第9話 夜の森 3

 光輪をまとった白い花。そこから聞こえた幼い少女の声に、眠りかけていたアリアの意識が戻る。


「その声、もしかしてフローリア!?」

『よかった……。まだこの距離なら、聖花を通じてあなたに声を届けることができるようです』

「聖花って……この白い花のこと?」

『はい。この聖花と、花がまとった光輪は、あなたのような特別な迷い人にしか見ることができないものです。穢れをともなうう魔物は近寄ることすらできません』

「じゃあ、この場所は安全ってこと?」

『はい。穢れを持たない野生の獣や虫などは退けられませんが、ある程度は安全なはずです』


 アリアは今度こそほっと安堵の息を漏らした。


「フローリアとこうして話せるのも、この花のおかげなんだよね」

『はい。この聖花を介して、わたくしはあなたに言葉を届けることができます』

「よかった……私、一人ですごく不安だったから……」


 アリアは聖花に額を軽く当てて「本当に……怖かった……」とつぶやいた。


「アリア……」


 珍しく、感情の込もった声音でフローリアが言った。


『……まずは、傷の治療をしましょう』

「そうだね……でも、私、手当てに使えそうなもの何も持ってないけど」


 昔、何かの映画で、自分の服を破って傷口を縛って手当てしているシーンを見たことがある。

 スカートの裾をナイフで切れば使えるだろうか。アリアがそんなことを考えていると。


『アリア、霊薬瓶は持っていますか?』

「霊薬瓶……もしかして、これ?」


 アリアは金貨袋と一緒に最初から持っていた、一本の瓶を取り出した。

 金属で装飾された美しいそれは、ずっと腰につけたままでも割れたりヒビが入ったりしていない辺り、かなり頑丈なものなのだろう。蓋もついていて、中身も見えづらいため、瓶というよりボトルみたいなものだ。

