№17 居心地の悪い料理店

 咲の疑問を見透かしたように、魚の骨を取りながら倉敷は言った。


「僕はね、『ふつう』になりたいんですよ」


 どこかで聞いたその言葉に、咲の心臓が跳ねる。


 しかし、そう言っていた推しは目の前の男とはどうしても重ならなかった。


「完全な一般人になりたいんです。『ふつう』の世界ってやつですか? いくら継ぐ気がないと言っても、このからだにはヤクザものの血が流れていますからね。その血脈から逃れることは簡単なことではないんです」


 ていねいな仕草で魚をほぐす倉敷は、うれしそうに続けた。


「けど、あなたを見つけた。あなたといっしょなら、『ふつう』になれる気がするんです」


 ああ、わかった。


 このひと、笑顔だけど目が笑っていない。


 くちびるに浮かんでいるのはひとなつこい笑みだが、目元はずっと蛇のように細められているばかりだ。


 カインとの決定的な違いはそこだった。だからこそ、重ならなかった。


 この男の言う『ふつう』は、きっと咲の思う『ふつう』とは違うのだろう。倉敷本人が言うように、それは血のさだめなのかもしれないが、カインとて逃れられない宿業を背負っている。


 同じような境遇の倉敷とカイン、ヤクザものと吸血鬼。しかしどこかで分岐して、ふたりは別々の『ふつう』を求めることになった。


「あなたの言う『ふつう』って、なんですか?」


 カインがアベルに聞かれたのと同じ問いかけを、図らずも咲も投げかける。


 すると倉敷は少し考えるそぶりを見せてから、


「そうですね……要するに、平均的な暮らしですよ。普通に会社で仕事をして、普通に家に帰って家族に迎えられ、普通にささやかな夕食を共に食べ、普通に眠る。暴力や血筋や権謀術数とはかかわりのない、平均的な暮らしです」


 やはりそれは咲が考える『ふつう』とは違っていた。


 倉敷は、平均的、という意味で言っているのだ。ただ自分の血筋から逃れたくて、逃げた後に受け入れてくれる器を探しているだけだ。


 それは取り繕った外面だけの普通で、カインが渇望している『ふつう』とはむしろ真逆のものだった。


 おみおつけをかじりながら、咲はきっぱりと言う。


「残念ですが、私はあなたとお付き合いするつもりはありません」


 これで終わりだ。極道だろうとなんだろうと、咲から推しとの尊い生活を奪うことはできない。ここはあきらめてもらうに限る。


 だが、お吸い物を一口飲んだ倉敷は、相変わらず口元だけで笑って、


「知ってますよ。吸血鬼でしょう?」


 倉敷の口から飛び出してきた言葉に、咲はひどく動揺した。


 なんで? なんで知ってる?? 誰にも言ったことがないのに??


 秘密の推しに言及されて、咲は思わず箸を置いてしまった。


「……どこからそれを?」


 必死に平静を取り繕って尋ねると、倉敷は小さく笑って、


「組の情報網、ってやつですよ。この渡世、割と役に立ちましてね。たまに使わせてもらってます。それより、あまり食が進んでいないようですが、大丈夫ですか?」


 言われてみれば、倉敷はもうすべての料理を平らげて、あとは甘味を待つばかりといったところなのに、咲の皿はまだ全然片付いていない。笑っていない目で観察するように眺められて、箸が進むか。そう言いたい気分を押し殺して、咲は再び箸に手をつけた。


「……家のしがらみから抜け出したい割には、利用してるんですね」


「ええ、使えるものは何でも使って、僕は『ふつう』の世界に生きます。そうでもしないと、とても逃れられないんですよ、血の因果ってやつからは」


「大変だとは思いますが、やっぱり私はあなたとはいっしょに行けない。あなたは覚悟ができてないから」


「ははっ、覚悟? 極道の子にそれを言いますか」


「カタギだろうとスジモノだろうと、覚悟ができてないひとは山ほどいます。あなたもそのうちのひとり。いいとこどりしといて、覚悟も何もないですよ。けど、カインは違う。すべてを捨てて、私といっしょに生きることを選んでくれた。『私』を、選んでくれたんです」


