第56話 不死神の眷属メムシス 1

 エヴァンを取り込んだ、強大な穢れの怪異。

 天に上っていく黒い霧の奥から、その全貌があらわとなる。


 痩せさらばえた巨体は鈍い灰色。

 そのかおはまるで人骨のように眼孔と口腔だけが空洞になっており、そこから呼吸するようにしゅぅしゅぅと音を立てながら、乾燥した空気を出し入れしている。

 頭部からは無数の触手が、まるでたてがみのようになびく。

 骨と筋の繊維だけで形成されたような、おぞましい腕。その骨張った灰色の手には、巨大なかぎ爪。

 巨大な腕に対して、小さく頼りない脚部。


 ――穢れの怪異。

 生物の基本的な構造からはかけ離れた異形。


 肩で息をしながらルイスが言う。


「この状況で……これとやるのか?」


 ルイスもアリアも満身創痍、システィナだって怪我をしている。

 神花の霊薬もない今の状況で、穢れの怪異と戦うのは危険すぎる。

 だが、それよりも。


「エヴァン……エヴァンはどうなったの?」

「わからない。あの怪物に取り込まれたように見えたが」


 命が尽き、黒い霧となって消えようとしていた狩人の男は、突如とつじょとして目の前の怪物へと変化した。

 いったい何が起こっているのか。混乱するアリアたちの眼前を、白い光が不意に明るく照らした。

 無数の真紅の花弁に混ざって、白く輝く大きな花弁が、ひらりひらりと舞い落ちてくる。


「これは……アウラの花弁?」


 巨大な怪物がにじり寄ってくる中、アリアは花弁に手を伸ばした。




『――オースアリア』


 視界が白く包まれる中、幼い少女の声が聞こえてきた。


「フローリア……」

『アリア。よかった……やっとあなたとコンタクトを取ることができました』


 聖花のある場所を中継地点にしながら、フローリアの指示に従って星見の山脈を進んでいたその途中に、崖から落ちてしまったのが前日の昼頃だ。

 フローリアからすると、それまで小刻みに行っていたアリアからの連絡が急に途絶えたことになる。


「心配かけてごめん。いろいろとあって……聖花を探している余裕がなかったんだ」


 そして余裕がないといえば、穢れの怪異を目の前にした今もまさにそういう状況である。


「だから今、フローリアと話をしている時間もなくて……私を現実に戻してくれる?」

『周囲の状況から、ある程度は把握しました。ご安心ください。あなたがこの空間にいる間、ファウンテールの時間は止まっていますから』

「そうなんだ。よかった……」

『アウラの花弁を使ってわたくしがあなたとコンタクトを取れる時間には限りがあるので、悠長にはしていられませんが』


 もし時間が止まっていなかったら、怪物の目の前で魂が抜けた状態になっているアリアはすぐにやられてしまうだろう。


「でも、前回は私が目覚めるまでタイムラグがあったみたいだけど」

『それは、アストリアの光景をあなたに見せていたからです。……時間を止めたままでは、あなたの魂がアストリアに出向くことはできませんから』


 なるほど。ひとまず少し時間の猶予があるのなら、今のうちにフローリアにいろいろと尋ねておくことにする。


「あの怪物は、いったい何なの? エヴァンはどうなったの……?」


 まくし立てるようなアリアの質問に、フローリアが冷静な口調で答える。


『前後に何があったかは、わたくしは把握していませんが――。あれはメムシスという名の、強大な穢れの怪異です。もともと滅びかけの存在でしたが、どうやら大きな力を持った一人の人間の魂を取り込むことによって復活したようです』

「取り込んだ……エヴァンを?」

『わたくしはエヴァンという人物を存じませんが、おそらくは推察の通りでしょう』


 そこでフローリアは、少女のような可愛らしい声を少し低めた。


『メムシスは……ある邪神の寵愛を受けた、“特別な穢れの怪異”のようです』


 邪神。エヴァンの話の中にも、その名が出てきた


「不死神カカロス……」

『知っていたのですね。その通りです――わたくしたち“ことわりの神々”と敵対する存在――不浄なる神です』


 神の寵愛を受けているということは、アリアのように加護の力を得ているのかもしれない。

 だとしたら、通常の穢れの怪異より手強い相手になるだろう。


「ねえフローリア……エヴァンを、助けることはできないの?」


 一縷いちるの望みを賭けて、アリアは尋ねた。

 できることならエヴァンを救いたい。もう手遅れかもしれないけど――助けられないにしても、せめて取り込まれた魂だけでも解放してあげないと。

 こんな最期は悲しすぎる。


『浄化の力を使えば……あるいは』

「浄化の力?」

『……二枚目のアウラの花弁を手に入れたあなたに、わたくしは新たな加護を授けることができます』


 白い空間の中で、アリアは小首をかしげた。

 一つ目の「アウラの花弁」を手に入れたとき、アリアは「生命の加護」を得た。

 今回も授かる加護を選べるのだろうけど、その中にエヴァンを助けるための力があるのだろうか。


『わたくしが新たに授けられるようになった、いくつかの加護。そのうちの一つが、浄化の力です』

「それは、どういう力なの?」

『人に宿る穢れを少しだけ浄化することができます。また、剣に浄化の力をまとわせることができれば、ダムドや穢れの怪異に対しての有効打となるでしょう』

「その力を使って、メムシスを浄化すればいいの?」

「はい。穢れの怪異に吸収された魂を解放することができるでしょう」

「そっか。よし……!」


 希望が見えてきて、アリアは思わず目の前で拳を握りしめた。

 だが、フローリアの声は少し沈んでいた。


『ですが、それが成功する可能性はほとんどありません……。なぜなら、今のわたくしが授けることのできる浄化の力は、とても弱いものだから。……メムシスのような強大な存在を消し去れるほどの力を、わたくしはあなたに授けることができないのです』


