第三章 2

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 ラーズバルズ帝は帝妃カリドウェンが自ら活ける真紅の花をじっと見つめていた。

 その、花びらを幾重にも重ねたような独特の咲きぶりは見たことのないものだった。

「陛下、季節の花が咲きましてございます」

「……それはなんという花だ」

 カリドウェンは振り返って微笑んだ。夫は武骨な性格で、およそ花などに興味を示すことなどのない人間であったから、珍しいことだと思ってのことだろう。

「芍薬でございます」

「そうか、芍薬か」

「赤が咲くのは珍しいので、切って参りました」

 そのうすい花びらは重なっていると厳かだが、一枚一枚を日に透かすと驚くほど繊細である。それは、まるで誰かの唇であるように。

 それで母を思い出して、ラーズバルズはふっと目をそらした。そしてため息をつくと、重々しく立ち上がった。

「会議の時間だ。夜は遅くなる。先に寝ていてよい」

「かしこまりました。いってらっしゃいませ」

 一礼するカリドウェンに送り出され、廊下を歩く。しかし、考えるのはこれからの会議の内容でもなく、妻のことでもなく、先程見た花のことばかりであった。

 ――母は、赤い芍薬のようなひとであった。

 会議の真っ最中であるというのに、ラーズバルズはそのことばかりを考えている。



 ラーズバルズの父帝ヤヴンハールは質実剛健だが裏を返せば粗暴なひとでもあって、情緒を理解せず風情などという食えないものはなんの腹の足しにもならんと馬鹿にし、大声で話し大股で歩き学者や知識に敬意は払うが読書などは一切しないという、豪と剛を地で行くそのもののような性格であった。

 そのヤヴンハールの一人息子として、ラーズバルズは生まれた。遅くに出来た子供であったので、それなりに可愛がられたようではある。母の名はアールヴヒルドといって、色が抜けるように白く、髪は烏の濡れ羽色で、唇は紅もはいていないのに赤い、美しいひとであったと記憶している。

 幼いラーズバルズと母はよく城の庭で駆け回って遊んだものであった。アールヴヒルドはあまり身体の丈夫なひとではなかったが、それでも精一杯の慈愛でもってして息子を育てた。本を愛し、花を愛し、夫を愛した、そんな女性であった。

 しかし、その生来のおとなしい性格を、つまらないものだとヤヴンハールは毛嫌いした。 息子が生まれてからは、彼女の閨にも近寄らなくなった。

 そして、他の女に現を抜かした。

 それが宮廷魔術師のグラーニャという女であった。

 美しい女であった。

 太陽のように光り輝く流れるような長い金髪と、すみれ色の妖しい瞳を持つその魔導師に、ヤヴンハールは一目で魅了された。

 その日から、大っぴらな逢瀬が宮殿で広げられた。昼も夜も問わないその逢い引きは家臣はおろか侍女女官の類、下男の下々にまで知られ尽くした。嬌声は憚られることなく響き渡り、ある者は耳を塞ぎある者は足早にそこを立ち去った。

 帝の不倫はまた、宮殿内の公然の秘密とされた。どこに外敵が潜んでいるかわからないし、民にでも知られたら厄介だ。

 幼いラールズバルスにはなにが起こっているのかはよくわからなかったが、ある日を境に母から笑顔が消え、それと同時に母が寝込むことも増え、父が自分のいる宮に姿を見せなくなり、家臣たちが悩ましげに廊下でひそひそと集まって話すことが多くなっていることには、なんとなく気がついていた。

 そして、あの金の髪のすみれ色の瞳をした若い女が、得意気に宮殿の廊下を歩いているのも気がついていた。

 それは、まるで太陽の化身のように。

 ある日庭で勉強をしていたラーズバルズは、温室に入っていく人影をみとめた。六歳の頃であったと思う。

 父と、あの金髪の女であった。

 そこで、そこにいた家庭教師に尋ねた。

「あれは誰です」

「お父君と、宮殿の宮廷魔術師殿です」

「その二人が温室でなにをしているのです」

「……殿下には与り知らぬことかと」

「なにをしているのです」

「殿下」

 家庭教師は強い調子で言った。

「世の中には、知らない方がよいこともあるのです」

「父上がそれをしているというのですか」

「……」

「教えてください」

「……そうです」

 あの女のせいだ。なんとなく、そう思った。そして間接的に、母上が最近具合が悪いのもそのせいだと思った。少年特有の、息子の勘というやつであったかもしれない。

 その夜、ラーズバルズは母の見舞いに行った。母は花の好きなひとであったから、名は知らないが花を摘んでいった。

「母上」

 母は、相変わらず白い顔をして横たわっていた。白いというよりはそれを通り越して青白く、この世のものではないのではないかと危惧するほどに青いその顔色は、血管まで浮いて見えるようだった。

