第11話 仄暗い悪意、静謐たる憤激

 ――ピチャン、ピチャン……。

 水が鐘乳石を伝って床へと落ちる。

 南方、とある洞窟の深部。光の一筋すら通らない暗闇。


『グルウゥゥゥ……ッ』


 仄暗い洞窟の奥底で、それは唸りを上げていた。

 見開かれたその目は瞋恚の炎に燃え盛り、剥き出した牙は屈辱を噛み締める。

 その怪物は自身の矜持プライドをたった一人の女にへし折られた。

 怪物には自分が最強だという自負があった。

 それをその女はあろうことか自身の右腕を消失させた。自分より遥かに弱い存在と侮っていた者に、誇りを傷つけられ、体の一部を失った。

 彼は、尊厳を傷つけられた。


 ――自分は畏れられる存在でなければならない。


 そんな生まれた時からその身に抱いていた尊敬。

 種族としての約束された『絶対』。

 しかし、言うに事を欠いて、あの女は自分に畏怖しなかった。あろうことか雑種を見るような目で、自分を侮蔑するように見ていた。

 その事が彼は許せなかった。


 ――もっと力がいる。


 それは漠然としたものだった。

 女を喰い殺すには、自分には力が足りなかった。

 だとすれば、最強としての矜持を取り戻すために、今一度進化を自身に強要するほかない。

 しかし、右腕の損失は痛すぎる。この怪我ではしばらくは身動きを取ることすら怪しい。

 その怪物――『ルブラムドラゴニス』は心を憎悪に染め上げながら、静養を続ける。

 そんな時だった。


 ――コツン、コツン。


 洞窟内に岩を踏み締める音が響き渡る。

 彼はチャンスだと思った。彼は右腕を失くして以来、三日ほどなにも食事を取れていない。

 自分がいるとも知らず、のこのこと出向いた阿呆を喰らってやるつもりだ。


 ――コツン、コツン。


 次第に足音は彼が待つ洞窟の最奥へと近づいてくる。

 最奥へ入る入り口は一つのみ。

 その一つの入り口に、残った左腕の爪を構える。


 ――コツン、コツン。


 足音はすぐそこ。

 獲物は彼が待ち受ける巣へと足を踏み入れた。

 その瞬間、待っていたと言わんばかりにその左爪を勢いよく振り下ろした。


 ――ドゴォォン!


 地面の爆砕音。砂埃が宙を舞う。

 その手には確実に獲物を手にした感触がある。彼は気分が高揚するのを感じた。

 久方ぶりの食事にしようと、その手をどかそうとした時。


「――おいおい。俺のことを覚えてねぇのかよぉ……」


 突如として、自身の手の下から男の声が聞こえてきた。

 その声を聞いた途端。彼は全身の細胞が縮こまり、全身の血液は冷めて、全身の筋肉は停止した。

 彼は知っている。この声の主を。そして、それがどれだけの化け物なのかを本能で察する。


「……なぁ。クソ竜。てめぇはぁ……飼い主のぉ! 顔もぉ!! 覚えれねぇのかヨォ!!!」


 振り払われた竜の腕。

 彼はその態勢を崩して、後ろへとよろめく。

 そして、砂煙に巻かれた男は、彼に向かって跳躍を敢行した。


 ――死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……。


 彼は心の奥底から湧き出る根源的な恐怖に、情けなくその瞳を震わせ、情けなく歯を鳴らし、情けなくその場にへたり込む。


「――一回死ねやァ!」


 ――バキッ!!

 彼の左頬に拳が叩き込まれた。

 その衝撃で、頬の鱗は砕け散り、牙は根本からへし折れ、脳は振動している。

 一撃。――それも一切全力を出していない軽い殴打パンチ。それは確実に、彼の根底に絶対に抗えない恐怖のくびきを打ち込んだ。


『――――ァ……』


 体全体に響き渡る痛みの波は治まることはなく、反響して増幅していきながら彼の精神を蝕んでいく。

 その様子を見ている浅黒い肌の男は、その赤い瞳孔を満足げに光らせている。


「思い出したか? クソ蜥蜴。テメェが誰の家畜ペットなのかをヨォ……」

『グゥゥゥ……』


 彼は馬鹿ではない。

 自分が勝てないと思った相手に立ち向かうほど、頭の悪い怪物ではない。元来、ドラゴンというのは高い知性を保有している。彼が生きてきた中で、矜持尊厳など捨ててしまうほどの怪物。

