第8話 夜の森 2

(狙ってるのは、たぶん、私……だよね)


 どうするべきか。

 すぐにここから逃げる。あるいは迎え撃つ?

 隠れて息を潜める――のは無理だ。こうなってはもう遅い。相手のほうが夜目は効くだろうし、きっと、においで見つかってしまう。


(どうしよう……!)


 迷っている間にも、遠吠えの包囲が少しずつ近づいてきているのを感じる。

 ここでもたついていたら、状況は悪くなる一方だ。一か八か、アリアは決断する。


(……逃げよう!)


 できるだけ静かに、でも急いでアリアはその場から走り始めた。

 途端、追うようにして獣の気配も動き始める。


(ひっ。追ってきてる……!)


 遠吠えに唸り声が混ざった。

 前方からも獣の声が聞こえる。けど、アリアは進む方向を変えるわけにはいかない。迷っている以上、せめて一方向に進んでいかなければ森は抜けられないからだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 静かにしようとするほど、緊張で自然と息が上がっていくし、足音は消すことができない。

 唸り声と遠吠えは着実にアリアを追従し、なおも包囲を狭められている気配がする。

 がさっ。

 茂みが音を立てて、アリアは身をすくめた。喉の奥で「ひっ」と悲鳴を上げる。

 野犬、狼、あるいはもっと恐ろしい魔物か。暗い森の中で一人、獣に追われている状況にアリアは恐怖で押し潰されそうになる。


(だれか、助けて……)


 そう願ってから、気づく。

 ここには自分一人しかいない。願っても、誰かが来るはずがない。

 なら、たった一人でも生き残るための行動を取るしかないのだ。


(や、やるしか……ない)


 一体で現れた蛇の魔物とは違う。相手は群れで、しかも逃げきれないほど素早い。

 けど、今のアリアにはこの剣がある。旅商人の老婆から譲ってもらった、ただ一つ信頼できる、生き延びるための手段だ。

 アリアは走りながら腰の剣の柄に手をかけ、勢いよく引き抜き、震える声で言い放った。


「こ、来い!」


 獲物のスタミナが切れたと判断したのか、ガサガサと茂みを揺らして獣が飛び出してくる。

 その姿は、狼。

 牙は鋭く、片目と胴体の一部は何かに寄生されたように肉塊が張り付き、そこから細長い触手がうごめいている。

 狼の魔物だった。


「うぇ、また触手……!」


 蛇もそうだし、アリアは長くてうねうねしたものが嫌いになりそうだった。


「がうっ!」四本足のたくましい狼のような魔物が吠えながらアリアへと襲いかかる。


「ぐっ」


 その鋭い牙で噛みついてこようとしたところを、アリアはなんとかバックラーを使って防ぐ。

 だが勢いは殺し切れず、押し倒されそうになってアリアはよろめいた。


(転んだら終わり……転んだらおしまい……!)


 ここで地面に倒れたらどうなるか。この恐ろしい狼の魔物が後から何匹も続いてやってきて、少女に群がってきて揉みくちゃにしているところを想像してゾッとする。

 なんとか踏みとどまったところで、やはり背後から飛びかかってくる二匹の魔物の増援を、アリアはちらりと横目で見た。

 硬いバックラーに食らいついている目の前の一体を、急いで剣で斬りつけた。


 ざん! とミスリルの剣の凄まじい斬れ味が手に伝わる。首、というより頭の根本をアリアによりざっくり斬られた魔物が、悲鳴すら上げられずに、どしゃああ、と地面に倒れた。


