第45話 暗沼の猟犬 1

「避けろ!」


 エヴァンの発した声が聞こえる直前に、アリアはその場から退いた。

 ガチン! と魔獣の歯が噛み合わさる。獲物を取り逃がした角の魔獣は、金属を引っ掻いたような音の混ざった唸り声を上げながら、赤く光る目でアリアたちを睨みつけた。


「速いな。こういう手合てあいは厄介だ」


 エヴァンの言葉の通り、魔獣はその大きな体に反して想像以上に機敏だった。

 速く動けるということは、それだけ力も強いのだろう。

 おそらく噛みつかれたら命はない。


「アリア。お前は下がっていろ。危険だ」

「でも……」

「戦うなとは言わない。自分の身を守ることに専念しろ」


 それは、戦うなってことでしょう。そう心の中で反論しながらも、アリアは大人しく身を引いた。


 自分の身を守るようにエヴァンが指示したのは、アリアのフォローに回ることが困難だと判断したからだろう。

 悔しいけど、エヴァンはアリアよりも強い。それは先ほどの牙山羊との戦いでわかったことだ。異世界転生したばかりの女子高生と、おそらく熟練の狩人とでは、戦いにおける経験や練度が違う。


 エヴァンは黒いコートをなびかせながら、まるでダンスをするようにステップを踏んで、素早い動きで襲いかかる魔獣の攻撃を回避する。

 鋭利な歯が虚空に打ち鳴らされ、硬い爪が空を切る。


「――そこだ」


 すれ違いざま――。

 エヴァンの持つ鉈のような剣が、穢れの怪異である魔獣の体を捉えた。

 がつん。と、鉄と骨がぶつかり合う。


「硬い、か」


 狼の姿をした魔獣の脇腹に刃が叩き込まれたが、表面の尖った骨にわずかに傷をつけた程度だった。おそらく芯には届いていないだろう。

 ダメージを負った様子もなく、魔獣は前脚の爪を使って狩人へと反撃する。

 狩人はそれを鉈剣で受け流すことで凌ぐ。摩擦により、暗闇の中に火花が散った。


「エヴァン、大丈夫!?」

「――問題ない。集中を切らすな」


 魔獣が金属音の混ざった奇怪な唸り声を上げる。目の前の人間をなかなか仕留めきれないことで苛立っているようだった。

 その隙にエヴァンは体勢を立て直し、魔獣の次の動きを待つ。

 すると突然、周囲の闇が濃くなった。魔獣の体から黒い瘴気の霧が発せられ、視界を遮っているのだ。

 星明かりも届かぬ闇の奥で、魔獣の目だけが禍々しく、赤く光る。


 狼の口が開き、鋭く並んだ歯が覗く。

 そこから、黒い粘性のある液体が、勢いよく吐き出された。

 最初に見た暗色の沼のような、あるいは重油のようなそれは、地面に着弾すると炎が燃え広がるようにして青い光となり、周囲に撒き散らされた。


「これは……!」


 アリアは気がついた。暗闇の中で広がっていくこの青い光は、可視化された魔力。システィナの操るものと同じ性質のものだ。

 ただ違うのは、この青はシスティナのものより暗く冷たい。

 それは色合いだけではなく、実際に周囲の空気が急激に冷えていくのを感じた。

 冷気をまとった魔力だ。


「エヴァン、避けて!」

「――わかっている」


 幾重にも伸びる冷たい魔力の筋を、アリアとエヴァンは飛び退いてかわした。

 直後、エヴァンはあらかじめ矢をつがえていたクロスボウを片手で構えて、引き金を引く。


 狙いは、尖った骨によって守られていない箇所。赤い光を発する目だ。発射された矢が一直線に魔獣へと迫った、そのとき――。

 どろり。

 と、魔獣が汗をかくように液状へと形が崩れて溶け出し、崩れ去るように姿を消した。


「……なに?」


 エヴァンが驚愕に目を見開く。

 黒い沼へと変化へんげした魔獣が、空を飛ぶ鳥の影が横切るように、素早く移動してきた。

 アリアの背後へと。


「くっ!」


 背後へと回り込んでくる黒沼に気づいたアリアは、すぐさま振り向いて剣を構える。

 最初に遭遇したときと同じように、沼が形を成していく。そして姿を現した魔獣が、アリアへと襲い掛かった。


 がつん、と剣に重い手応え。それでも防ぎきれなかった爪の一撃が、アリアの左胸から肩までを深く切り裂く。

 鮮血が舞い、激痛にめまいがする。

 皮の鎧で急所を守っていなかったら、危なかったかもしれない。


 エヴァンが「ちっ」と舌打ちをしながら、クロスボウを射出する。その一矢は魔獣の骨の守りをすり抜け、芯の部分へと突き刺さった。魔獣が怯み、アリアへの追撃の手が止まる。


