№15 働きたくないでござる
翌日。
咲が出勤した後、宣言通りに迎えに来たアベルに連行されて、今カインは某コンビニの制服を着ている。
「いいですか、兄上? ここがガチクズニートに堕ちるかどうかの瀬戸際ですからね! 一生懸命働いたお金で飲むビールはおいしいですよ! 勤労、万歳!」
「……あ、アベル……わたくしめ、すでに動悸息切れめまいがしてきておりまして……」
「はい、復唱! 勤労、万歳!」
「き、きんろう、ばんざい……」
勢いに押し切られて、今更退くことのできなくなったカインは職場に送り出された。
バックヤードからレジへ出た瞬間。
ばたん、と倒れて動かなくなる。
「あ、兄上えええええええええ!?!?」
慌てて助け起こすアベルに向かって、すっかりミイラのようにやつれてしまったカインがぶつぶつとなにかつぶやいている。耳を澄ませると、
「……ニコニコニコニコニコニコニコニコ……」
「全然にこやかじゃないですよね!?」
「……アルアルアルアルアルアルアルアル……」
「なにアヤシゲな中国人みたいなこと言ってるんですか!?」
おそらく、ニコチンとアルコールの禁断症状だろう。がくがく震えるカインのからだをぎゅっと抱きしめながら、
「……ここまでガチクズだとは思わなかった……!」
「……ああ、あべる……」
しゃがれた声でぶるぶるする手を伸ばし、途中でばたりとちから尽きるカイン。
「……すみません……どうやらわたくしめは……はたらいたらしんでしまうびょうきのようです……」
「労働ってそんな死に至る病なんですか!?」
まさか労働に対してこんなアレルギーを発症するほどにガチクズニートだったとは。おそらく、酒もタバコも許されるホストになれば、容姿は完璧なので充分に稼げるとは思うが、それは真吸血鬼としてはいかがなものかと思う。
マトモな職場で、マトモな労働。
アベルが想定していたのはそんな環境だ。
しかし、そんな理想も0.1秒で木っ端みじんになってしまった。
「……ああ……ひかり、が……みえる……どうか……あかりをけして……」
「サーセン店長やっぱ無理でしたサーセン!!」
もう今わの際まで行ってしまっているカインを抱え、ぎょっとする店長に早口でそう告げると、アベルは脱兎の勢いでその場を去ってしまった。
堂々たるバックレである。
夕暮れ時が近づく河原の土手で、アベルはカインにタバコを吸わせて、
「ほら、兄上。お酒もありますよ」
「……ありがとう、アベル……」
ストローの鬼殺しをちゅーっと吸い、ニコチンを補給して、だんだんとカインの活力が戻って来る。もはやニコチンとアルコールなしではからだがもたないようだった。
重たいタールのタバコをすぱすぱ吸い、鬼殺しを三パックほど開けてから、ようやくカインは完全復活した。
「……ああ、死ぬかと思いましたよ……」
「……僕は今、死ぬほど絶望していますけどね……」
ふっ、とかげりのある笑みを浮かべて、アベルは深くため息をついた。
「……これほどまでとは……」
「やはり、わたくしめには労働は無理なようです」
「きりっとしたいい声で言いきらないでください」
ガチクズ以下のゴミカスが確定した兄にそう言い、アベルは土手で膝を抱えて頭をうずめた。
「ああ、なぜこんなことに……!」
「ご主人様の与えてくださる生活が快適すぎて……」
「やっぱり、あの女のせいか!」
やり場のない怒りの矛先を、どこかで仕事中の咲に向け、アベルは空を睨んだ。
「まあまあ、落ち着きなさい、アベル」
隣に同じように膝を抱える格好で腰を下ろすと、カインはパピコの袋を開き、割った半分をアベルに差し出した。
ものすごくイヤそうな顔をしながらもパピコを受け取ったアベルと並んで、アイスを吸い、タバコを吸い。
「アベル。わたくしめはご主人様との今の生活がとてつもなく大切です」
「それは散々聞かされましたが、なぜあの女なのです? 金持ちも処女も、探せばいくらでもいるじゃないですか」
固まってなかなか出てこないパピコに苦戦しつつ、アベルが問いかけた。
カインはタバコを加えて夕日を見詰めながら、
