第10話 エレノーア教会 1
雨の音が聞こえる。
温かい。こんなふうにぬくもりを感じるのは、いつ以来だろうか。
「……私は……」
この安らかな場所で、もう少し眠っていたい欲求を乗り越えて、アリアは目を開けた。
ベッドの上で、布団をかけて寝ていたようだ。長いこと押し入れにしまわれていた来客用の布団のように、少しだけ埃とカビの臭いがする。
小さな窓と
「あ、気がついた!」
声がするほうに視線を向けると、一人の少女がいた。
年齢はアリアより少し下くらいだろうか。おさげにした桃色の髪に、素朴なワンピースとエプロン。明らかに日本の人とは雰囲気の違う。外国の――いや、別の世界の住人だった。
「ママ! お姉ちゃんが起きたわ!」
桃色髪の少女が呼ぶと、部屋の入り口まで来ていた初老の女性が応じる。
「おや。お目覚めになったのですね」
初老の女性は笑顔を見せた。
顔つきなどから年齢を重ねていることがわかるが、スリムな体にしっかりと伸ばした背筋と、白髪混じりの金髪が美しい。
目尻に作ったしわが優しげで、身にまとう修道服のような黒と白の衣装がよく似合う、とてもきれいな人だとアリアは思った。
「えっと……あなたたちが、私を助けてくれたのですか?」
アリアの問いに、修道服の女性が答える。
「ええ。あなたが森の中に倒れていたところを、こちらの娘が見つけたのです」
「あたしはユイ。
「
(そっか……この人たちが……)
彼女たちが自分を助けてくれたのだと知ったアリアが、お礼を言うためにベッドから立ちあがろうとするのを、ユイという少女が手で制した。
「あ、まだ起き上がらなくて大丈夫よ。だってお姉ちゃん、本調子じゃないでしょう?」
「でも……今の私、汚いから……」
アリアは上体だけ起こして、自分の姿を見る。
寝衣だろうか。寝ている間にボロボロだった服を脱がせて、着替えさせてくれたようで、今は白い薄手のバスローブに似た服を着ていた。
胸の谷間(というほどの谷間はないが)がちらりと見えているのが少し恥ずかしいけど、これがこの世界の服装なのだろう。
着替えさせてもらったとはいえ、体は土と血にまみれていたはずだ。
「ごめんなさい。服とベッドを汚しちゃって……」
アリアがそう言うと、ユイは呆れたように眉をひそめた。
「起きて最初に心配することが、それ?」
「え、だ、だけど」
「命が助かったんだから、いいじゃない。シーツはまた洗えばいいんだから」
困ったようにキサラという修道女のほうを見ると、苦笑している彼女と目が合った。
「昨晩は、本当に危なかったんですよ。毒がかなり回っていたみたいで、呼吸も弱く、本当につらそうで……。その間、この子ったらつきっきりで看病して……
「ちょ、ちょっとママ! そんな話しなくていいのに!」
夜通しで面倒を見てくれていたとは、思った以上に彼女たちには迷惑をかけてしまったようだ。
ああ、それにしても、こんなに優しい人たちに助けられるなんて。アリアは自らの幸運と、彼女たちへの感謝を噛み締めた。
「私は大須……いえ、オースアリアです。危ないところを助けていただいて、ありがとうございました」
アリアは心からのお礼を言った。
名前は迷ったけど、フローリアに
するとユイがその名前に反応する。
「オースアリア……王族みたいで、なんだかかっこいい名前だね」
「そう……なのかな? よければ、アリアって呼んで」
「うん。よろしくね、アリアお姉ちゃん!」
そう言ってユイが可愛らしい笑顔を見せるので、アリアも微笑んだ。
そうしていると、修道女のキサラが目尻のしわを深めて手を叩いた。
「さて。アリアさんも起きたことだし、昼食の準備をしましょう」
「はーい」
昼食ということは、アリアが倒れる前は昼ごろだったことを考えると、丸一日寝ていたことになる。
あれから何も食べていないことを意識すると、アリアはなんだか空腹を感じてきて、無意識のうちにお腹をさすっていた。
それを見たキサラが言う。
「アリアさんのぶんも用意するので、待っていてくださいね」
「え……で、でも、そこまでしてもらうわけには……」
「ウフフ。そう遠慮なさらずに」
修道女の言葉に、ユイもうなずく。
「そうよ。困っている人がいたら、互いに助け合うようにっていうのが恵みの女神リーティア様の教えなんだから」
「女神リーティア……様?」
この世界にはフローリア以外の女神もいるのか、それとも宗教として信仰されているだけなのだろうか。
「そういうわけですから、アリアさん、食事のほかにも、何か必要なものがあれば言ってくださいね」
「ありがとうございます。ユイ、キサラさん」
ほかに必要なもの。今、どうしてもやりたいことがあったアリアは、おずおずと控えめに口を開いた。
「あの……お願いがあるのですが……」
「なあに、アリアお姉ちゃん?」
「お風呂か……シャワーを貸してもらえますか?」
「シャワーって、なに?」
アリアの言葉に、ユイは首をかしげた。
この世界には、さすがに文明の利器であるシャワーなんてなかったようだ。
「お風呂は、さすがにうちにはないよ」
「う……そ、そっか」
「お風呂に入りたいなんて、アリアお姉ちゃんってやっぱりどこかの貴族様なの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
たぶん、別の世界から来たということは最初に説明しておくべきだろうと思って、アリアは「じつは……」と切り出した。
