№13 『ふつう』

「そういえば、最近弟さん来ないねー」


 夕食後、かっちかちのハーゲンダッツを手であたためてゆるくしてもらいながら、咲は何気なくつぶやいた。


 あれからというもの、アベルは一週間ほど姿を見せていない。あの平手打ちがよほど効いたらしい。猪突猛進な弟も、すっかりなりを潜めている。


「……いえ、少々ケンカをいたしましてね……」


「ケンカ?」


 いい感じにゆるくなったハーゲンダッツを受け取り、咲はカインの膝の上でアイスを楽しんだ。


「んー♡ カインの体温がしみ込んだアイス、おいしー♡」


「それはようございました」


 にっこりしながら机の上の灰皿を引き寄せ、タバコに火をつけるカイン。合間にストローで飲むタイプのアル中御用達鬼殺しを挟みながら、ゆっくりと咲がハーゲンダッツを食べる姿を眺めている。


 引きちぎられたネックレスは、自分で修理して今も着けている。こんな簡単に直るようなもののために、弟に手を上げたと思うと恥ずかしくなった。


「……それで、ケンカって……」


「他愛のないことで激高してしまい、アベルを傷つけてしまいました。すべてはわたくしめが悪いのです」


「ケンカなんて、どっちかが完全にいいも悪いもないよ。弟さん、カインのことすごく慕ってるみたいだったからね。今までケンカなんてしたことなかったんじゃない?」


 咲の言葉に、核心を突かれたように目を丸めるカイン。


 やはり、初めてのケンカらしい。ずいぶん長生きしていると聞いているが、その間ずっとケンカのひとつもしたことのない兄弟というのも、なかなかレアだと思った。


 単なる仲良し、というわけでもない。例の毒親たちの影響もあったのだろう。互いが一線引いた、遠慮がちな間柄だったのではなかろうか。


 そう分析する咲に、タバコの煙と共にため息を吐き出すカインが答えた。


「……そういえば、ケンカらしいケンカなど今回が初めてですね」


「ああ、それは弟さん、相当にショックだったろうな。けどさ、兄弟ゲンカってどこにでもあるし」


 なんとなく言った咲の言葉に、カインはぱちぱちとまばたきをし、


「特別なことではないのですか?」


 驚いたような声音で問いかけた。


 その様子に咲の方も驚いてしまって、同じようにまばたきをしながら、


「う、うん。普通だね」


「……ふつう、ですか……」


 タバコを消し、ちゅうちゅうと鬼殺しを飲みながら自分に言い聞かせるようにつぶやくカイン。


 そう、『ふつう』だ。


 兄弟ゲンカなんて、世の中には腐るほど有り余っている。むしろ、ケンカをしたことのない兄弟なんて珍しいのではないか?


 そんなカインが、『ふつう』に兄弟ゲンカをして、後悔しながらも弟を心配している。『ふつう』の兄の顔をして。


 『ふつう』ではないはずのカインは、そんな『ふつう』をとてもいとおしく感じた。


 すべては咲が与えてくれたものだ。愛を注ぎ、多少いびつではあるものの『ふつう』の暮らしをくれた。そんな日々の繰り返しを、ひとは『日常』と呼ぶのだろう。


「……ご主人様」


 鬼殺しを置き、咲の目をまっすぐに見つめながら、カインは改まった口調で真剣に告げた。


「こんなわたくしめに、『ふつう』の愛を与えてくださって、本当にありがとうございます。こんな『日常』を、わたくしめはずっと欲しておりました。わたくしめを『ふつう』の世界へ導いてくださって、本当にありがとうございます」


