第4話 遥けき昔、舞姫騒動

 ホテルの部屋は超豪華だった。沙羅が五人くらい眠れそうな意味不明なほど大きいキングサイズのベッド。窓からの眺望は最高。沙羅は無駄に写真撮影した。

 ベッドの脇には謎の寝椅子だかソファもどきのようなものもある。後から、これの名称がカウチソファであることを知った。


 PC作業をするにもよさげなデスクも備え付けてある。沙羅はとりあえずスーツケースを開けた。


 時計を見れば、約束の時間まで一時間半ある。


 歯も磨きたいしとりあえずシャワーを浴びよう。髪もショートカットだから急げば乾くはず。


 沙羅は着替えを用意してシャワールームに飛び込んだ。

 備え付けのアメニティは小さなボトルに入って個包装になっていた。シャワージェルも、シャンプーも甘すぎずオリエンタルな香り。もう何時間ぶりのシャワーだろうか、最高だ。


 沙羅は暖かなお湯を全身で受け止めながら、先日出国前、再雇用の長老たちに聞いた社長と会長の噂をふと思い出し、頭の中で反芻していた。


 これ以上はあの男には絶対に関わりたくないと切に願いながら。


 ***


「ヒガ、壮行会してやるよ」

「行こうぜ行こうぜ、ぶちょー様から領収書切っていいって言われてる」


 飲み物を傾ける仕草をしながら言った、アフターサポート部門の長老と元名古屋支店営業部長を務めた再雇用の長老たち。


(ええ〜飲み?)

 

 木曜から飲みに行こうというのか、この御大たちは。

 でも、未だ男社会である製造業は、たばこの場と酒の場で色々な物事が決まり、社内情報を交換する重要な場になりうる。行って損はない。


 まあ、自腹を切らない飲みの場ならば構わないか。ふたりともべらぼうに酒が弱いおじさまたちだ。

 彼らは沙羅のことを娘のように可愛がってくれるし、最後「もう十時なので帰りたいですぅ!」とか言えば帰してくれるだろう。週末はフライトであるし。


「飲みっすか。経費ならまあ、行ってもいいですかねぇ〜?」

「ヒガ、もうちょっと嬉しそうにしろよな?」

「ええ〜? 私週末から飛ぶんですよ?」


 意地悪げに言ってみれば、おじさまズは目に見えてしょんぼりしたので、沙羅は必死でフォローに向かった。

 だが、彼女は知っていた。こづかい制のふたりは、なんとしても会社の金で飲みたいのである。かくして三人は職場の近所の行きつけの居酒屋に向かった。

 十八時過ぎ、夕方六月の空は、意外にも真夏のように晴れやかだった。


「ヒガ、知ってるか? 舞姫騒動ってやつ」


 居酒屋の座敷席にて、再雇用御大、安田がビール一杯目で頬を赤くして言った。 


「ええ、それ言うのか?」


 そう反応したのはかつて名古屋工場長で生産管理部長を務めていた山川だ。


「これから多分うちは荒れるぜ? それじゃあなくてもヒガはあの若様とドイツ行きだろ、かわいい後輩ちゃんに言っといてあげようぜ」


 なんだなんだ? 沙羅はビールが半分残っている中ジョッキを口元からテーブルの上に戻し、前屈みになって完璧に聞く姿勢を取った。

 飲み会は、得るものがなくてはなんの意味もない。


「なんですかなんですか? 社長の話?」

「健二が……会長な、あいつ、俺らとタメだろ。昔は色々つるんだりしてたんだけどよ、昔っからあいつは女好きでさ、あいつは早々に家庭を持って長男も生まれてさ、そんな時にドイツ武者修行に行かされた」

「駐在してたらしいですよね、ドイツに」


 現会長である南方健二は、その名前の通り、南方精密の創業者一族だ。

 婦人は、代々不動産業を営む家で生まれ育ったいわゆるお嬢様。会長は結婚して子供も産まれたのちにドイツで駐在員をしていたと聞いたことがある。


(あれ、その不動産業のおうちの奥さんって日本人? だよね?)


 沙羅は今更矛盾に気がついた。


「で、やつは向こうで独身のふりしてひとりのドイツ人の女の子、確か日本語の先生だったかなぁ。当時は大学生か? 金髪で青い目の美人とできちまった」


 ということは、会長の妻と新社長の血は繋がっていないのか? 沙羅はびっくりして押し黙った。

 会長、驚くほどのクズ野郎ではないか。


「で、その金髪美人があなたの子よっ! って日本に押しかけてきたんだ、俺らの世代は舞姫騒動って呼んでる。でも知らぬ存ぜぬで帰らせたんだよなぁ?」

「最低すぎる……リアル森鴎外の舞姫じゃないですか、ドイツだし」


 沙羅の独り言のようなつぶやきに、御大ふたりはうんうんと頷いた。


「普通だったら嫁さんと離婚とかしてたかもしれないけど、そういう時代じゃないし、あの頃、健二がきっかけを作って、ドイツのSHと提携を始めたうちの会社は爆売れだった。丸の内の本社ビルは健二が建てたと言っても過言じゃない。一族なのに仕事ができるってなって界隈ではちょっとした騒ぎだった。当時は、そのドイツ人の子を認知せずに追い返して事態は収束したんだ」


 SHエスエイチこそ、沙羅がこの度訪問するドイツの提携先だ。

 饒舌に語る安田、それに山川が被せた。


「でも、正妻との間にできた長男、ポンコツバンドマンでさ。うちに入社したけど結局すぐに辞めちまった。辞めただけならまあよかったんだけど、5、6年前かな? お水のお姉ちゃんと勝手に結婚して、奥方がマジギレして半ば勘当」

「なんかこう、典型的なボンボンって感じですね……そんなことがあったなんて初めて聞きました」


 呆れたように言ってみたが、沙羅は実のところワクワクしていた。おじさんたちと飲み会するなら、こういう普段は聞けないスキャンダラスな話は最高のつまみである。

 ビールを傾け、エイヒレをつまんだ。


(あるんだ、こういう昼ドラみたいな話っ!)


