第3話 異国の洗礼、ホテル事件

「遠すぎでしょ……」


 沙羅は先日購入したばかりの大型スーツケースを手に、うんざりして言った。

 直行便でも十三時間にも及ぶフライト。来て早々、二度とヨーロッパなんて来るかと思った。


 フライトを振り返れば、機内食を食べ、早々に寝落ち、覚め、そろそろ着くかと思えばまだモンゴルあたりの上空を飛んでいた。絶望した。

 その後は映画を見るのにも飽きて、最後ずっとテトリスをしていた。正直、もう一生テトリスはしたくない。


 スマートフォンの電波が入ったので到着報告をしようとすると、社内で利用するチャットアプリに友人申請が来ていた。


「社長……」


 Rene Minakataと書いてあった。どこからどう見ても社長である。慌てて申請を受けると一瞬でメッセージが来た。


「そろそろ到着したか? ホテルのロビーで仕事をしながら待っている」


(ぎゃぁぁぁぁ!)


 沙羅は内心悲鳴を上げた。無事にアメリカから移動も済んでいるようだ。まじですか? ロビーにいるんですか? ありえない。沙羅は絶望した。

 このほぼどすっぴん状態、見てくれより移動用のゆったり感を重視したこの服装のこの姿を見られるのか。ありえない。


 粉になって消えたい。


 沙羅は絶望した。だが腹を括ってホテルに行ってチェックインするしかない。腕時計を見た。十時だ。おかしいと思ってスマホを見た。夕方の五時だ。時差である。頭が爆発しそうだった。

 沙羅は覚悟を決めた。


 確かホテルは近くだ。スマホの地図アプリを開き、あらかじめ入力しておいた住所を呼び出した。


 これから訪問する取引先が予約してくれたホテルだ。七百メートルくらいしかないから歩くことにする。取引先とのやりとりをしていたのは出張に来られなくなった係長である。

 沙羅はため息を吐いた。社長であるレネが待っている。急がなければ。


(ああ本当に嫌だ……転職しよ)


 大体、この社長自体あり得ないのだ。幻滅した。

 南方精密はもちろん南方という男が創業した企業であるが、二人目の社長はファミリーではない。そして先代であり現会長の健二が四人目の社長になった。彼が優秀だったからだという。


 そんな彼が、異国育ちの三十代の息子をいきなり抜擢するその神経がわからない。それを受ける神経も理解しがたい。


「ないわ……」


 沙羅は足を急がせた。

 スーツケースが飛び跳ねる、ガッタガタの石畳に悪態をつきながら。


***


「ここか!」

 

 沙羅はようやっとホテルに辿り着いた。モダンでありつつシックでもある。入り口は自動ドア。

 覚悟を決めて足を踏み入れた。


(いた……! 近寄りたくない) 


 細身でどことなく中性的でありながら、よくよく見ると肩幅もあって、やっぱりかなり格好いい男である。


 とまどって立ち尽くしていた沙羅を社長、レネは手招きで呼び寄せた。

 手のひらが上を向いている手招きだ。ほとんど指先で呼ばれたと言っても過言ではない。なんだかムカついた。

 彼のお付きの秘書である康貴もいた。ふたりともノーネクタイにジャケットを羽織っていた。


「お、お疲れ様です……」

「お疲れ、ヒガシさん」


 康貴に小さく手を振られた。沙羅はぺこりと会釈した。 


「長距離フライトご苦労。荷物を見ていてやるからさっさとチェックインを済ませてくるといい」

「ありがとうございます」


 沙羅が礼を言うと、レネはぱたりとノートパソコンを閉じた。

 巨大スーツケースから解放され、身軽になった沙羅がレセプションに向かおうとするとふと後ろから呼び止められた。


「今夜、レストランを予約してある」

「はい……?」

「まあ期待しすぎず楽しみにしておけ、初日だからドイツ料理にした」


(今夜くらいひとりでゆっくり食べさせてくれませんかね……)


 ここに来る前に駅などにあったそこら辺のパン屋とかでいい。

 あれだってじゅうぶん美味しそうだ。きっと明日以降はひたすら先方に連れ回されての食事だろうから。


「……とりあえず、チェックインしてきます!」


 沙羅はレセプションに向かってとりあえずチェックインすることにした。そしてまたもや絶望することとなった。


「名前が、ない……?」


 残念ながらあなたの名前は予約されていない。そう無慈悲に告げられた。英語を聞き間違えたのではないかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。


 沙羅は混乱した。男性陣に助けを求めるしかなかった。


「杉山さんっ!」


 後ろを振り向き必死で助けを求めた。こちらをちらりと見た康貴はなぜか向かいのレネに視線を向ける。

 すると、レネはうんざりしたように、もったいぶったような仕草で腰を上げた。


(なんでそっちなの!?)


 気だるげに髪をかき上げながらゆったりとこちらに歩み寄ってきた。その姿は、ランウェイを歩くモデルのようだ。目が潰れそうなくらいイケメンである。いい加減にしてほしい。

 

「チェックインも自分でできないのか? 君は優秀だと聞いていたが?」

「え、え、社長、いやあの……」


 しどろもどろの沙羅を無視して、彼はレセプションの女性とドイツ語で会話を始めた。


「予約がないらしいぞ?」

「なので困ってるんです……」

「予約したのは誰だ?」

SHエスエイチにお願いしました。やりとりしたのは係長です」


 SHは明日から訪問する提携取引先。正式名称はシュレーダーアンドハーン社。先方にホテルの予約を依頼したのは係長で、その係長から転送されたメールをスマホに映して彼に見せる。


「ホテル名は確かにここだな。でも予約されていないなら仕方ない、取り直す。パスポートを出せるか?」


 結局レネはスマートにホテルを取り直してくれた。


「喜べ、空いていたのは出張規定より高い部屋だ。私の部屋と同じグレードだぞ」

「それ、私、怒られません?」


 欧米出張のホテルは現在の物価やレートを考慮し、一泊二万程度が相場と規定にあった。


「社長がOK出しているのにダメってことはないだろ? 社長、経理には私が連絡しておきます」


 康貴にも言われて押し黙るしかない。確かに、支払いをしたのはレネ。彼の会社支給のカードだ。

 三人でエレベーターに乗った。沙羅のスーツケースを颯爽と転がしているのはレネである。確かに重いからありがたいのだが、いい加減にしてくれないだろうか。


「パープルのスーツケースか、目立っていいな」

「あ、ありがとうございます……」

  

 そう言う沙羅の声は覇気がなかった。

 自分の部屋のある十階に到着すると、皆揃って降りた。


「社長、どちらの部屋なんです?」

「一〇〇三」


 叫びたくなった。沙羅は一〇〇四号室、隣である。


「では、十八時四十五分にロビーに。カジュアルなビアレストランだ。ジーンズでも構わない」


 彼は沙羅にスーツケースを返すと、自室にカードキーをかざしながらそう告げ、部屋の中に消えていった。

 

 

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