 頭を下げるカインに急にそんなことを言われたものだから、カウンターを食らった咲は顔を真っ赤にして絶句してしまった。


 こんなの、ずるい。


 赤くなった顔を隠すように両手で覆い、咲は『情事』の絶頂にも似た感情の高ぶりを覚えた。脳内物質がびしばし出ている。


「……あの、カイン……頭、上げて……?」


「かしこまりました」


 どうしていいかわからなくて、とりあえず顔を見せてもらおうとした。


 真正面から咲を見つめるその顔は端正極まりなく、柔和で茶目っ気さえ感じる親しみやすさを感じる。良い年の取り方をしている、大人の男のそれだった。


「どうかなさいましたか?」


 にっこりと笑いじわを深めるカインは、まさしく慈父だった。


「ああああああああああああもうううううううううう!!」


 理性が弾け飛んだ咲が、奇声を発しながらカインをきつく抱きしめる。それを受け止めたカインはよしよしと背中を撫で、


「推せる! 推しまくる!! 髪の毛一本まで尊い!! 離さない!!」


「ふふ、かわいいご主人様」


 カインに抱き着きながら両足をばたばたさせる咲を、幼子をあやすように抱きしめ返す。


「カインが望むなら、私は絶対にこの生活を守るからね!」


「わたくしめも、ご主人様のお望みとあらば、そのように」


 ふたりとも、今の暮らしを手放したくないようだ。そうなれば、カインは実家には帰らず、咲に養われる生活を送ることとなる。今の生活がしあわせすぎて、咲もカインも、そんな毎日がずっと続くことを望んだ。


「ああー、カインー♡」


「いかがなさいましたか、ご主人様?」


「んー、呼んでみただけー♡」


 いちゃこらと胸になつきながら、そんな甘いやり取りをする。


『女! 兄上に近づくな!!』


 そんな激甘空間に、突如として一匹のコウモリが現れた。どうやら窓から入ってきたらしい。アベルの声でそう言い、コウモリはきいきい鳴きながらふたりの上を旋回した。


 こんな事態を想定して、咲はある兵器を用意していた。


 キンチョール、と書かれているスプレーを、ばたばた飛び回るコウモリに向かって容赦なく噴射する。


『ぎゃあああああああああ!!』


 悲鳴を上げるコウモリを執拗に追いかけまわし、殺虫剤をぶっかけまくっていると、いつの間にかコウモリはアベルの姿へと変じていた。


「……げほっ、げほっ……なにをする!?」


「……あ、効くんだ、これ……」


 おそるべし、俺たちのキンチョール、である。


「……アベル……」


 涙目でせき込むアベルに、立ち上がったカインはフクザツそうな表情を浮かべた。ケンカをした兄弟である、そんな顔になるのも無理はない。


「……別に、心配して見に来たわけではありませんよ」


 ふい、とそっぽを向き、あくまでツンデレっぽい発言をするアベル。『心配して見に来た』ことがありありとうかがえる。


 そんなアベルに戸惑うカインの背を、咲は、とん、と押した。カインは自分が悪かったと思っている。だとしたら、兄弟ゲンカを収めるためのやり方はひとつだ。


 咲にせかされ、カインは一歩前に出てアベルと対峙した。


 そして、しゅんとした顔をして口にする。


「……すみませんでした、アベル……思わず激高してしまって、あんなことを……愛する弟に手を上げるなど、兄失格ですね……」


 しょんぼりと謝罪するカインに、慌てたようにアベルがフォローを入れた。


「あ、兄上は悪くありませんよ! 僕が、大切なものを壊してしまったから……悪いのは僕です! すみませんでした、兄上!」


「いえ、そのような些細な事……いずれにせよ、暴力に訴えたのはわたくしめです……本当に申し訳ない……」


「暴力を振るわれるようなことをしたのは僕です! 兄上、どうか顔を上げてください!」


「はいはーい、そこまで!」


 キリのない謝罪合戦になりそうだったので、頃合いを見計らって咲が間に入った。両者ようやく口をつぐみ、頭を上げる。


「『ふつう』に仲直りできたじゃん。めでたしめでたし、ってね」


「お、女! お前にとやかく言われる筋合いはない!」


「あなたも『ふつう』だよ、アベル。『ふつう』の弟」


「『ふつう』などと……!」


「いいではありませんか、アベル。『ふつう』とは存外心地よいものですよ?」


「……う……!」


 仲直りをした兄がそう言うのだから、アベルはもう何も言えなくなってしまった。口をもごもごさせ、次の言葉を探している。


 そんなアベルに、カインは右手を差し出した。アベルは数秒間その右手を無視していたが、やがて渋々といったテイでその手を握り返す。


 仲直りの握手だ。


「よし、これで万事解決! よかったね!」


 咲までうれしくなって、思わず声が弾む。カインは照れたように笑い、アベルも笑みを噛み殺しているような何とも言えない表情になっていた。


 これで大団円、おしまい、となるはずだったが……

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