№12 愛ゆえに

 アベルの襲撃から数日が過ぎて、咲とカインの暮らしもすっかり元に戻っていた。


 もしかしたら今度こそ咲に危害が及ぶかもしれない、と心配したカインだったが、昼間のアベルならば咲でもグーパンひとつで黙らせることができる。また会社に突撃されても警備員さんに追い払ってもらえる。


 そういうことで、特に警戒もせず、ふたりの日常はゆるやかに過ぎていった。


 ある日の夕方、朝からパチンコに並んで数万円を溶かし、ドンキでどうでもいいようなものを買い、行きつけの赤提灯で早めの一杯を引っ掛けたカインは、夕焼けに染まる川沿いの道を歩いていた。


 今夜は咲が遅くなると言っていた。カインは特になにも食べなくても吸血行為だけで満足するので、疲れて帰って来る咲のために、なにか軽くつまめるものを冷蔵庫の中からチョイスした食材で作ることにしている。


 黄色いレジ袋をぶら下げてのほほんと歩いていると、いきなり近くの川面が、ざばあ!と湧き上がってきた。


「兄上!」


 カッパかと思ったら、頭にフナを乗せているアベルだった。夕暮れ時にずぶ濡れで、少し寒くなってきた今時期、小さく震えている。


「どうしたのですか、アベル。川遊びにしては少し遅すぎではありませんか?」


「……兄上を待ち受けていたつもりが、小学生のチャリ暴走族にはねられ、川に転落していたところです……へっくしゅ!」


 鼻をすするアベルを見て、相変わらずの不幸体質だな……と苦笑いするカイン。


 頭の上からフナを追い払ったアベルは、なんとかして居住まいを正し、


「それより、兄上! なにをなさっているんですか!?」


「ですから、なにを、と言われましても……わたくしめはこうして、今日もパチンコにドンキに赤提灯と、ご主人様のおかげで楽しい一日を……」


「うわああああああキキタクナイキキタクナイキキタクナイ!!」


 自分で聞いておきながら、アベルは必死に耳をふさいでカインの声を遮った。


「兄上! なぜそんなガチクズになり果てたんですか!?」


「いえ、ご主人様がそう望まれたので……それだけのことです」


 至極当然のように答えるカインに、息まくアベルは途端に苦虫を嚙み潰したような顔をした。


「兄上にとって、あの女は一体何なんですか!? ただの眷属じゃありませんよね!? どんな弱味を握られてるんですか!?!?」


 間合いを詰めるアベルは、どこかなまぐさいにおいがした。今夜はなめろうにでもしようかな……などと思いながらも、カインは突き付けられた問いかけを自分に投げかける。


 カインにとって、咲はどのような存在なのか?


 ただのヒモと飼い主、ではない。


 吸血鬼とその眷属、でもない。


 ただ血を吸うだけならば他の人間でも構わないし、カイン自身はヒモでなくとも働くつもりはある。


 しかし、そうしない理由はあるのだ。


「……アベル」


 ぽん、と濡れた弟の肩に手を置き、カインは神々しささえ感じる慈父の笑みを浮かべた。


「咲様は、かけがえのない愛すべきあるじ様です。そして、なくしてはならない大切な家畜です」


「……どういうことですか?」


 いぶかしむアベルに、カインはにこにこと続けた。


「咲様はボロキレのようになったわたくしめをいつくしみ、惜しみない愛を与えてくださいました。そして、人間をやめ、夜の世界をわたくしめとともに生きてくださるとおっしゃいました。この意思決定はなにに基づいていると思いますか?」


「……兄上らしくない、持って回った言い方だ。僕は、そういうのは嫌いです」


 ぶすくれた顔をするアベルに、カインは小さく笑って、


「では、単刀直入に言いましょう。愛ですよ、愛。すべての動機は愛なのです。咲様がわたくしめを養ってくださるのも、わたくしめが咲様のお望みになる通りに好き勝手振る舞っているのも、咲様がそのおからだを支配されることをお許しになっているのも、わたくしめが咲様を唯一無二の家畜として扱っているのも」


 愛。すべては愛だ。


 唐突に出てきた単語に、アベルはしばらく硬直していた。


 あの真祖吸血鬼の子、カインが。


 暴虐の限りを尽くしてきた希代の吸血鬼、カインが。


 自分の兄、カインが。


 今更、愛などと。


 これならば、ただのガチクズの方がどれだけよかったか。


 青ざめるアベルに、カインはトドメの一言を告げる。


「わたくしめは、愛に目覚めたのですよ、アベル」


 聞きたくなかった。


 そして、受け入れたくなかった。


 ゆえに、アベルはやり場のない怒りをカインにぶつけた。


「愛!? 愛だって!? 笑わせる!!」


 カインの手を振り払い、アベルは憎々しげに怒声を上げた。


「吸血鬼に、愛など必要なものか!! そんな下等な感情、人間だけのものだ!!」


「……アベル……」


 しゅんと眉尻を下げるカインは、さっきからずっと胸元のネックレスを触っている。アクセサリーなどつけるのを見たことがない、あの兄がネックレスだ。きっと、あの女となにか関係のあるものなのだろう。


 とっさに考えたアベルは、震える手でそのノットネックレスを引きちぎってしまった。ちりん、と金属音を立てて、地面に落ちるネックレス。


 夕日を反射するプラチナの輝きが地に落ちたのを見て、カインもまた、思わず手を上げてしまった。


 ぱちん!と音がして、平手で頬を打たれたアベルが顔を傾がせる。


「……あ……」


 激情に任せた行動に出てしまったことについて、カインは一瞬置いてから後悔と自己嫌悪に襲われた。初めて弟をぶった手のひらを見下ろし、呆然とする。


 平手打ちを食らったアベルは、頬が赤くなり始めたころにようやく手をやり、兄に打たれたという事実を再確認した。じんじんとした痛みは両手をもがれたときと比べれば蚊に刺されたようなものだったが、あのときよりもずっと重い。


 ふっと涙腺が緩んだので、アベルは顔をそむけるようにしてカインに背を向けた。そしてそのまま走り去ってしまう。


 ひとり残されたカインの脳裏には、夕焼けに染まる涙目の弟の横顔がずっとこびりついていた。

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