「で、颯爽と現れたのが高校出てから日本来て大学の法学部出て、こっちでイケイケの銀行員していた若様よ。健二はうちを継がないかって猛アタックした、頭を下げに行って今更ながら認知した」

「はぁ? 今更遅くないですか?」

「俺もそう思う」


 山川は神妙な顔をして頷いた。


「で、今に至るんだよなぁ?」


 安田は残っていたビールを全て飲み干して、店員を呼びつけて「生中三つ!」と注文した。沙羅は慌てて残っていたジョッキを傾けた。


「健二は若様のこと、頭はいいし顔はいいし、自慢の次男みたいに今や言ってるけど……おれは思う、絶対に若様は健二を許してない」

「おれもそう思う。表面上はうちで仕事してるけど思うところはあるだろうな、評判もいいし、最近儲かってるし、すっごく経営センスあると思うけどよぉ」

「だよなぁ……技術力と知識は宝だから評価しないとって再雇用メンツにも賞与あげなきゃダメだって言ってくれたの、若様らしいし。だから感謝はしてるけど」


 ふたりの会話にうんうんと頷きながら、沙羅は思った。頭は良さそうだし、ちゃんとまともっぽい。でもこのままでは絶対にお家騒動まっしぐらだ。社長とはできるだけ距離を取ろう。


 ***


「沙羅、何にする? せっかくだからドイツっぽいものにしておくか?」

「はい、せっかくなので……」


 社長であるレネに問われて、沙羅は力なく答えた。シャワーを浴びたからか若干の眠気に襲われていたのだ。

 レストランでの会話であった。なんとかケラーとかいう地下にある店に来たのだが、謎にやたら世話を焼かれて、沙羅は磔にされた奴隷のようなありさまであった。


 ドアも絶対に沙羅には開けさせないし、車道側も歩かせないし、生粋の日本人である彼女はどう振る舞えばいいかわからなかった。レディーファーストとかいうやつである。


 これから、この社長の体制になって南方はどうなってしまうんだろうかとふと思った。育った文化圏も違えば、きっと労働に関する考えも違うだろうし、何より会長である健二と一悶着あるに違いない。


(お家騒動とか絶対嫌だ……日本帰ったら転職サイト登録しよう。この前電話かかってきたヘッドハンティングの話ちゃんと聞けばよかったっ!)


 だが、そうは簡単に入れない大企業南方精密の正社員という立場を手放すのは惜しい。沙羅は黙りこくって考え込んだ。


 レストランは薄暗くて、洞窟のようで雰囲気抜群だった。

 テーブルの上にはキャンドルの炎が怪しく揺らめいている。 


「じゃあド定番ですが、シュニッツェルとか?」


 杉山がメニューを片手に言った。


「それはありだ。あとはそうだな、写真映えるのにするならシュバイネハクセ? 個人的に好きなのはザウワーブラーテンだが」


 この男たちは、一体何を言っているんだろう。ドイツ料理なんて全く下調べをしてこなかった沙羅はか細い声を出した。


「全然わからないのでおすすめで……」


 目の前の男たちは目を合わせた。杉山が言った。


「社長に任せます」

「ならば、やはりザウワーブラーテンを勧める。少しビネガーの風味がするが」


 面倒くさくなった沙羅は口を開いた。


「それにします!」


 ビールで乾杯したのち、恰幅のいい女性が給仕してくれたそれは、見た目赤身の少々厚めのスライスされた肉だ。よく火が通っていそうなそれが三枚皿の上に乗って、ブラウンのソースがかかっていた。聞くところによると牛肉らしい。付け合わせはマッシュポテトである。


 絶対この肉硬いだろ。この赤身肉に火を入れたら絶対に硬いだろ。そう沙羅は思って、でも出てきたので覚悟を決めるかとナイフを入れた。意外にさくりとナイフは刺さった。

 口に運ぶ。


(あれ、結構柔らかい……)


 ほのかに甘酸っぱいような味がする。もぐもぐと咀嚼して、目の前に座るレネ、社長のはしばみ色の目を見た。

 彼は口に合うかどうかと思っていたのだろうか。沙羅の様子を伺うような目を向けていた。


「美味しいですね! すっごく柔らかくて」

「マリネ液に漬け込んでるから柔らかい。結構手間もかかっていて家で作るのは面倒だから、外食として私は結構好きだな。気に入ったならよかった、ビールにもワインにも合うしな」


 そう言って、彼は口元に笑みを刻んでビールを口に運んだ。

 沙羅はどぎまぎして手元の食事に意識を集中した。

 イケメンの笑顔は、長距離移動を経て疲れ切ったこちらの心臓にものの見事に突き刺さるのだなと思った。


 

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