№22 腹ペコの王子様

 朝まで待ったが、カインは結局そのまま帰ってくることはなかった。


 絶望の表情で朝日を浴びながら、咲はとっさに思った。


 仕事に行かなければ。


 正常性バイアス、というやつである。いつも通りにしていれば、カインは昨日と同じように笑顔で出迎えてくれるはず。そんな心理状態に陥って、咲はひとりで仕事に行く準備を始めた。


 カインの助けがない朝の支度には手間取ったが、なんとか体裁を整えて玄関を出る。なんだか朝日がまぶしすぎるような気がした。


 いつも通りに出社すると、いつも通りに仕事をこなす。


 しかし、いつもとは違って簡単なミスを連発してしまった。書類の誤字脱字、アポイントの時間を間違える、社用のスマホを忘れる、などなど。


 ちょっと休んできなよ、と上司に気を遣われ、咲は今、リフレッシュルームで味のしないコーヒーを飲んでいる。


 自然とため息が出た。


 カインが『ふつう』に恋い焦がれていたのは誰よりも知っている。そんなカインを、あいつはバケモノと呼んだ。カインはひどく傷つき、咲を置いて出ていってしまった。


 もう帰ってこないかもしれない。そう思うと暗澹たる気分になった。


 咲は、自分でも気づかない内に首元のネックレスに指を伸ばしていた。カインとのほどけない結び目、絆。しかし、それを盲信できるほど咲は強くはなかった。ネックレスを強く握り、


「……どうして……」


 つぶやくと、いっしょに涙もこぼれてしまった。ぽろぽろと頬を伝う涙は際限なく湧いて出てくる。こんなところ、誰かに見られたら……


 そう思いながらも泣き止むことができなかった咲の目の前に、す、と白いハンカチが差し出された。


 はっとして泣き顔を上げると、そこには相変わらず目だけは笑っていない倉敷が微笑んでいた。


「そんな顔をしないでください。さあ、涙を拭いて」


「……ありがとうございます」


 そのハンカチを受け取ってしまったら負ける気がして、咲は言外に拒絶の意を示す。その意図を汲んでハンカチを引っ込めた倉敷は、許可もなく咲の隣に座り、泣き止むのを待つ。


 ようやく涙が止まってくれて、深呼吸をしながら目元をぐじぐじとこする咲に、倉敷はにこにこと声をかけた。


「落ち着きましたか?」


「……ええ、まあ」


 目を逸らす咲に、倉敷は口元の笑みを深める。


「あなたが泣く必要なんてありません。むしろよろこぶべきですよ……せっかく、あの害虫を駆除して差し上げたんだから」


 ひゅ、と咲の喉が鳴る。


 そうだ、吸血鬼ハンターであるリチャードを雇ったのは、この男だ。カインはこの男に追い払われたと言っても過言ではない。


 咲は椅子を蹴って立ち上がり、


「あんたが余計なことしたから、カインは、カインは……!!」


 きつくにらみつける眼差しを笑顔でいなし、倉敷は軽く笑声を発した。


「はは、感謝してくれてもかまいませんよ。四方八方手を尽くしたんですから」


「……このっ……!!」


「いい加減、自覚してください」


 こぶしを握り締めた咲の鼻先に、倉敷の笑顔が突き付けられた。蛇のように冷えた眼差しに、仮面のような笑顔。その体裁だけを取り繕ったサイコパスの表情に、さすがの咲もひるんでしまった。


 その隙に、倉敷は耳に吹き込むようにささやく。


「あなたは僕のものになる運命なんです。もうそういう方向に話が転がっているんですよ。賽は投げられた。あなたに拒否権はありません」


 言い含めて、倉敷はやっと顔を離してくれた。この、観察するような笑っていない目。どれだけ繕っても、やはり倉敷はヤクザの子だ。それとも、倉敷自身の資質のせいだろうか。


 いずれにせよ、こいつはヤバい。本能で察した咲は、振り上げたこぶしのやりどころを探した。


「そういえば、まだお話してませんでしたね。僕があなたにひと目ぼれしたときのこと」


 たしかそんなことを口走っていたような気がする。が、咲にとってはどうでもいいことだ。


 そんな事情察しもせず、倉敷は勝手に咲との出会いを語り始めた。


「僕は昔から、欲しいものはなんでも与えられてきた。ボンボンなんてみんなそんなもんです。カネ、モノ、オンナ……今の会社の社長のいすだって、与えられたものだ。本当になに不自由なく生きてきました」


 ヤクザの組長の息子なら、当然のことだろう。生まれたときから手下がいて、欲しいものは当たり前のように手に入って、邪魔なものは消してしまって、さぞかしいい気分で暮らしてきたに違いない。


 咲のそんな感想を読み取ったかのように、倉敷は自嘲の笑みを浮かべた。


「まさに王子様でした。少し機嫌の悪そうなそぶりをすれば、まわりがみんな思うように動いてくれる。僕はただ、玉座に座って口を開けてご馳走を待っていればいい。挫折や苦労なんて下々のものがするものだ、そう思っていました」


「…………」


「そんな風に暮らしてきたので、僕を叱るものなど誰もいませんでした。どんなことをしても、みんな許してもらえる。あれをやってはいけない、これをしてはいけえない、そんなこと誰も言わなかった。僕は好き勝手に振る舞いました」