「ラーズバルズ」

 女官に助け起こされて、母は起き上がった。

「来てくれたのですね」

「お加減はいかがですか」

 彼は持って来た花を差し出した。

「まあ、薔薇を持ってきてくれたのですね。もう翠縹の月が来たのね」

 渡された薔薇の香りを嗅いで、そしてその黒い瞳からはらりと気配もなく涙がこぼれた。「母上……」

「ごめんなさい……わたくしがこんなだから陛下は……わたくしに愛想をつかされてしまったのです……わたくしが到らないせいで」

「それは違います」

 少年は語気を強めた。

「母上のせいなんかじゃない。みんなあの女が悪いんです。あの女が父上をたぶらかしたんだ。母上はなにもしていない。悪くなんかない。悪くなんかないんだ」

「ラー……」

 叫ぶや、少年は母の寝所から走り去った。そしてやり場のない怒りをどこにぶつけていいかわからず、庭の芝生を毟りまくった。母の寝所、母と父のものであるはずの寝所に、何故か帰って来ない父、あの宮廷魔術師の部屋に入り浸り、享楽に耽っている父が憎かった。母を絶望のどん底に突き落とし、辱め、誇り高い帝妃の立場をなきものにしたあの女を殺してやりたかった。

 女への憎しみはいつしか、魔導師への怒りと変わっていった。父の心変わりはひとえにあの女の美貌と魔道による神秘の術ゆえと信じて疑わなかった。

 母は日に日に衰弱していき、枕も上がらなくなり、ある日とうとう、吸った息をそのまま吐かなくなるかのように亡くなった。

 純真で無垢なはずの子供時代は暗黒で人間不信に満ちたものに成り変わった。それでも彼がひとを愛することができたのは、主として母の慈愛に満ちた育て方が大きく影響したからであろうか。

 とにかく、ラーズバルズが十五の時、それは突如として起こった。

 父帝が亡くなったのである。

 落馬の事故だった。

 そもそもが高齢のことであったし、なにがあっても不思議ではないことではあったが、なんにしても突然のことであったので、誰もが驚いた。

 しかし一番驚いたのは愛人の宮廷魔術師グラーニャであっただろう。年を経たとはいえ未だ衰えることを知らないその容姿は健在で、魔導師というよりは魔女といった方がいいのではないかと家臣たちが囁くほどに妖艶なそのつやめきは、とてもとても四十代とは思えないほどの輝きであった。

 その美貌でもってして一国の城主を誑かした女が、今その男がいなくなってどうすればいいというのだろう。

 即位はまだだが、城代となったラーズバルズの足元に額づいて、グラーニャは命乞いした。

「殿様、哀れな女をどうかお助け下さいませ」

 しかし、ラーズバルズは氷よりも冷たい声でこう言い放ったのである。

「殺せ」

 彼女を見下ろすその瞳は、家臣たちが慄くほど冷徹だったと言われている。

「生きたまま皮を剥げ。簡単に死なすな。責めて責めて責め抜いて、頼むから殺してくれて懇願してもまだ足りぬほどに責め抜いて、生きる事に絶望するまで責めて、そこまでやってから殺すがよい」

 泣き叫ぶグラーニャをそこに置いて、ラーズバルズは玉座の間を後にした。復讐は始まったばかりだった。

 十六になるのを待ち、即位した。成人になる十八になって、見合いをした。自分は父が憎い。そんな自分が、人並みに誰かを愛せるだろうか。子を成すことなどできるだろうか。 どんな美しい、若い女性と会っても心を動かされなかった。やはり自分はひとなど愛せないのだ、と苦々しい思いでいた時、

「陛下、最後の候補者でございます」

 と侍従が告げた。どうせだめで元々だと諦めつつ入らせるがよい、と投げやりな気持ちで言い放ち、侍従が扉を開けるのを放心して見ていると、その女性は入ってきた。

「――」

 その時のことを、よく覚えている。

 黒い、つややかな髪。闇色の、不思議な瞳。桜貝のような爪、そして、紅でもはいたのだろうか、赤い唇。

「母上」

 思わず立ち上がっていた。

 相手は少し驚いたように自分を見上げ、そしてにっこりと微笑んだ。

「お初にお目もじかないます、陛下。カリドウェンと申します」

 それで、見合いの真っ最中だと気がついた。慌てて一礼し、非礼を詫びる。胸がどきどきしていた。

 いくつだろう。確か、まだ十六だといっていた。領内の貴族の娘だとか。

 小鳥のような声をしている。本が好きなのだな。母も本が好きだった。花が好きなのか。 母も花が好きだった。

「……あなたは」

「――えっ?」

 気がついたらこう問い掛けていた。

「あなたは、疑問には思わないのですか」

「なにをで、ございますか?」

「こうした形で結婚をすることにです」

「……」

 娘は少し考えているようだった。この質問は、見合うどの娘にもしているものだった。 両親が踏んだ轍と同じものは踏まない。だから、結婚には慎重になる。ラーズバルズは結婚に懐疑的だった。

