№2 真夜中は別の顔

 夜。


 互いに『おやすみ』と一日の終わりのあいさつをして、同じ部屋のシングルベッドに、咲とカインはそれぞれ横たわった。


 そして今、深夜零時。


 ふたつ並んだベッドの片方に潜り込みながら、咲は暗闇の中、まだ眠らず息をひそめていた。


 慣れ親しんだ自分の寝床だというのに、まるで狩場に置き去りにされた小動物のように。


 あるいは、雨の中凍えるからだを軒先に寄せる子猫のように。


 小さく震えていることに気づいて、ぎゅっと手を握りしめる。その手も手汗をかいていた。


 しかし、それは恐怖からではない。


 期待だ。これからやってくることに、咲は胸を高鳴らせていた。


 もうすぐ来る。いつも日付が変わるころだ。きっと今日も来るに違いない。


 ……やがて、もう片方のベッドがもぞりと動くと、布団の中から人影が這い出てくる。


 その人影は咲の布団にそっと侵入すると、背後から腕を回し、耳元にささやきかけた。


「……起きろ、私のしもべ」


 それは紛れもなくカインの声だった。が、昼間のカインはそんな言葉は口にしない。そして、こんな傲岸不遜な口調でもない。


 だが、そう耳に吹きかけたのは、間違いなくカインだった。


 咲が目を開くと、そこにはにやにやと笑うカインがいた。


 メガネをかけていない瞳は、昼間とは打って変わってらんらんと赤く輝いている。崩した髪からその鮮やかな赤が垣間見えた。


 そして、咲の目もまた赤い色に変わっている。


「……はい」


 か細く答えた咲のからだに馬乗りになって、夜這いをかけたカインはひどく傲慢な笑みを浮かべた。


「わかっているな?」


「はい」


 カインもそうだが、咲も昼間とはまったく違ってしおらしくなっている。主従が逆転したかのような、そんなやり取りだった。


 咲のからだを征服したようにまたがるカインは、からだをかがめて首筋にくちびるを寄せる。


 そして、その長い舌でちろちろと咲の首筋をなぶり始めた。


 顔を真っ赤にしてこぶしを握り、早鐘を打つ鼓動を必死に鎮めようとする咲。しかし、それは無駄な抵抗だった。一度快感のため息がこぼれてしまえば、あとはなし崩しだ。はっはっ、と夏場の犬のように小刻みに呼吸が揺れた。