 その隙にアリアのもとへと駆け寄ろうとするエヴァンだったが、それよりも早く、アリアが動いた。


「――たああっ!」


 痛みをこらえて、アリアは魔獣へと飛びかかった。先ほど牙山羊を相手にエヴァンがやって見せたように。魔獣の体に、骨の守りの隙間へと剣を突き立てて、しがみついた。

 左肩は動かすだけで激痛が走るが、無理をして耐える。


「大した根性だ」


 称賛しながら、エヴァンは自らも鉈剣を「穢れの怪異」へと突き立てた。

 魔獣は金属音の混ざった咆哮を上げる。

 アリアとエヴァンは剣を強く握り、傷口を広げていった。

 効いている、あともう少し――。

 だが、生命の危機に瀕した魔獣が、がむしゃらに暴れまわり、アリアとエヴァンを振り払った。


「うっ」アリアは枯れた木に背中から叩きつけられ、左肩に激痛が走ってくらくらとした。


 手負いの魔獣は走り去っていき、やがて黒い沼へと溶けるように消えていった。

 周囲に立ち込めていた黒い霧が薄れ、視界が晴れる。


「……逃げたか」


 動きの速い獲物だけに、逃げられると追いかけるのは困難だ。

 エヴァンは小さく息を吐いた。その表情から感情を読み取ることは、アリアにはできなかった。


「立てるか?」


 差し出した手をアリアが掴むと、エヴァンはそのまま助け起こしてくれた。


「ありがとう」

「……無茶をする」

「あはは……」

「だが、まあ……よくやった」


 その言葉に驚いたアリアがエヴァンの顔をじーっと見つめる。

 エヴァンはつば広の帽子を押さえながら体を横に向けて、しかし目を逸らすことなく言った。


「奴は手負いだ。次は仕留めるぞ」

「……うん!」


 そうしてエヴァンが歩き始めたので、アリアもその背中を追った。




 夜が更けていく。辺りはすっかり暗くなってしまったが、空を満面に覆う星と、妖しいほど大きな月の明かりが木々の枝葉の間から差し込んできているため、まったく視界が効かないわけではない。

 それでも夜の森は危険だからと、エヴァンは手持ちのランタンに火を灯してくれた。

 荷物をぜんぶ崖上に置いてきてしまったため、今のアリアはランタンどころか松明たいまつすら持っていない。エヴァンがいてくれて本当によかった。


 先を行くエヴァンの後ろを、アリアはついていくのだが――正直なところ、アリアはかなり疲労していた。

 慣れない山道を歩き、巨大蜂に襲われ、崖に落ち、エヴァンに助けられて、それから立て続けに二度の戦闘。いくらこの体が頑丈だとはいえ、心身ともにくたくただった。


「……もう少しで到着する」


 そんなアリアの様子を悟ったのか、エヴァンは歩く速度を緩めると、短くそう伝えてきた。


「どこに向かっているの?」

「……この先に、廃村がある」

「……? 穢れの怪異を追っているんじゃないの?」


 アリアの疑問に、エヴァンはかぶりを振った。


「……いや。奴を追う前に、拠点が必要だからな」

「その廃村を拠点にするんだね」

「そうだ。そこでお前の手当てをする。回復のポーションだけでは持たないだろう」


 エヴァンは神花の霊薬のことを知らない。だから、アリアの怪我のことを気遣っているのだろう。

 これは推測ではあるが――もしかしたら、彼だけならすぐにでも穢れの怪異を追跡できたのかもしれない。拠点など確保せずとも。

 それなのに、アリアの体力と安全を第一に考えて判断をしてくれている。

 そう考えると、けっきょく足手まといになってしまっていて、なんだか申し訳がなかった。


「こんなところに村があったんだね」

「……ああ」


 港も近いからな、とエヴァンは続けた。

 ここからナガルまでのアクセスは悪いが、他にも人里に通じるルートがあるらしい。


「じゃあ、どうして廃村になっちゃったんだろう……」


 アリアがふと疑問を口にしたが。

 エヴァンがそれに答えることはなかった。

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