№4 征服者

「……うーん……」


 咲はうなされていた。なにか重いものがからだにのしかかっている。手足も自由に動かせず、ただただおぞけを振るうような寒気を感じていた。


「……起きろ」


 ささやくように命令されて、咲はうっすらと目を開ける。


 暗がりの中、よく見えないが間近にひとの顔がある。


 その整った相貌は、カインだった。


 たしかにカインだったが、眠る前とは明らかに顔つきが違う。慈愛に満ちあふれた笑みは、傲慢極まりない意地悪な笑みになっていた。一瞬、カインとはわからないほどに、その表情の違いは咲を混乱させた。


 豹変したカインは咲のからだを組み敷くようにのしかかっている。傲岸不遜なにやにや顔がすぐ近くにあり、鼻先が触れそうだ。


 要は、咲は今、カインに襲われているのだ。


 その事実をようやく認識した咲の頭は、急速にぐるぐると回転し始める。


 なんで?


 寝る前はあんな聖人君子だったのに、あれはすべて演技だったのか?


 もとから咲を襲うつもりだったのか?


 これから自分はどうなる?


 やっぱり、行き倒れの不審者なんて家に上げるとこういうことになるのか。


 妙なほとけごころを出して助けなければよかった。


 自分がこんな犯罪に巻き込まれるなんて。


 最悪、殺されるかもしれない……


 生命の危機を感じた咲は、カインのからだの下で青ざめ、がたがたと震え出した。


「……ほう、やはり私がおそろしいか、人間」


「…………」


 恐怖のあまり声が出てこない。これから犯されて殺されるかもしれないのだ。咲の脳裏に走馬灯じみたものが駆け巡った。


 しかしカインはその様子を嘲笑うだけで、


「当然の反応だろうな。なに、取って喰いはせん。一宿一飯の恩義に、ちょっとした不老不死などを貴様に授けてやろうと思ってな」


「……ふろうふし??」


 こいつは何を言っているんだろう?


 全然頭に入ってこず、咲はさらに混乱した。


 不老不死とは、老いない死なないということである。


 それはわかるが、なぜこの状況でそんな言葉が出てくるのか?


 もしかしたら、頭のおかしいひとなのかもしれない。


 だとしたらなおさら危険だ。


 身構える咲に、カインは、くく、と喉を鳴らした。


「貴様、吸血鬼、という存在に聞き覚えはないか?」


「……吸血鬼……」


 またしてもファンタジーな単語が飛び出してきた。


 そっち方面に疎い咲でも、もちろん知っている。


 ひとの血を吸って眷属とし、コウモリや犬に姿を変え、太陽の光やニンニクや十字架を嫌う超有名なモンスター。


 ハロウィンの仮装などでも親しまれているヴァンパイアだが、まさかとは思うが……


「そう、私は吸血鬼だ」


 そう言うと思った。簡潔な回答に、咲は頭を抱えたくなった。


 この高度に成長した現代社会で、吸血鬼?