 方向性はいいけど、威力が足りない。


『わたくしに、もっと神としての力があればよいのですが……』

「でも、助けられる可能性はゼロではないでしょう?」

『……メムシスとの力の差を考えると、限りなくゼロに近いです』


 フローリアから、小さくため息を吐くような気配がした。


『今回、わたくしはあなたに三つの加護を授けることができます』

「三つも?」


 前回と同じように、もらえる加護は一つだと思っていた。

 三つも選べるなら、そのうちの一つに浄化の力を選んだとしても、残る二つの加護でかなり強くなることができるだろう。


『それでもわたくしは、あなたに“浄化の力”を選択することを勧めることはできません』

「どうして?」

『それは……これからあなたの成そうとしていることに対して、あまり意味がないからです』


 フローリアは淡々と説明する。


『あなたの旅の目的は、アウラの花弁を集めることで、この世界のすべての穢れを浄化することです。その過程で小さな浄化の力を得たとしても、あまり役には立たないと考えます』


 根本から治療しようとしているのに、対処療法的なことをしても意味がないということか。


「そっか……」


 アリアはおとがいに指を当てて考え込んだ。


 ここで自分は、何を捨てて、何を選択するべきか。


 考えてみたけど――。


 結局、アリアの答えは一つしかなかった。


「フローリア、私に『浄化の力』を授けて」

『いいのですか?』

「――正しい選択が何かってのは、誰にもわからないよ」


 それなら。


「だから、こういうときは、その時に一番必要なものを選ぶのがいいと思うんだ」


 このアウラの花弁は、きっとエヴァンが最後にアリアにたくしてくれたもの。

 未来を切り開くための力。

 ならば、それをエヴァンを助けるための力として使ってもいいと思う。

 たとえ上手くいく確率が、限りなく低くても。


『わかりました。一つ目の加護として、あなたに浄化の加護を授けます』

「ありがとう、フローリア。残る二つも選ばせてもらうね」


 加護とその効果が書かれた文字列が、目の前に浮かび上がる。

 今回選ぶことのできる加護のリストだ。アリアはその中から、できるだけ今後の旅に活かせそうなものを探す。

 一つは、すぐに決まった。


「『力の加護』にする」


 身体能力が戦いにおいて重要なことは、先ほどの戦いでも思い知らされた。

 だからこそ、アリアにはわかりやすい力が必要だった。

 そして、もう一つは。


「魔力の加護」


 すぐに役に立つかはわからないけど、剣術と魔力を合わせた一撃である「魔力撃」がアリアは気になっていた。

 これから練習することで使えるようになるかもしれないし、このメムシスとの戦いでも、何か役に立つかもしれない。


『わかりました。女神フローリアの名において、あなたに加護を与えます』


 心の奥底から力が湧いてくる感覚がした。

 神の加護がアリアに宿ったのだろう。


「……それじゃあ、まずは目の前の問題をどうにかしないとね」

『はい。……アリア、どうかご武運を』

「うん」


 視界を覆っていた光が晴れ、体の感覚が戻っていく――。




 闇の中、真紅の花弁が舞う。

 目覚めると、目の前には怪物が迫っていた。

 メムシス。静かな重圧を放つそれは、エヴァンの体に宿っていた「穢れの怪異」。邪なる神の加護を受けた強力な個体だ。

 その圧倒的な威圧感に、システィナとルイスがわずかに後退する。


「恐ろしい力です……おそらく、二年前に村を襲ったときよりも強くなっています」

「邪神カカロスの使いということか……さすがに分が悪いか……?」


 ダメだ。ここで怯んでしまったら、エヴァンを助けることはできない。

 彼の魂を救うためにも、逃げるわけにはいかない。

 アリアは剣を構え、一歩前へと踏み出した。


「二人とも……力を貸して!」


 システィナが疑問の表情を浮かべる。


「ど、どうするのですか?」

「あの怪物を……メムシスを倒して、エヴァンの魂を助けるの。お願い!」


 その言葉を聞いたシスティナの瞳に、強い光が灯った。


「彼を助ける……」

「うん。もう手遅れかもしれないけど、せめてその魂だけは解放してあげないと……!」


 杖を握りしめて、システィナは強くうなずく。


「はい。お義父さんを……救うことができるのなら、私は戦います」


 たとえ、その魂だけでも。

 隣でルイスも、ふっと小さく笑い声を漏らした。

 傷だらけの体で。


「……わかった。付き合おう!」


 三人は、互いにうなずき合った。


 おぞましくも強大な穢れの怪異メムシスは、空洞となった口から漆黒の瘴気を吐き出す。

 同時に、びりびりと痺れるほどの重圧が発せられる。咆哮しているのだ。敵と認めたアリアたちを威嚇するように。

 同時に周囲には紫黒色しこくしょくの稲妻が雷鳴とともに吹き荒れ、落雷の衝撃で真紅の花弁が月夜に舞う。

 凄まじい力の奔流だった。

 残る力の全霊を賭けた死闘が始まろうとしていた。

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