「迷い人……という言葉は、わかりますか? 私は迷い人で、別の世界から来たのです」
アリアがそう言うと、キサラが「まあ」口元を手で押さえた。
「そうでしたの……。この世界には来たばかりですか?」
「はい……一昨日から」
「それは大変だったでしょう。どうぞここには、ゆっくりしてってくださいね」
「そっか。お姉ちゃんは迷い人だったんだ」
キサラとユイは互いに顔を見合わせる。
「ユイ」
「なぁに、ママ?」
「アリアさんに、体を拭くためのお湯とタオルを用意してあげましょう」
「え、うん。お湯を沸かしてくればいいのね」
「ええ」
「あ、ありがとうございます……!」
アリアの表情がぱぁっと明るくなった。体を拭かせてもらえるだけでも、すごくありがたい。
するとキサラは人差し指を立てて、ユイに向かっていたずらっぽく言う。
「迷い人は、みんなとてもきれい好きなのよ」
「そっか、わかったわ、急いでお湯を沸かしてくるわ!」
そう言ってユイは、ぱたぱたと走っていった。
「では、わたくしは昼食を作ってまいりますね。アリアさん、あなたはどうか、体を休めていてください」
続いて、キサラも部屋から出ていったので、アリアは二人に頭を下げた。
ユイとキサラはいい人たちだったけど、無理をさせているんじゃないだろうか。アリアはなんとなくそんな気がして恐縮しながらも、おとなしく部屋で待った。
彼女たちの話によると、ここは町はずれにある教会の中で、ユイとキサラは何人かの子供たちとともにここで暮らしているらしい。
「アリアお姉ちゃん、お待たせ!」
ほどなくして、ユイが金属製のたらいのような桶にお湯を入れて、タオルといっしょに持ってきた。
「ありがとう」
「じゃあ、ゆっくりね」
「うん!」
扉を閉められて一人になったアリアは、意を決してするりと薄い衣を脱いで、上半身は裸、下半身は下着だけの姿になった。
見ず知らずの他人の家で裸になるのは少し恥ずかしかったけど、できるだけ気にしないようにした。
それから濡らしたタオルを軽く絞って、まず顔を拭いて、長い髪を絞るようになぞって、腋の下から身体中を丁寧に拭いていく。
簡素なものだけど、それでも体をきれいにするのは心地よくて、アリアは鼻歌でも歌いたい気分だった。
そうしてアリアが夢心地でいると、ふいに扉が開く音が鳴った。
「ひゃっ!」
「あっ!」
アリアが思わず変な悲鳴を上げると、扉の隙間から覗き込んでいた子供も声を上げた。
慌ててつまずいたのか、扉が開かれて三人の幼い少年少女たちが転げて出てくる。
一番幼い雰囲気の少年と、二番目に幼い少女。もう一人、一番年上らしき少年。
三人目の少年だけは顔を赤らめて目をそらしていたので、アリアも恥ずかしくなって胸元を腕で隠した。
「う……。ご、ごめんね……? 今、服を着ちゃうから、ちょっと待ってて」
すると一番年上の少年は、凍りついたように硬直しながら。
「う、うん。……おねえちゃん……ご、ごめんなさい……!」
きょとんとするほかの二人を連れて、部屋から出ていった。
部屋の外から「こーらー! アーサ、ヒルダ、ノクス! お姉ちゃんは取り込み中だから、中に入らないの!」という声が聞こえてきた。
アリアは少し恥ずかしくも微笑ましい気持ちになって、薄手のバスローブに似た寝衣をもう一度着ると、自分から扉を開けた。
「待たせちゃったね。もう大丈夫だよ」
部屋の外にいた三人組に声をかけると、エプロンをしたユイがそれに気づいてパタパタと走ってきた。
「あ、アリアお姉ちゃん、終わったの?」
「うん。ありがとう、ユイ。桶とタオルは、どこに持っていけばいい?」
「片付けておくから、置いといて!」
そう言われて、アリアは少し困ってしまった。
なんだかお世話してもらってばかりで、申し訳ない気持ちになる。
そうしていると、ユイがこちらをじっと見ていることに気づいてアリアは首をかしげた。
「どうしたの?」
「……ううん。アリアお姉ちゃん、やっぱきれいだなって思って」
「え……そ、そうかな?」
「うん……それに、なんだかいい匂いがする」
小声でささやくようにそう付け加えられて、アリアは思わず頬を染めながら視線をそらした。
すると、三人の子供たちがアリアのほうへと近づいてきて。
「お姉ちゃん、どこから来たのー?」
「迷い人って本当?」
子供たちは客人であるアリアが珍しいのか、口々にそう聞いてくる。
一番上の男の子だけは、先ほどのアクシデントを引きずっているのかまだ顔を赤くして照れているので、アリアは苦笑した。
「紹介するね」ユイが三人の子供たちを手で示した。「一番上の子が、アーサ。女の子がヒルダ。一番下の子がノクス。それぞれ十歳、七歳、四歳よ」
男の子二人は軽くぺこりと頭を下げて一礼をして、女の子は優雅にカーテシーをしてみせた。
なんて礼儀正しい子たちだろう。きっとキサラの育て方がいいのだろう。
そして、よかった。この世界でも、頭を下げるのが挨拶らしい。
「そっか。よろしくね。アーサ、ヒルダ、それにノクス」
アリアも見よう見まねで、バスローブのような寝衣の裾を持ってカーテシーのようなポーズをしてみた。
すると、子供たちが歓声を上げた。
それを見てユイが困ったように言う。
「ごめんね、アリアお姉ちゃん……この子たちうるさいでしょう?」
「うぅん。気にしないで、ユイ」
そう言ってアリアは、子供たちに笑いかけた。
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