出すことになってしまったうちの管理職とひいては私と会長の責任だ。肉体的、精神的な負担を考慮し、海外出張に人を送り出すのは基本二人以上と社内の暗黙の了解で決まっている。小難しいことになったら全部私に責任を押し付けるといい」


 沙羅はびっくりして隣の男を見上げた。

 そこまで言ってもらえるとは思ってもみなかったのだ。


 確かに、最新リリース機のハードとソフトウェア、未だ販売実績がほとんどないのでどちらも触れるのは沙羅と課長と係長の三人だけだった。


 沙羅は散々他の面々に覚えてもらわなければ大変なことになる。三人とも病気とかで入院したらどうするんですか! と係長と課長、最終的には部長との面談時も進言したのに、余裕がないと聞き入れてもらえなかったのだが。


「昨晩森山から電話があった。君を心配したようでな。君は何一つ非はない。まずもってこの状況に抗議したら、あいつ私に謝ってきたぞ。沙羅の進言を突っぱねて講習会を調整せず、三人しかまともに使える人材を用意しなかった自分が全て悪いとな」

「部長は普通にいい人ですよ。いつも忙しそうですけど」


 森山とは、沙羅の所属するアフターサポート部門の部長である。


「森山の謝る相手は私ではないが、きちんと自分の非を認めるのは悪いやつではないな? まあ、これはチャンスと前向きに捉えるといい。今回の件で君の社内での立場は確実に向上する。きっとやりやすくなるだろうな」


 これ、絶対部長に説教したんだろうなと沙羅にも容易に推測できた。尊大な態度とオレ様具合がはなはだしいが、きめ細やかなフォローは欠かさないし、結構いい人な気配もする。


 昨日までうんざりしていたが、今回、ここまで自社の社長と話せる関係になれたのはよかったのかもしれない。社長と会長のパワーゲームにだけは巻き込まれたくないが。

 転職という言葉が脳裏から徐々に薄れ始めてきた。


 エントランスから足を踏み入れると、大型モニターに何か記載があって、南方精密のロゴが記載されていた。日本語で「ようこそ」と書かれている。


Willkommenヴィルコメン、そのまま、ようこその意味だ」


 再びの熱烈大歓迎っぷりに沙羅は恐縮した。


(ウェルカム、か。英語とやっぱり近いんだな)


 シュナイダーに案内され、大型スクリーンの設置してある会議室に通された。これから向こうの社長やお偉いさんが続々来るらしい。今日のご縁は、社長就任挨拶がメインである。自分は完璧にお飾りだ。


 沙羅が作業服ではなく、この日スーツで来た理由はこれである。

 まず、マネージャークラスの人間が出てきた。彼はシュミットと名乗った。互いに挨拶を交わしたところでレネが一言、沙羅に向かって小声で日本語を発した。


「ホテルの件は正式に抗議しておくか」


 ここから、彼は先方のマネージャー、シュミットとドイツ語で話し始めたので沙羅には全くもって理解不能なターンに陥ったが、途中で先方の顔色が変わった。申し訳ないと一言こちらに英語で謝罪をくれたのち、どこかに連絡を取っている。


「大変申し訳ない。事務員がではなく、の似た名前のホテルを取っていたようだ」


 康貴が「あちゃー」と言った。

 レネは盛大にため息を吐き「彼女に日本語で説明する」と英語で言った。


「オーダーってなんです?」 

「フランクフルトには今滞在しているフランクフルト・アムマインと、また別の街、フランクフルト・オーダーがある。事務員が間違えてオーダーにある似た名前のホテルを予約していたようだ」


 ああ、同名の街があるのか。なるほど事情は理解した、そう沙羅が思っていると、康貴が呆れたように言った。


「オーダーのホテル取るとか、それ本当ドイツ人かよ?」

「意味がわからん。断定はできないが、移民の事務員だろうか……災難だったな沙羅」


 その後、やってきた幹部もその場の異様な雰囲気を感じたのかシュミットと何かを話し事情を把握、あいさつもそこそこに平身低頭謝ってきた。


(欧米人ってあんまり謝らないんだよね!?)


 さすがの沙羅もフォローに回った。でも向こうが慌てるのもわかる。今回は社長の就任あいさつも兼ねている。

 レネの顔を潰すわけにはいかないと考えているのだろう。


「社長が広くていい部屋を取り直してくれたので、問題ないです」


 拙いながらも英語でそう言った。咄嗟の言葉が出てこない。だが、向こうも結構聞き取りやすい英語を話してくれる。

 お互い、英語が母語ではないのでなんとかやっていける気がした。


「彼女もそう言っています。では、この件はここまでにしましょう、あと、ここからは私ともできる限り英語でお願いします」


 レネはそう言うと康貴に目配せした。彼は日本からの土産を取り出した。

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