「そうですね……わたくしめにこんなにも愛を注いでくださったのは、ご主人様が最初で最後だと思っておりますから。愛を与え、『ふつう』を教えてくださった、とても大切な方です」
「……兄上は『ふつう』とよくおっしゃいますが、『ふつう』とはなんなのですか? 僕にはさっぱり理解できません」
『ふつう』とはなんなのか。
『ふつう』になりかねているカインにとっては、難しい問題だった。
カインはしばらくタバコを吸いながら考え、そして。
「結局は、どんなにいびつであろうとも、『日常』を過ごせるかどうかでしょうね。毎日決まったことをして、決まったようにやりとりをして、ただただおだやかに過ぎ去っていく時に身を任せる。たまにはシケも来るでしょうが、おおかた凪の『日常』です」
ぽやぽやと煙でわっかを作りながら、とうとうと語るカイン。
「特別なことなど何もなくていいのです。変化もたまにでいい。平和に過ごし、帰る場所がある。きっと、それが『ふつう』なのです」
「……僕らは、『ふつう』ではないです」
そもそも、吸血鬼が『ふつう』だなんて、とんだ滑稽芝居なのだ。『非日常』である怪異の王が、『日常』を望むだなんて。
『ふつう』とは、案外上等品なのだ。
「……そうですね」
携帯灰皿でタバコを消したカインは、ひどく苦い笑みを浮かべた。
「ですが、そんなわたくしめでも、少しは『ふつう』に近づけたんだと思います。たとえそれが錯覚でも構いません。愛があって、何気ない『日常』が続いていく。わたくしめは、そんな『ふつう』を望んでいるのですよ」
「……兄上……」
思えば、生まれたときから兄弟は『ふつう』ではなかった。
真祖吸血鬼、アダムとイブの子として生まれ、周りから畏怖され、あるいは忌み嫌われ、両親からは偏った愛情しか与えられなかった。
両親に溺愛された自分はまだいい。
誰からも疎まれて育ったカインは、およそ愛などというものを知らなかった。それゆえか、ひたすらに破壊と殺戮に明け暮れていた。親にすらそのやいばを向けようとして、出奔したのだ。
そんな兄が今、『ふつう』に近づいている。
愛というものが教えてくれたのだ。『日常』の尊さを。
正直、アベルには理解しかねた。偉大なる真祖吸血鬼の子として、愛などとは口が裂けても言うべきではなかった。愛からはもっともかけ離れた血塗られた怪異とは無関係の感情だった。
……そのはずだったのに、咲がすべてひっくり返してしまった。
冷酷残忍な血に飢えたケダモノであったはずのカインを変えたのは、まぎれもなく咲の愛のちからである。
空っぽだったカインという器にありったけの愛を注ぎ込み、すっかり満たしてしまった。だからこそ、もっと愛を注ぎ込めるように、器であるカインの形が変わったのだろう。満たして満たして、また形を変えて、それでも満たして。
アベルは思い知った。愛は尽きることがないのだと。
「……完敗ですよ」
くすっと笑って、アベルがつぶやいた。
「でしょう?」
「まったく、あの女ときたら。まんまと兄上をたらしこんで……」
「ふふ、わたくしめの弟は口汚いですね」
「兄上が言わないから僕が言うんです」
食べ終えたパピコの殻を回収して、タバコを吸い終えたカインは立ち上がった。
「さあ、帰りましょう。今夜はあなたも晩御飯を食べていきなさい……ご主人様のお許しがいただければ、ですが」
いたずらっぽく笑うカインの表情は、今まで見たことがないものだった。
しかし、不思議と悪い気はしない。
アベルも立ち上がり、大きく伸びをして、
「ふん! あの女のことを認めたわけではないですからね! でも、兄上がそこまでおっしゃるなら行きましょう!」
「また言い合いを始めたりしないでくださいね?」
「それはあの女の出方次第です!」
アベルはどこまでもツンデレなブラコンだった。
夕暮れ時の川沿いの道を、ふたり並んで歩いていく。途中スーパーに寄って食材を調達して、夕餉の支度をし、遅い帰りの咲を待ってささやかな晩餐会が行われた。
ちょっとしたことでぶつかる咲とアベルの間を取り持ちながら、カインは『ふつう』の弟をうれしく思うのだった。
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