№19 ファーストキス

 要は、ひとの血を吸わなくともほぼ吸血鬼になれるということだ。珍しい例らしいが、咲はその特異な眷属、というわけである。


 ほう、とため息をついて、咲はカインの膝の上でごろりとあおむけになった。


「……おそろしいですか?」


 おずおずと尋ねるカインの顔がすぐ近くにある。咲はその不安げな表情を消し去るように、にっ、と笑い、


「ううん。もう覚悟はできてる。あの日の夜から」


 征服者となったカインに誓ったのだ。共に悠久の夜を歩こうと。


 あのときの選択を後悔したことはなかった。たとえ人間をやめても、カインのそばにいる。いっしょに生きて、愛を注ぎ続ける。ずっと、ずっとだ。


 正直、おそろしくないと言えばウソになる。自分が異質な何かに生まれ変わると思うと、こわくて仕方なかった。


 だが、そばにカインが、同族がいると思うと、そのおそれもやわらいだ。ひとりではない、同じ存在が隣にいる。それだけで、どうにかやっていけそうな気がした。


 咲はカインの頬に手を伸ばすと、両手で包み込み、


「もう後悔なんてない。私は、カインといっしょに生きていくんだ」


 微笑みながら、そう宣言する。


 しばらくの間、驚いたように目を瞬かせていたカインだったが、やがてこころの底からうれしそうに笑うと、


「……本当に、ありがとうございます。わたくしめに『ふつう』の愛を与えてくださって」


 そう言うと、咲の額に口づけをひとつ、落とした。


 数秒間、何が起こったのかわからなかった。


 カインガワタシニキスヲカインガワタシニキスヲカインガワタシニ……


「xfk#jgbあ@せfばそ¥¥いえ」


 咲がバグった。謎言語を口にしながら、真っ赤になって硬直してしまう。


 キスをした当の本人であるカインも、その反応に真っ赤になってこうべを垂れ、


「たっ、大変ご無礼を働きました!! わたくしめごときがご主人様に口づけなど……っ!」


「いやいや、そこはいいんだよ!? そこは!! ただ私のキャパがオーバーしただけで……!」


「申し訳ございません!! いかようにでもご処分ください!!」


「カインが謝ることなんてなにもないから! むしろご褒美ありがとうございますみたいな!? カインからこんなことされたの初めてだから、だから……!」


 ふたりして赤面しながらしどろもどろになって、自分が悪いと言い張る。その攻防はしばらく続いた。


 あれだけ激しい『情事』を行っていようとも、それ以外の時はこんなふれあいなどなかった。だからこそ、あんな幼稚園児のようなキスでさえ、咲は混乱し、動揺したのだ。


 だいぶ上がった心拍数のおかげで息を乱しながら、ふたりの間にようやく静寂が訪れる。


「……その、うれしかった、よ……?」


 真っ赤になった顔を両手で覆い隠しながら、咲が小さくつぶやいた。


「……それは、よかったです……わたくしめも、よろこんでいただけでうれしいです……」


「……っていうか、逆になんで今までこういうことしてこなかったの……?」


「……それは……」


 カインは言いにくそうに口ごもり、少しして口を開いた。


「……夜間、あのような狼藉を働いておきながら、のうのうとご主人様に養われているわたくしめごときが、神聖にして不可侵なるご主人様に昼間も許可もなく触れていいはずがないと……」


「いやいやいや! 全然神聖とか不可侵とかじゃないから!」


「いえ! わたくしめにとっては、ご主人様は触れることも許されない至上の存在! 夜間ああして身勝手に血を吸うことだけでも分不相応な振る舞いだと思っておりますのに、こうして触れることなど……!」


 どうやら、カインなりに咲に対しては一線を引いていたようだ。だからこそ、こんなもどかしいことになってしまったのだ。毎朝土下座して夜のことを謝罪しているのもそのせいらしい。


 がば!と起き上がった咲は、カインの両肩に手を置き、


「そんなこと気にしなくていいの! 私はカインがこうして触れてくれてうれしかった! だから、これからもたまにでいいから『おやすみ』の前も触れてほしい!……私も、こんな風に求められるの、初めてだったから……!」


 ぎゅっと目をつむって告白する。


 今まで付き合ってきた男は、誰も咲自身のことを求めてこなかった。咲も、そういうものだと思っていた。


 しかし、カインは違う。飢えたケダモノのように夜ごと咲をむさぼり、まだ足りないと渇望した。


 そこまで誰かに必要とされることなど、咲にとっては初めての経験だったのだ。ゆえに咲は最推しとしてカインにのめり込み、カインもまた、咲に対してちょっとしたはずみで口づけをするほどに思いを募らせていた。


 要は、すれ違いだった。互いが互いに遠慮しすぎていたのだ。


 そんな一線を越えた口づけは、たやすく咲のこころの奥深くにまで届いてしまった。根を張り、なお一層たくましい幹となった。


「……ご主人様、目を開けてくださいませ」


 やさしく懇願されて、咲はおそるおそる目を開いた。視界の先には、困ったように微笑むカインがいる。


 カインは壊れ物を扱うような手つきで咲の頬に触れ、


「もし、わたくしめごときがご主人様に触れることをお許しくださるのでしたら……もう一度、口づけをしてもよろしゅうございますか?」


 そっとささやきかけるカインに、咲は小さくうなずいた。


 できるだけ呼吸を押さえようと息を止め、目を閉じる。キスってどうやればいいのだろうか? あまり間を持たせると呼吸困難になる。くちびるはどうすれば? 目は閉じたままでいいのか? むしろ自分からいった方がいいのか??


 とても恋愛漫画の主人公のようにはいかず、顔面にぎゅうぎゅうにちからを込めた咲は、我知らず変顔をしていた。


 そんな咲さえかわいらしいと思い、カインはくちびるに触れるだけのキスをする。


「ふ、ふにっとした! え、なに、終わり!?」


 情緒も風情もへったくれもない発言に、カインが笑う。


「ふふ、おしまいですよ。注射を嫌がる子供のようですね」


「い、イヤじゃないよ!?」


「でしたらよかったです。さあ、わたくしめを見てください」


 目を開けた先には照れたような笑みを浮かべるカインがいて、咲はやっと顔面からちからを抜いた。


「……はあ……緊張した……」


「わたくしめもです」


 自然と、見つめ合うふたりは笑いあった。


 手を取り、ないしょ話をするようにカインがささやく。


「どうか、このご無礼をお許しください、ご主人様」


「許す許す! カインならなんだって許しちゃうから!」


「そこまで甘やかされると、わたくしめ歯止めがきかなくなってしまいますので、おいやな時は必ず言ってくださいませ」


「なんだっていいよ、カインなら」


 ふへへ、とゆるく息をこぼして咲が言うと、カインは何かしらごにょごにょつぶやいていたようだったが、よく聞き取れなかった。


「カイン」


 改まった様子で咲が向き直ると、カインも背筋を正してそれに対する。


「私に愛を与えてくれて、ありがとう。私を欲してくれて、ありがとう」


「……もったいないお言葉です」


「私にだって言わせてよ。私はカインに愛を与えたのかもしれないけど、カインだって私に愛をくれたんだよ」


 そうやって愛が循環していく、やさしい世界。


 満たされるたびに形を大きくしていく、こころの器。


 そういう日々が、ずっと続いていけばいい。


 咲はこころからそう願って笑った。

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