 用途がまったくの謎だったので、アリアは小物入れにでも使おうと思っていた。


『その瓶です。よかった、まだ持っていてくれて……』

「うん。他の荷物は置いてきちゃったけどね……。これは重要なものなの?」

『はい。その霊薬瓶の蓋を開けて、聖花のすぐ下に持っていってみてください』

「こう?」


 アリアは聖花の花びらの下に瓶の口が来るようにしてみた。

 すると。

 花の中心から朝露がこぼれるように雫が花弁を伝って、ぽとん、と瓶の中へと落ちてきた。


「これは……?」


 瓶の中をいっぱいにした液体は、ほんのりと煌めいている。

 アリアがそれを眺めていると、フローリアが説明する。


『それは『神花の霊薬』というものです』

「神花の……霊薬?」

『一口飲むだけで、あらゆる傷を癒すことができる、奇跡の薬です』

「どんな怪我でも……すごい!」

『とくに、アリアのような迷い人が使うことで、大きな効果を発揮します』


 傷を癒す――フローリアが傷の手当てをしようと言ったのは、こういうことだったんだ。

 アリアは狼に噛まれた太ももの傷を見た。

 かなりひどいことになっている。肩に軽く触れると、痛みとともに血が手にこびりついた。


「この薬を、飲めばいいんだよね」

『はい。あるいは、傷口にかけても効果を発揮します。わたくしの加護を受けたあなたであれば、わずかな量でも大丈夫です』

「わかった!」


 アリアは神花の霊薬を、ごくりと一口飲んだ。

 体が温かい。体がほんのりと光に包まれ、あれほどひどかった傷が癒えていくのがわかった。

 ……治っている最中の傷口は、怖いのであえて見ないことにした。


「すごい。傷も治ったし、なんだか体が楽になった気がする」

『霊薬が効果を発揮したようですね。よかった……。まだ傷が残っていたら、完全に治るまで使っておくといいでしょう』


 アリアは「うん」とうなずいて、まだ治りかけだった太ももの傷口に霊薬をかけた。

 意外にも、傷口がみることはなかった。ただ、急速に体が再生しているからか、少しだけ熱い。


「よかった……きれいに治ったよ」

『そうですか。それなら傷も残らないので、安心しました』

「うん。ありがとう」

『それでは、もう一度、霊薬瓶を聖花に近づけて、霊薬を補充しておくといいでしょう』

「え、何度も使えるの?」


 アリアは驚いた。残った薬は温存しないといけないと考えていたけど、こんなにすごい効果の薬を何度も使えるなんて。


『聖花の力は無限ではないので、何度でもとはいきませんが……。使命を成し遂げようとするあなたを助けるためであれば、わたくしたち・・・・・・は身を捧げるつもりです』

「え……それは、どういう――」

『どうか、危機におちいったときは、迷わずにこの神秘の力をつかってください』

「……うん。そうするね」


 なんだかわからないけど、アリアのために力を尽くしてくれているらしい。フローリアも、この聖花も。

 なんだか、このきれいな白い花が、とても尊く愛おしいものに思えてきた。


「フローリア。私、なんだか疲れちゃって……」


 アリアは座った姿勢から、ゆっくりと地面に横になった。


「……少しだけ、ここで寝ても大丈夫かな……?」

『……はい。ここも完璧に安全とは言えませんが、もし危険が迫っていたら、わたくしの声であなたを起こします』

「ありがとう、フローリア……」


 朽ちかけた枯葉と土の冷たい地面は寝心地はよくなかったが、今は少しでも眠りたい。


「あはは……こんなところで寝たら、虫に刺されちゃうね……」

『そのときは、霊薬を使って治してください』

「……大事な薬を、そんなことには使えないよ」


 だれかと話しているだけで、一人のときよりもずっと安心できる。

 アリアの言葉に答えてくれるフローリアの声が、とてもありがたかった。


 やがて、アリアの意識はまどろみの中へと落ちていく……。


『おやすみなさい、アリア。……せめて、このつかだけでも、どうかよい夢を――』




 木漏れ日を顔に浴びて、アリアは目覚めた。

 鳥の声が耳に心地いい。森の中はまだ薄暗いけど、朝日は登っているようで、視界は十分に確保できるようになっていた。


「……ずいぶん寝ちゃったな」


 アリアは伸びをしながら起き上がる。

 寝心地の悪い場所で寝たにしては、調子は悪くなさそうだ。


「おはよう、フローリア」


 フローリアはちゃんと応えてくれるだろうか。昨日は言葉を交わすことができたが、今日もそうだとは限らない。


『おはようございます。オースアリア』


 心配には及ばず、すぐにフローリアから返事があった。


「よかった……」

『どうかしましたか?』

「ううん。なんでもない。……それじゃ、そろそろ出発するね」

『わかりました。アリア、今いる場所から南西に向かえば、ナガルの町に到着します』

「南西……」

『太陽の上る方角が東なので、それを基準にしてください』

「うん。……だ、大丈夫かなぁ」


 また迷ったりしないか、アリアは心配だった。昨日は真っ直ぐに歩いているつもりでも、たどり着くことができなかったのだ。

「自分がこんなに方向音痴だとは思わなかった……」と、アリアががっくりとうなだれると。


『おそらく、その心配は要りません』

「そうかな……」

『はい。昨日は『惑わしの妖精』たちが悪さをしていたので、みっちりと叱っておきましたから』

「え? 妖精……?」


 フローリアが言うには、その妖精たちは魔法を使って旅人を森で迷わす悪癖があるらしい。

 もしかしたら、ときおり聞こえていた笑い声がその「惑わしの妖精」なのかもしれない。

 すっかり騙されたことを悟って、アリアはまたがっくりとした。


「じゃあ……今度こそ行くね」

『はい。もしこの先で、このような聖花を見つけることができたら、近寄ってみてください。わたくしとコンタクトを取れるかもしれません』

「かならずフローリアと話せるわけじゃないの?」

『はい。聖花の神殿から離れるほど、私の力は弱まってしまうので……それでも、できるだけアリアの旅をサポートできるように善処ぜんしょします』

「そっか……ありがとう、フローリア」


 アリアは起き上がって、ぽんぽんと体の土をはたいた。


「まずは荷物を回収してこないと。……獣に荒らされてなければいいなぁ」




 アリアは来た道を一度引き返して、置いてきたバックパックと盾を拾ってから南西を目指した。

 運のいいことに、荷物は獣などに荒らされることもなく無事だった。中には食料もあったのだが、あの狼の魔物は見向きもしなかったようだ。よほどアリアのことが食べたかったらしい。――美味しそうな匂いでもしたのだろうか。