 やはりカインは頭のおかしいひとなのだ。


 吸血鬼なんておとぎ話の中だけの存在が自分だ、なんて、正気のままではとても言い切れることではない。


「……け、けいさつ……!」


 ようやく思い至った咲がもがくと、カインは意外にもあっさりと咲の上からどいて自由にしてくれた。


「ふん、公僕か。まあ、呼んでも無駄だが呼びたければ呼ぶがいい」


 この状況でなにもしないほど、警察も無能ではないだろう。カインはそれをわかっていて『呼べ』と言っているのか? なおさら変な不審者だ。


 咲は抜けた腰でなんとか這いずって、枕元に置いてあったスマホで110番した。オペレーターに事情を説明すると、すぐに警官が駆けつけるという。


 マトモな人間と話をして少しほっとしたが、警官が現れるまでの数分間、生きた心地がしなかった。


「大丈夫ですか!?」


「どうなってますか!?」


 すぐにやってきた警官二名が、カギを開けておいた玄関から入ってきた。


 通報の内容とにやにや笑っているカインとおびえた様子の咲を見て、状況はおおかた理解したようだ。


「もう大丈夫ですよ!」


「そこの君! ちょっと署まで来てもらいますよ!」


「断る」


「はあ!?」


 きっぱりと拒絶したカインに、警官たちが呆れた顔を見せた。


「任意同行を拒否すると言うなら、住居不法侵入で現行犯逮捕してもいいんだぞ!?」


 腰の警棒に手を添える警官たちに、ずいっ、と歩み寄り、カインはその赤く染まった瞳で相手の目を覗き込んだ。


「私は貴様らの言いなりにはならん。ここでは何も起こらなかった。すべてはただの痴話ゲンカだった……いいな?」


 カインに目を覗き込まれた警官たちは一様にぼうっとした顔をして、薬でも盛られたかのような様子でうろんげにうなずいた。


 そして、おぼつかない足取りで、何も言わず去っていく。


「ちょっ……!」


 咲が助けを求めても、玄関のドアは無情にばたんと閉じた。


 あとに残されたカインが愉快そうに笑う。


「これでわかっただろう? 先ほどの現象はイビルアイ……邪眼、というやつだな。公僕どもを催眠にかけて従わせた。吸血鬼の能力の一部だ」


 たしかに、今のやり取りは普通ではなかったが……まさか、本当にカインは吸血鬼なのだろうか?


「正直、貴様を邪眼にかけて無理矢理に服従させてもよかったのだが、それでは面白くない。やはり、獲物は泣いてわめいて抵抗せねばな」


「……わ、私の血を吸うの!?」


 こわごわと後ずさりする咲の背後の壁に、カインは音を立てて手を突いた。壁ドンなど初めてされた。


 高い位置からさげすむように見下ろされて、なぜか咲はぞくぞくしてしまった。この胸の高鳴りは……?


「言っただろう? 一宿一飯の恩義で、貴様を不老不死にしてやろう、と。貴様ほどの年頃の娘には珍しいことだが……貴様、処女だろう?」


 急に突っ込んだことを聞かれて、咲は真っ赤になって動揺した。


「なっ、なんで知ってるの!?」


「なに、貴様が寝ている間に少し調べさせてもらった。まあ、調べずとも雰囲気でわかるがな」


 どこをどうやって調べた!?


 とっさに胸元をかばう咲を、意地の悪い笑顔で見下ろすカイン。


「ただのビッチならばグール……貴様らの言うところのゾンビのようなものになるだけだが、処女ならば血を吸えば私の眷属となり、同じ不老不死の吸血鬼となる。そういうことだ」


「……吸血鬼……私が……?」


「そうだ。ただし、メリットばかりではないぞ? 吸血鬼になるということは、貴様は人間ではなくなるということだ。貴様は私のしもべとなり、やがては昼を嫌い貴様自身もひとの血をすするバケモノとなる」


 にわかには信じがたい話だが、カインはそう言っている。


 咲は大いに戸惑った。


 どうやらカインは本当に吸血鬼らしい。そして、カインが血を吸えば咲は不老不死の吸血鬼となる。


 バケモノになるのだ。


 正直、バケモノになるということがどういうことなのか、ただの人間である咲には想像もつかなかった。が、自分が異質な存在に変化するのはこわい。自分が自分でなくなるというのは、思いのほかおそろしかった。


 ……しかし、この高揚感はなんだ?


 カインと同じバケモノ。そして、カインのしもべ。


 その響きに、咲はひどく興奮した。


 服従のよろこびと、征服されることの悦楽。甘い帰属意識。


 咲の中に隠されていた本性が、次第にあらわになっていく。


 そうだ、自分が求めていたのはこういうことだ。


 なぜだか、すっと腑に落ちた。


 そして、この吸血鬼とならその願望が叶うと確信した。

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