 続いて背後から飛びかかってくる二体の魔物の牙と爪を、アリアは転がって避けた。


「うぅっ!」


 避けた先の茂みの中から、もう一匹の新手が飛びかかってくる。

 アリアは即座に右手の剣を振るって、その新手の一体を斬り裂いた。


「たぁぁッ!」


 がしゅん! と胴体を深く斬り裂かれた魔物は、アリアへの攻撃を失敗して地面に落ちる。

 かなり弱っているようだが、まだ息がある。再度、アリアへと襲いかかろうと手負いの狼は体勢を立て直している。


 そちらに気を取られている暇すらなく、二匹の魔物が少女へと追い討ちをする。

 さらに「がうぅっ!」と背後からもう一匹の新手が襲いかかった。


「このっ!」


 背後の一匹の鼻頭をバックラーで殴りつけて迎撃する。が、止まらない。

 正面の二匹のうち片方を剣で斬りつける。が、浅い。

 体勢が悪く、決定打にならないまま、三匹の魔物はアリアに飛びかかってきた。


「きゃあ――ッ!」


 悲鳴を上げながら、アリアは魔物たちに押し倒された。

 ドサッ! と地面に仰向けになった少女に、体に触手を生やした狼の魔物たちが襲いかかる。

 その数、さらに増えて四匹。手負いの一匹をいれて五匹。


「や、やめて……」


 起き上がれない。この体勢では、ろくな抵抗もできない。

 そんなアリアの首元に、鋭い牙が噛み付く。


「いぎいぃッ!」


 なんとか頭を振って首を噛まれることは避けたが、魔物はアリアの右肩に思い切り噛みついてきた。

 すごい力で、牙が深く埋まる。殺す気で噛んでる――それはそうだ、魔物たちはアリアを食べる気なのだから。

 激痛で目の前が真っ赤になった。


 さらにもう一匹の狼が、少女の左の太ももに噛みつき、鋭い牙を深く食い込ませる。


「あぐっ!」


 腹部を前足で押さえつけられ、鋭い爪が食い込んで痛くて苦しい。

 アリアはすでに三匹の狼によって拘束されていた。魔物は一匹でもアリアと同等以上の体重があるだろう。払いのけるのは困難だった。


 たしか……狼は、獲物が息絶えるまでこうして執拗に噛み続けて、それから肉を食べるんだと動画で見た記憶がある。


(抜け出さないと……こんなところで、死ねない……!)


 痛い。でも、アリアには使命がある。

 フローリアや、この世界の人々のためだけではない。

 弟の晴人の、大切な家族のためでもあるんだ。

 まだ死ねない。終わるわけにはいかなかった。

 アリアはもやがかかったようにかすむ思考をなんとか回して、打開策を考える。


 左足は、動かせない。右腕は――肩に激痛が走るけど、なんとか動く。

 剣は――離れた位置にある。届くだろうか。アリアは痛む右腕を必死に伸ばした。


(……届いた!)


 アリアは右足を思い切り振り上げて、膝のあたりで肩に喰らいつく狼を蹴り付けた。こういうときに、体が柔軟でよかったと思う。

 わずかに肩への拘束が緩んだところで、右手で素早く剣を拾って左手に投げ渡す。

 際どいところでキャッチして左手で持った剣を、思いっきり狼の頭部に突き立てた。


「……っ!」


 がぅぅ! という断末魔の悲鳴。返り血がアリアの顔にかかる。

 絶命した大柄な一体を押しのけたアリアは、左の太ももに噛み付く狼にも剣を振るった。

 さすがに一撃で倒すことはできなかったが、怯んだ魔物が牙の拘束を離す。

 その隙にアリアは転がってなんとか包囲から抜け出した。


「く、来るな……っ!」


 バックラーを捨てて剣を両手で持ったアリアは、その剣をぶんぶんと振り回して威嚇する。

 さすがに仲間を立て続けて殺されて狼たちも怯んでいるのか、迂闊には近寄ってこない。

 その間にアリアは怪我をした左足を引きずりながら、魔物たちから逃げ始めた。


「はぁ、は、はっ……!」


 胸が焼けそうなほど熱く、息が苦しい。

 森にぼたぼたと血痕を残しながら、アリアは進んだ。

 少しでも先へ――。

 唸り声を上げながら、追ってくる狼の魔物たちを、両手で握った剣で迎撃する。

 アリアも動きが鈍いが、手負いになった獣たちも、最初ほどの機敏さはない。

 必死に追い払いながら、歩みを進める。


(早く……諦めて……!)


 少し進むと、ぼんやりと、前方に白いほのかな光が見えた。


「光……あれは……? きゃっ!」


 その光に気を取られた瞬間、狼たちが群がってきてアリアを押し倒した。

 右の太ももに一匹、そして負傷している左の太ももにもう一匹が噛みつき、這って逃げようとするアリアの動きを止めた。


「ひぎっ!」


 アリアは激痛に悲鳴を上げる。

 両足をやられた少女は、なんとか地面を這って、光のほうへと進んだ。


(あれは…………あの、光は……?)


 華奢な脚部に噛み付いてくる魔物を引きずりながら、苦労して少しずつ進む。

 手負いの二匹が後方から追いついてくる。もし四匹がかりで揉みくちゃにされたら、さすがに動くことは不可能だろう。

 最後に残った力を振り絞って、アリアは地面を這った。


(……白い、花?)


 フローリアが霊域と呼んでいた場所で見た花と似た形状だけど、サイズは小さい。

 その白い花は、同じく白い光の輪を周囲にまとっていて、淡く発光していた。


「がるぅぅ……!」


 狼たちが唸り声を残して、白い花に近づいたアリアから離れた。


「え……?」


 突然解放されて、アリアが戸惑う。

 まるで見えない壁でもできたかのように、アリアの周囲で迷うような素振りを見せると、やがて諦めたように手負いの狼の魔物たちは撤退してしまった。


「何が……起きたの?」


 もしかして、魔物はこの光っている花を嫌がっているのだろうか。

 あるいは、何か近寄れない理由があるのかもしれない。

 何にしても。


「た、助かった……」


 アリアは花にできるだけ近づくと、ぐったりと倒れ込んだ。

 虫がいるかもしれないし、土で汚れるが、それは今更いまさらだ。

 とにかく今は体を休めなくては――足もろくに動かなくて、歩けるようになるかが心配だった。

 そうしてアリアが一息ついたところで。


『アリア……』


 声が聞こえた。

 どこか幼い雰囲気の少女の声。


「今のは……?」


 アリアが周囲を見回すと、もう一度声が聞こえた。


『オースアリア……聞こえますか?』


 聞き覚えのあるその声は、女神フローリアのものだった。

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