「そうですね……」

 きっとこう言うだろうな。若い帝は高を括っていた。知り合えば、後から感情がついてくるものですわ。そうすれば、あとは自然に愛し合えるはずです。

 しかし、違った。

「最初は、ぎくしゃくして当然だと思います。家と家の結婚というものは、そういうものだと思っています。ですが、そういうものからつながった者同士というのは、個人の結びつきよりも強いものを持つと思っています」

「――」

「それに、わたくしは陛下を幼少時よりお慕いしております。陛下はご存知ないでしょうが、一度お庭でお見かけしてから、ずっと気にしていましたのよ。ですから、まるきり知らないお相手というわけではありませんの。そこらのご令嬢よりは、陛下のことをよほど知っているという自負がございます」

 面白い。

 母に似ているだけではないようだ。

 カリドウェンが帰って行って、着替える帝に側近は尋ねた。

「陛下、お気に召したご令嬢はおりましたかな」

「最後の娘にする」

「は……」

 彼があまりにもさらりと言ってしまったので、側近は度肝を抜かれた。

「最後のと仰いますと……カリドウェン・リーズベル嬢でございますか? あちらはあまり身分が」

「構わぬ。あれにする」

「ですが」

「くどい。成人を待って、挙式だ」

 鶴の一声に、側近は頭を下げた。こうして二年ののちに、ラーズバルズは愛のある結婚をしたのである。自分でも驚きの結果であった。

 不幸な幼少時代とは裏腹に、幸せな結婚生活を送っていることには罪悪感があった。自分の今の生活は、母の不幸の上に成り立っている、そう信じて疑わなかった。

 五年が経って、息子が生まれた。さらに三年が経って、次は娘ができた。しかし、心の底から満たされたと思うことはなかった。

 こんなに満たされないのは、戦いが足りないからだ。

 若い帝は心の渇きを癒すかのように戦場を駆け巡った。彼は父に似て武芸に秀でていたから、帝国は戦勝に次ぐ戦勝で繁栄を遂げていった。彼の三十代は、戦いに満ちたものになった。

 しかし、渇きは少しも癒えなかった。

 ある日思った。

 自分は、父に似て武骨だ。本を読まない。だから満たされないのかもしれない。

 心の渇きがあるのは、知識が足りないせいではないのか。妻を見習って、読書をしてみてはどうか。

 そこで、遅まきながら本を読み始めた。息子と共に児童書を読み、娘に絵本を読んで聞かせ、次第に読むことが面白くなっていって哲学書を読むようになり、学者を呼んで議論するまでになった。

 ある日、古い本に気になることが書かれていた。それにはこう書かれていた。

『北のヴプリウムの湖の元に 贄を捧げれば 願いは意のままに』

 初めはただのおとぎ話だと思っていた。しかしその本にある記述の、どの話にもある信憑性をも考えると、どうもその一文だけをおとぎ話と考えるのは無理があった。

 湖? 贄とはなんだ?

 彼はその道に詳しそうな学者を呼んで、その一文について質問してみた。

「恐れながら、ヴプリウムというのはわたくしも聞いたことがございません。なんらかの暗喩かと思われます。考えられますに、なにかの名前かと思うのが一般的でございましょう。それに贄を捧げれば、どんな願いでも叶う、ということでございましょう」

「北の湖とな。どの湖だ」

「ヴプリウムの湖、でございましょうな」

「だから、どこだ」

 ラーズバルズはいらいらとして聞いた。

「はて、贄を用意さえして、北の湖に行きヴプリウムよ、これなる贄を認めよ、我は汝に贄を捧げる、とでも唱えれば、現れるのではないでしょうかな」

「なんでも願いは叶うのだな」

「意のままに、とあるのであれば」

 そう言って学者は下がって行った。

 夕日の射す図書室で、ラーズバルズは一人、考え込んでいた。

 願いは意のままに。

 意のままに、か。

 俺は帝だ。欲しいものはなんでも手に入る。妻も、息子も、娘も手に入れた。武芸も、知識も意のままだ。父は死に、憎い女もまた死に至らしめた。

 欲しいものはみんな手に入れた。なのに、この心の渇きはなんだ? これだけ手に入れたのに、なぜ俺はまだなにかを欲している?

 ラーズバルズ。

 誰かに呼ばれたような気がして、彼はハッとして後ろを振り返った。

 お茶の時間ですよ。

 母がそこにいた。

「――」

 幼い自分と笑顔で戯れる母が、そこに佇んでいた。彼は茫然としてその幻に目を奪われた。

 母上――

 これか。これのために俺はずっと走り続けていたのか。幻の自分と母は、笑いながら自分の脇を駆け抜け、あちらへ行ったかと思うと、すっと消えて行ってしまった。

 彼は額に手をやった。

 願いは意のままに。

 贄を。

 ――そういうことか。

 すべてが繋がった気がして、彼はうつむいたままにやりと笑った。そして静かに立ち上がると、悠然と図書室を出て行った。

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