 ジャイアンも真っ青なクソガキだったのだろう。しかし、親の顔がチラつけば誰だって口出しできなくなる。それでつけあがり、倉敷は増長した。


「そんなとき、あなたが現れました。あれはたしか、中学に入りたてのころかな……思い立ってコンビニの前でタバコを吸おうとしました。大人ぶりたかったんでしょうね。もちろん、近隣のひとたちは僕がヤクザの息子だってわかってたので、見て見ぬふりです。僕はタバコに火をつけようとしました」


 ……なにも思い出せないが、タバコを吸おうとしていたところへ咲が現れたらしい。本当に、まったく覚えていない。なにをやらかしてしまったのかと、おそるおそる続く言葉を待つ。


「火をつけようと悪戦苦闘していた僕の手から、タバコが消えました。通りすがりの女の子が取り上げたんです。そして、女の子はタバコを投げ捨て、『これはおとなしか吸ったらダメなやつだよ! あんたみたいな子供、吸っちゃいけないんだよ! それくらいかんがえなよ!』……と。僕を叱りつけたんです」


 イヤな予感がするが、にんまりと口元をゆるめた倉敷は、予想通りの答えを持ち出してきた。


「あとで調べさせてわかりましたが、それがあなたでした。王子様である僕を、臆することなく叱ってくれた女の子。叱られたことのなかった僕は、そんな人間もいるものなのかとあなたに興味を持ちました。いろいろ調べさせましたよ。そして、影ながらずっと見ていました」


 ぞわ、と背中に寒気が走る。


 気付かなかっただけで、今までずっと観察されていたのだ。獲物を狙う蛇の視線で。初めてストーカー被害者の気持ちが分かった瞬間だった。


 怯える咲を見詰めながら、倉敷は言葉を継いでいく。


「あなたを迎えるに当たって、僕は普通になろうとしました。普通に学校を出て、普通に会社を持ち、普通の人間としてあなたとの縁談を組む……すべては、あなたのためだったんですよ」


「……そんなささいなことで……?」


「ふふ、あなたにとっては取るに足らないことだったでしょうね。けど、僕の中では大きな転換点だったんです。覚えていなくてもいいんですよ。ただ僕は、普通に僕を叱ってくれたあなたに恋をしたんだ。そう、純愛ですよ」


 これが純愛なら、世の中の色恋沙汰はすべて純愛と呼べてしまうだろう。


 どちらかというと、これは狂愛だ。普段なら起こらないことを起こしてしまった咲に衝撃を受け、それを恋だと錯覚し、執念深くその思いを募らせてきたのだ。面白そうなオモチャ、くらいの認識だろう。手に入ったら壊れるまで遊んで、壊れたら捨てる。その程度の感情だ。


 それを恋だと誤認してしまった倉敷は、あの手この手を尽くして咲を、手に入らないものを手に入れようとした。執着というにはあまりにも業が深すぎる、怨念じみたものを感じる。


 使えるものは何でも使ったのだろう。その過程で誰が犠牲になったのか、それはわからない。しかし、ずいぶんとあくどいこともやってきたと見える。いくつもの屍の上の玉座で、口を開けてご馳走を待っている王子様。それが倉敷だった。


 ほんのちょっとのことで倉敷の脳内に入り込んでしまった咲は、今日に至るまでずっとそんな王子様の手のひらの上にいた。そう思うと身の毛もよだつ。あの時も、この時も、ずっと倉敷は咲のことを見ていたのだ。


 きっと、カインとの出会いの日のことも。


「ほら、僕は普通でしょう?」


 こわくない、と言わんばかりに微笑む倉敷だったが、やはり目は笑っていなかった。恋に落ちた理由を聞けば納得するかもしれないと思ったが、余計に目の前の男がグロテスクな存在に見えて嫌悪感を覚える。


 こいつは、モンスターだ。


 どれだけ体裁を保とうとも、醜悪で忌避すべき存在には違いない。


 倉敷を睨みつけながら、咲はうめくようにつぶやいた。


「……あんた、普通じゃないよ」


「これが普通じゃないというなら、僕は一体なんなんですか?」


「『バケモノ』だよ。あんたは、カインよりもずっと『バケモノ』だ」


「おやおや、言われたものだ。僕はこんなにも普通だっていうのに」


 やれやれと肩をすくめ、物わかりの悪い子供に言い聞かせるように倉敷が言う。


「僕はあなたを手に入れる。そして、普通の生活を送る。普通の人生を歩む……すでにそういうシナリオが出来上がっているということをお忘れなく」


 ダメだ。こいつにはなにを言っても通じない。


 罵ろうと、逃げようと、死ぬまで追いかけてくるに違いない。


 一度狙った獲物は絶対に逃さない。そういった執念深さがひしひしと感じられた。


 泣き腫らした目で威嚇するようににらみつけると、倉敷はその場を立ち上がって言った。


「いずれにせよ、もうあの害虫はあなたのそばには寄せ付けない。あなたは晴れて僕のものだ。いつも通り、待っているだけで手に入る……また迎えに来ますよ」


 微笑む倉敷が完全に去っていくのを見届けて、咲はようやく一息ついた。


 外堀から囲い込まれているのを実感する。このままいけば、またしても倉敷の思惑通りに事が運んでしまうのだ。


 カインがいなくなってしまった今、こころが折れそうになる。ラクな方へと流されてしまいそうになる。


 そんな自分に喝を入れるようにこぶしを握り、咲は獣のようにうなった。


「……負けるもんか」

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