 南西に進むうちに、日は真上に来た。

 方角が分からなくなったが、今度は細かく木に目印を付けながら少しずつ進んだ。


「きっと、大丈夫……だよね」


 昨日のうちに、この辺りの魔物は倒してしまったからか、魔物と遭遇することはほとんどなかった。

 最初は緊張しながら進んでいたアリアも、昼の明るさとともに気が抜けてきた。そんなときだった。


 しゅあぁぁ……。


「え……?」


 深い茂みの真横を通ったとき、そこから魔物の声が聞こえてきて、アリアは急いで振り返る。

 しかし、一瞬だけ反応が遅れた。

 びゅん! と伸びてきた蛇頭へびあたまの牙が、アリアの二の腕へと食らいついた。


「――っ!」


 これまでに何度か見た、絡み合う蛇の魔物だ。しかも、その体には何やら黒い霧のような瘴気をまとっている。

 とっさにアリアが振り払おうとしたが、肉に深く食い込んだ牙がまったく離れない。

 しかも、噛まれたのは右手。剣を持つ利き腕のほうだ。

 アリアは左手で剣を抜いて逆手に持つと、噛み付いてる蛇の首を突き刺すようにして叩き斬る。

 だが、続く二つ目の蛇頭が足首を、三つ目の蛇頭がアリアの胴を狙って、素早く首を伸ばしてきた。


「うぅッ!」


 足首を狙う蛇頭は足を引いて避けたが、他の二つより大きい三つ目の蛇頭にアリアは腹部を噛まれてしまう。

 激痛にアリアは喘いだ。

 ただ普通に噛まれた痛みではない。蜂に刺されたときのような、突っ張るようなひどい痛みだ。


「はな、れて……!」


 アリアは両手で剣の柄を握ると、絡み合う蛇の中心部を、上から全力で斬りつけた。

 魚を皮ごと包丁で切ったときのような手応えが腕に伝わり、ズバババ、と蛇の体がバラバラになった。

 ミスリルの剣の斬れ味がなせる業だ。


 アリアの腕と腹部に噛み付いたままの二つの蛇頭は、しばらくの間はビタビタと動き回って傷口をえぐっていたが、やがて動かなくなった。


「うっ……」


 息絶えてもなおも噛み付いたままの蛇頭を投げ捨てて、アリアは息を吐きながらへたり込んだ。


「……油断したぁ」


 噛まれたところが、やけに痛い。

 傷口を見ると、周囲が紫色に変色していた。


(もしかして……毒……?)


 なんだか体がだるいし、目の前がくらくらとする。

 なんにせよ傷を治さなくてはならないので、アリアは神花の霊薬を取り出して、ごくりと一口飲んだ。

 途端とたんに右腕とお腹に熱が込もり、傷口が癒えていく。


「ふぅ……さっそく神花の霊薬のお世話になっちゃったな」


 傷が治り、体のだるさも抜けた……のだが、起き上がるとすぐにまた体がふらついて来て、アリアは額を押さえながら木に寄りかかった。


「あれ、なんで……」


 視界が揺れる。

 体もなんだか熱を帯びてきた。おそらく体が毒にやられているのだろう。


(そうか……霊薬は、毒には効果がないんだ……)


 医者に診せないと――せめて、薬が欲しい。

 ここがファンタジーの世界みたいなものなら――。いや、そうでなくても毒を持つ魔物がいるなら、それを治療するための薬もあるはず。


「……うぷ、うぇぇ」


 アリアは草陰にかがみ込むと、嘔吐した。

 これはまずい。あの魔物の毒は、かなりの猛毒みたいだ。


「……行か、ない、と……」


 また魔物が出るかもしれない。このまま、ここで弱っていくのは危険だ。

 とにかく進まなくては。毒を治療する方法を探さないと、下手をすると死んでしまうかもしれない。

 アリアはよろめきながらも木を支えにして、ゆっくりと歩き始めた。




 視界がかすみ、まっすぐ立っていられなかった。

 頭痛。熱と吐き気に、冷や汗が少女の額や太ももを伝う。


 歩みを進めながら、アリアはもう一度だけ神花の霊薬を飲んでみた。

 すると、体は一時的に楽になる。

 その理屈はよくわからないが、どうやら体内に入り込んだ毒を消すことはできなくとも、毒にやられて弱った体は完治するようだ。


「はぁ、はぁ……うぇえ」


 アリアは途中で何度も嘔吐しながら進んだ。

 あまりにも長い、地獄のような時間だった。

 限界がきて進めなくなったら霊薬を飲んで回復し、また歩き続ける。

 そうしているうちに、だんだんと周囲の木々の背が低くなり、空も見えるようになった。


「あ……なんだか、明るくなってきた……」


 景色が変わってきたのをアリアは感じた。

 もう少しで、この森を抜けられるのだろうか。


(もう……少し……)


 あと少しで町にたどり着くなんて根拠はない。

 だが、そう思わなければ何も希望がなくなってしまう。

 神花の霊薬の最後の一口を飲む。ここまで魔物と遭遇しなかったのは幸運だった。


 ふらふらと一歩ずつ、森のより明るいほうへと進んでいく。

 苦し紛れに水袋の水を飲んだが、すぐにむせて吐き出してしまった。


「……ぁ」


 アリアの必死の歩みもついに限界を迎え、アリアは膝をついて、どさりと地面に倒れた。


(あ……だめ、これ…………死んじゃう……かも……)


 立ち上がることはおろか、ほとんど動くことすら困難だった。

 それでも前に進もうと伸ばしていたアリアの手も、力尽きて地面に落ちてしまう。


 気が遠くなる。

 そのまま意識を手放しそうになったとき、草を踏み締めるガサガサという足音が聞こえた。

 魔物が来ている。

 戦わないと。

 だけど、もう――。


「……お姉ちゃん?」


 声が聞こえた。

 一瞬、晴人が呼んでいるのかと思ったが、違った。


「大丈夫……? ぐあい、わるいの?」


 人の声。

 ああ、人の声だ。

 女の子の声。


「……蛇の……毒で……」


 言葉にできたのは、それだけだった。

 そのままアリアは声を出すこともできなくなる。


「たいへん! ママ、来て! こっち!」


 途切れていく意識の中で、焦ったような少女の叫び声が聞こえた。

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