№23 若き血潮
夜は吸血鬼の時間である。
虫も寝静まった深夜、明かりの消えたビルの群れの狭間で、カインは吸血鬼の正装を身にまというずくまっていた。
あの冬の日のように、傘を差しかけてくれるものは誰もいない。たったひとり、孤独に息をしているだけの存在が、自分だった。
バケモノ、と、あの吸血鬼ハンターは言っていた。
たしかにそうだ、と口端を持ち上げる。
バケモノのくせに『ふつう』を望んでいた自分がひどく滑稽に感じられた。笑えないトラジコメディだ。
殺してきた。奪ってきた。犯してきた。
そんなバケモノが、今更『ふつう』などと、ちゃんちゃらおかしい話だ。夢見る少女でもあるまいし、頭の中がずいぶんと生ぬるくなっていた。
咲と出会うまでは、こんなことはなかった。自分がバケモノであるということも、するりと受け入れることができた。
しかし、一度『ふつう』の愛を知ってしまうと、もうバケモノであることに耐えられなくなる。もしかしたら、自分のようなバケモノも生まれ変われるのではないかと錯覚してしまう。
自分はバケモノである、という変わらない現実は残酷だというのに。
もしかしたら、咲もそう思っていたのではないだろうか。
こころのどこかで、自分のことをバケモノだと。異端者であると。敵対すべき存在であると。
咲はたしかに『ふつう』の愛を与えてくれた。だが、『ふつう』ではない自分のことをどう思っていたのかはわからない。咲の愛を疑うような考えに、今のカインはとらわれていた。
うずくまったまま、ぎゅっとからだを抱きしめる。きいきいと周囲に舞うコウモリの鳴き声がうるさい。まるで、バケモノ、バケモノと責め立てられているような気分に陥る。
そんなカインのもとに、毛色の違うコウモリが一匹、音もなく舞い込んできた。
「……兄上」
「……アベルか」
ひとの形に変じたアベルは、カインの目の前に立ってかなしげな顔をしていた。
「どうした、しょぼくれた顔をして」
いつものように傲然と笑おうとしたが、できなかった。今のカインにはそれだけの余裕がない。自然、泣き笑いのような顔になってしまう。
それを見たアベルはより一層愁眉をひそめ、
「兄上こそ、ひどい顔ですよ」
「……そうか?……そうだな」
カインはひとり納得して、己をせせら笑った。
これは重症だと判断したのか、同じ赤の輝きをはらむ瞳を細めた。
「……兄上、なぜあの女の元を離れたのですか?」
その問いかけに、カインは砂漠の旅人のような渇き切ったまなざしで空を仰ぎ、
「……サキ、ああ、サキか……そうだ、私はサキの元から去った」
「どうしてですか?」
「……私は、所詮『ふつう』とは程遠い存在なのだ。『ふつう』ではない、バケモノだ……そんな世界に、これ以上サキを巻き込むわけにはいかない……いや、」
言いかけて、カインはゆるくかぶりを振った。は、と吐息で笑い、
「……これは言い訳だ。本当は、怖気づいてしまったのだ。愛のある『ふつう』の暮らしにな。私のようなバケモノが、ここにいていいのかと。本当に私の居場所はここなのかと。考え出すと、耐えられなかった。だから、飛び出してきた」
「……実家を飛び出してきたのと、同じですね」
「……そうだったな」
あのときも、自分の居場所を見失って家出してきたのだった。そこで出会ったのが咲だ。そして、今度もまたいたたまれなくなって出奔した。その繰り返しで、カインはずっとさすらってきたのだ。
ここにいていい、そんな確証が欲しかった。こんなバケモノがいていい場所など、この世のどこにもないというのに。
それでも、きっとどこかに楽園があると信じて、喉の渇きに耐えながら旅をしている。見つけたと思ったらそれは蜃気楼で、まだ旅は続く。
そんな旅にも、もう疲れた。ここいらで終わりにしたいとすら思っている。見上げた夜空は遠く、ここからでは星には届かない。
届かないとわかっているのに、カインは空へと手を伸ばした。
空を切った手のひらを握りしめ、むなしい笑みを浮かべる。
「バケモノに、『ふつう』は難しい」
今ほど不老不死を恨んだことはない。この流転の旅は、未来永劫続いていくのだ。どれだけこころが痛もうが、終わることのない旅路。
「……兄上……」
まるで自分の痛みのような顔をしていたアベルは、急に思い立ってカインの元へと歩み寄った。
そして、その胸倉をつかんで引きずり起こす。
「なぜですか!? 兄上は言っていたじゃないですか! あの女に愛を与えられて、大切な『ふつう』の暮らしを送っていると! なのに、なぜ!!」
虚脱状態のカインを揺さぶりながら、怒りさえ宿した声音で叫ぶアベル。それを止めることもせず、カインはされるがままになっていた。
「あの女ならと、こころに決めたのでしょう!? あの女といた兄上は、たしかに『ふつう』だった!! 約束をしたのでしょう、あの女と!! 誓いを交わしたのでしょう!! それをすべて反故にして、それでいいと思っているのですか!? たかがバケモノ呼ばわりされただけで!!」
「……アベル……」
「本当に、それでいいのですか!?」
襟元をつかまれ、まっすぐな赤い眼差しに貫かれる。
その勢いを、カインは素直に『若いな』、と思った。
自分が失ってしまったものだ。
……過ぎ去ってしまったと、思っていたものだ。
そう、まだ忘れてはいない。
胸の奥底に眠る、燃え盛る情熱。
ハラワタを焼き焦がすような渇望。
飽くことを知らない衝動。
そのすべては、咲に向けられたものだ。
咲と、それを取り巻く『ふつう』の日常に。
欲しいものは何だ? 今一度、自分に問いかける。
答えはたったひとつだった。
「……ははっ……!」
一本取られた、とばかりに、額に手をやって笑うカイン。アベルは真剣な表情をきょとんとさせて、兄の笑顔を見ていた。
「……なるほど。私もいい年だと思っていたが、不老不死の身だ、年もクソもなかったな。老いるものか。老いてなるものか。この原動力を失うときは、世界が終わって消えるときだ。永劫の旅路? けっこうではないか。この足はいくらでも歩けるのだ、這いずってでも、歩き続けてやる」
そう言って、カインはいつも通りに傲岸不遜な笑みを浮かべた。覆った指の隙間から、見下すような赤い瞳が覗く。
「私には、かわいい家畜がいる。伴侶が、しもべが、つがいがいる。共に歩く者がいる。囚われの身のメス豚だ。みじめったらしく泣き叫んでいるだろう、そろそろ助けに行ってやらねばな」
この旅路はカインひとりのものではないのだ。
あの日、いっしょに歩いていくと覚悟を決めてくれた咲がいる。
その覚悟をないがしろにしようとしたことを、カインは心底恥じた。
覚悟ができていなかったのは、もしかしたら自分の方だったのかもしれない。
アベルの手を振り払い、襟を正したカインは正装のマントをひるがえした。
「有象無象の羽虫が、なにやら私の生活を脅かしているようだが、邪魔をするなら叩き落とすまで……征くぞ、アベル」
「……はい、兄上!」
アベルの表情も子供のころと同じだ。月を追いかける夜の旅人。憧憬の笑み。
そして、次の瞬間、その笑みが血に染まった。
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