 そんな風に乱れる咲を見下ろして、カインは捕食者の顔で舌なめずりをする。


「……さて、今宵はどのようにして血をいただこうか?」


 カインは咲の血を欲している。


 それもそのはず、カインはまごうことなき純血の吸血鬼なのだから。


 ひとの血を吸い、眷属あるいはグールと成し、圧倒的な暴力を誇り、コウモリや犬に姿を変え、不老不死であり、ニンニクや十字架を嫌い、夜を支配するノスフェラトゥ。


 モンスターたちの頂点に君臨する夜の王。


 昼間こそ聖人君子のようなカインだったが、夜になればこうして吸血鬼の本性を現し、咲を襲う。


 もう何度目だろう。咲はぶるりと身を震わせてとろけた吐息をこぼした。


 処女である咲は、血を吸われることによってカインの眷属になった。咲もまた吸血鬼なのである。まだ他人の血を吸ったことのない未熟な吸血鬼だが、たしかにカインの眷属だ。


 そして、吸血鬼にとって血を吸うことは性行為と同義だった。


 吸血されるときの、あの目もくらむような快感。吸血鬼特有のあの魔力のおかげで、血を吸われたものは媚薬を盛られたかのような途方もない悦楽に襲われる。


 咲はその快楽が忘れられず、こうして夜ごと繰り返される夜這いを待ち望んでいるのだ。


「……どうした、震えているぞ?」


 あおるような口調で笑うカインを、焦らされた咲は涙目で見上げ、


「……カイン様……どうか、今夜もひどくしてください……」


 頬を紅潮させ、懇願した。


 昼間はあんなにしゃきしゃきと働いていた咲は、実は隠れドMだったのだ。


 咲がカインを推して止まない、もうひとつの理由。


 それが、この征服者のような吸血行為だった。


 咲のおねだりに、カインは指先にゴミが付着した程度の不快感を表した。


「ふん、貴様ごときが、私に指図するか?」


「……滅相もございません……」


「仕置きだ、まだしばらくなぶってやる」


「……ああ、カイン様……!」


 傲然と告げたカインは、また焦らすように咲のからだのあちこちを甘噛みし始める。とがった犬歯が皮膚を刺激するたび、咲は期待に身もだえた。


 散々お預けを食らった咲はすっかり出来上がっており、頬を赤らめはあはあと息を乱し、目には涙をためてている。その姿は、干物女とは思えないほどあでやかなものだった。


 その嫣然とした様子に劣情を刺激されたカインは、満足したような顔をする。


「よかろう。今夜もいただくとするか」


「……ああ、カイン様……カイン様……かいんさ……ああっ!!」


 ぶづり、と咲の首筋にカインの犬歯が沈み込む。その瞬間、咲の全身に快楽の電気信号が走り、絶頂を迎えたかのようにからだをえびぞりにさせた。


 咲の首に顔をうずめるように血を吸うカインもまた、ふっ、ふっ、と息を荒くしている。血肉をむさぼるケダモノのように乱暴に咲を抱きしめ、その血をすすっていた。


 びくびくと震えるふたりのからだが重なり、ひどく血なまぐさい性行為がクライマックスを迎える。


 すっかり呼吸を乱して恍惚とする咲を、同じく荒い息をしているカインが、らしくもなく壊れ物のように抱きしめた。


「……はっ、あ……今宵も美味だったぞ、サキ……」


「……はあ、はあ……光栄です……カイン様……」


「……まったく、貴様ときたら……すっかり私のメス豚だな……」


「……はい……私はカイン様の家畜です……いかようにもしてください……」


「……言われずとも……」


 そう言ったきり、カインは疲れ果てたようにぐったりと咲にからだを預けてしまった。そのまま寝息を立て始める。


 やがて咲もまた、快感に翻弄された倦怠感から眠りに落ちていった。


 同じベッドの上で眠りにつく二匹のケダモノは、夜の時間が過ぎ去るまでゆるく抱き合って朝を迎える。


 


「……昨晩も、大変申し訳ございませんでした……」


 翌朝目を覚ますと、そこにはベッドに土下座をするカインの姿があった。


 嵐のような夜が過ぎ去れば、また聖人君子なカインが戻ってくる。このギャップがまた、咲にとってはたまらない魅力だった。


 しょぼんとうつむくカインに抱き着き、咲はすりすりと頬を寄せる。


「いいんだよ、カインはそのままで!」


「……ご主人様がお許しくださるのでしたら……」


 ようやく顔を上げたカインはすでに着替えを済ませており、いつものようにメガネをかけていた。その奥の瞳も、いつも通りの柔和な琥珀色である。


「さあ、朝の支度をいたしましょう。湯を沸かしますので、ご主人様はゆっくりなさってください。あとでおぐしもおすきしましょう」


「えー、もうちょっとー」


「朝はいけませんよ。タイムスケジュールが肝心です。ご主人様がおくつろぎになっている間、わたくしめは朝食の準備をしなければなりません。どうか、お聞き分けを」


「うー、わかったよ」


 渋々ベッドから降りた咲は、生あくびを噛み殺しながらバスルームへ向かった。


 バスタオルも仕事着も、きっちりアイロンをかけて準備されている。浴室暖房までかけており、あたたかいバスルームでシャワーを浴びると、咲はちょうどいい温度に調整されたバスタブにからだを沈めた。


 シャワーを浴びている間から、ずっと首筋に違和感がある。手をやると、そこには昨日血を吸われたうっ血痕があった。ひとつやふたつではない。新旧様々な牙の痕跡が、いくつも首筋に散らばっていた。


 普通の性行為ならばキスマークに当たるのだろうな、と咲は思う。


 自分以外の男を寄せ付けないための、マーキングじみた行為。カインがわざと襟の開いたブラウスを用意しているのも、そのためなのかもしれない。


「……ふふっ」


 そんな独占欲を心地よく思って、咲はつい笑みをこぼしてしまった。


 バスルームから出てからだをふき、仕事着に着替えると、ダイニングに向かう。テーブルの上にはバターの乗ったトーストとスクランブルエッグ、鶏むね肉とアボカドのサラダ、そして香り立つコーヒーが準備されていた。


「いただきまーす」


 トーストをかじる咲の背後では、エプロン姿のカインが髪にドライヤーをかけてくれている。締めのコーヒーを飲み終えるころには、髪はすっかりブローされて乾いていた。


「おいしかったよ」


「光栄です、ご主人様」


 ドライヤーのコードをくるくると本体に巻き付けながら、カインは笑いじわを深くする。昨晩とは大違いだ。『真夜中は別の顔』とはよく言ったものだった。


 通勤電車の時間まであと少しだ。こういう時は、多少高くても駅近のマンションを買っておいてよかったと思う。


 パンツスーツのジャケットを羽織り、通勤かばんを肩から下げた咲は、ローヒールのパンプスをはいて玄関に立った。


 もちろん、カインも見送りをしてくれる。


「いってらっしゃいませ、ご主人様。今日もお帰りをお待ちしております」


「カインも、スマホゲーの課金イベント楽しんでね。ワインセラーにいいワインもあるから、飲んでいいよ」


「ありがとうございます。イベントが終わった後でお帰りの支度をしてお待ちしておりますので、どうかご無理をなさらず……」


「ああーもう!! 推せる!!」


 心配そうにするカインにぎゅっと抱き着き、出勤前の充電タイムを過ごす。


 こうして出社してばりばり働き、帰宅して甘え、夜になると血を吸われ、朝が来て甘やかされ……という日常が、ここ数か月続いていた。


 そう、数か月しか経っていないのだ、『あの日』から。


 もっとずっと長くいっしょにいるような気がしていたが、ふたりの出会いは数か月前にさかのぼった。

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