 彼が例え反逆をしようとも、欠伸をしながら、片手間に、興味なさそうに屠られて終わり。


 ――ならば、この男と戦うのは避けるべきだ。


 賢い魔物だからこその判断。

 敢えて、家畜と成り下がることで自分の命を守っているのだ。

 例えどんな痛苦に喘ごうが、この男に逆らうことの方が怪物の本能として恐ろしかった。

 だからこそ、頭を男の視線よりも下に、その背中にある羽の付け根を見せつけるように、地へとその体を沈み込ませた。


「よぉしよし。良い子だ」


 そんな彼の服従の姿勢を見た男は、ただひたすらに不気味な笑みを浮かべている。

 男は彼の方へとゆっくり歩を進めて、先程自分が殴りとばした左頬に手を添える。そして、未だ傷が塞がらない右腕のあった場所を見る。


「痛かったろォ? 苦しかったよなァ? 誰にこんなことされたんだァ? 左頬はぶっ壊れて、右腕は消し飛ばされてよォ」


 男はその顔を悲痛に歪ませて、彼の頭を優しく撫で始める。

 その瞳には涙を浮かべ、怒りに肩を震わせ、憎悪に身を灼くように。

 彼は吐き気を催した。

 のしかかる重圧。全てを壊さんとする殺意。全てを燃やさんとする瞋恚。この世の全てを憎むような、男の絶対的な強者としての覇気。

 それら全てが、彼の五臓六腑。失った右腕にすら、疼痛をもたらす。


「これも……全部全部よォ……。あの魔女のせいだよなァ……。俺の可愛いペットちゃんをこんなにしてくれてよォ!!! 赦さねぇぞ……『不死の魔女』……」


 男は自分が負わせた傷すらも全て『不死の魔女』のせいに転嫁した。

 彼の中には――お前がやったくせに! という怒りがない訳でもない。しかし、それを出してしまえば次はその首が地に落ちる。

 それだけは避けなくてはならない。

 例え、天が落ちてきたとしても、彼がこの男に勝つことなどあり得るはずがないのだから。


「お前もォ……悔しいよなァ……。こんな、ボロボロにされてよォ…………」


 ビキビキッ――! という音が響き渡る。

 男に撫でられていた箇所の鱗がひび割れ始める。

 いとも簡単に壊されていく、彼の自慢の鱗。本来、ドラゴンの鱗は鉄壁の盾となるものだ。剣は弾き、拳を砕き、槍を折る。

 そんな自慢の鱗が、ただ握りしめられただけで砕けていく。


「――だからァ。お前にお土産ェ、持ってきたんだぜェ? こんな良いご主人様飼い主他にいねぇよなァ……」


 男は歪み始めた空間から、その異物を取り出した。

 蠢く肉片、広がる血管、跳ねる心臓、並べられた神経、無尽蔵に転がる目、焼け焦げた骨。

 それらが放つ異臭。

 鼻がよく利くドラゴンには、到底我慢ならないほどの地獄。そんな地獄の中で、一人恍惚とした表情を男は浮かべる。


「わかるかァ? これの素晴らしさがァ! これは、ずうぇんぶ俺が集めてきた一級品たちだ! てめェに一々素材の説明したってわかんねェだろ? だが、お前は本能でわかるはずだ!」


 男は興奮を隠す気すらなく、ただひたすらに自分の言葉を並べ続ける。


「――これは、お前の強化素材……。お前を! この俺が! 魔物として一つランクを上げてやるよ!」


 彼は男の言うことを完全に理解した。

 これらの素材は彼の破壊された部位への補強として使われるのだろうことを。

 ドラゴンは潔癖である。ドラゴンという括りの中で、他の種と交わる事を極端に嫌う。同族のみと子を為す。『ルブラムドラゴニス』ならそれ同士で。

 他種族とのまぐわいを良しとしないドラゴンにとって、自分の体に他種族――それも『ドラゴン』ですらない何かを混ぜられるのはそれだけ屈辱なのだ。


 ――だが、あの魔女を殺せるのなら。そして、いずれはこの男を……。


 彼はそれ以上に誇りを傷つけられた。

 その怒りは彼の中のなにかを変容させた。潔癖などどうでもいい、恥も捨てた。

 そこにあるのは一つの復讐心。

 捕食者としての意地が、最強種としての誇りが、頂点に立つ野心が。

 それら全てが、彼の復讐。

 こうして、この世に生まれるは災禍の怪物。ドラゴンとしての種族を超越したなにかが生まれ落ちようとしていた。

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