「ひどいなあ……」


 そう言っている頬には笑みが張り付いているが、目はすうっと細められている。


 咲が皿を空けてから少しして、熱い玉露と共に甘味が運ばれてきた。黒蜜きなこのくずもちには、季節柄かモミジが添えられている。


 早くこの場から逃れたい咲は、味もわからないままくずもちを口に運んだ。


 倉敷は行儀よくくずもちを切り分け、


「あなたから悪い虫を取り除かなくちゃいけない……ね?」


 持ち上げたくずもちから、粘性の黒蜜がとろりとしたたった。そのしずくごと口の中に入れて、仮面のような笑みと共に飲み下す倉敷。


 その表情に、咲はついぞっとしてしまった。生理的嫌悪感というやつだ。


 黒蜜のように甘く粘り気のある倉敷の見えない手が、咲にまとわりついてくるような感覚があった。それを振り払うように、咲はくずもちの最後のひと切れを食べ終える。


 熱々の玉露を無理矢理一気飲みし、


「ごちそうさまでした!」


 これで食事は終わりだ。早く帰せ。


 そう言わんばかりの勢いで手を合わせる。


「ははっ、なんだか今日はいろいろありすぎてせわしなかったですね。今日のところはこの辺にしておいて、後日またゆっくりとお話ししましょう」


 無言の圧を感じ取ったのか、倉敷は今日だけは咲を逃がしてくれるらしい。座敷から片手を上げると、料理長と女将らしいひとが挨拶に来る。


 三つ指ついてのお礼をいなし、倉敷は座布団から立ち上がった。すぐに迎えのヤクザがやってくる。咲を置いて、倉敷は座敷を後にした。


「また連絡します。そのときまでにはこころを決めておいてください」


 去り際そう言って、今度こそ倉敷が去っていく。


 広大な座敷に取り残された咲は、詰まっていた息を吐き出すように深々とため息をついた。玉露一気飲みで火傷した口の中の痛みが、今更になってじんじんする。


「……誰が決めるか」


 吐き捨てるようにつぶやいて、倉敷が完全に撤収した頃合いを見計らい、咲もまた、居心地の悪い高級料亭から帰路についた。


 


「……ってわけで、もう最悪だったよー。もう金輪際関わりたくない」


「さようでございましたか。お疲れ様です、ご主人様」


 風呂上がりにドライヤーをかけてもらって、乾いた髪をきれいにブラッシングしてもらいながら愚痴る咲。そんな咲を、カインはこころからいたわった。


「ああいう独善的な偽善者ってホント無理」


「わたくしめも、思うところはございますが……」


「カインはなーんにも気にしなくていいよ! あんなボンボンとは違うし!」


「そうでしょうか?」


「そうだよ! 潔いガチクズで私の推しだもん!」


「……潔いガチクズ……」


 カインを一言で表すとそうなるが、本人はフクザツな心境らしい。それでもブラッシングの手は止まらなかったが。


「ですが、ご主人様。どうかお気をつけて。その男、どうやら手段を選ばないタイプのようですからね。今後うまく逃げ切れるかどうか……」


「任せて! 思いっきりフってやるから!」


 咲はそう言うが、どうもカインは引き続きイヤな予感がしていた。そういう人間は、ひとの話を聞かない。勝手に自分の物差しで解釈して、耳が痛むことは聞かなかったことにしてしまうのだ。


 今日も、咲にきっぱりと断られたというのに、また接触すると宣言している。こういう手合いは会話ができない。話し合いの余地がない、ということだ。


 ブラッシングを終えると、とたんに咲がそわそわし始めた。


 わかりやすいあるじに苦笑しながら、カインは今夜もささやくのだった。


「それでは、そろそろベッドに入りましょうか」

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